『空の剣』

高橋三千綱著、集英社刊 1900

 本書の冒頭に、筆者は、次のちょっと印象的な文をおいている。「幕末に、剣術の達人といわれる人は多く輩出したが、剣聖と呼べるのは男谷精一郎ただ一人である。」

 サブタイトルに「男谷精一郎の孤独」とあるとおり、本書は男谷精一郎の物語である。本書の冒頭には、上述の文を書き出しに、筆者がなぜ男谷の物語を書いたのか、というエッセイ風の説明が付いている。要約すれば、先ず男谷に関して伝わっていることは極端に少なく、したがって小説にしやすいということ、また、キャラクタとして面白く、そのため森鴎外や直木三十五などもずいぶん精力的に調べていたのだがなぜか書かずじまいになっていた、というようなことである。

 筆者は、昭和53年に芥川賞をとっている実力派であるが、ポルノ小説も含め、やたらと広い範囲の作品を書く人で、作家としてのイメージがつかみにくい。剣豪小説も、以前に「剣聖一心斎」というものを書いていた。男谷同様、江戸期の剣聖といわれた中村一心斎を描いたものだが、これは妙に軽い作品で、あまり感心しなかった。だから、実をいうと、本書についてもあまり期待せずに手に取ったのだが、意外に重厚かつ爽やかな作品に仕上がっていて、気持ちよく読めた。

 男谷というと、直心影流の達人として知られているが、本書では、平山行蔵の門人としてだけ描かれていて、直心影流の名は全く出てこない。平山という人は、いち早くロシアの南下政策に警鐘を鳴らし、海防の急を唱えたため、近藤重蔵、間宮林蔵とともに「蝦夷の三蔵」と呼ばれた幕末の奇傑である。しかし、本書の冒頭に現れるエピソードで語られるとおり、平山行蔵の道場は、幕府に提出した北辺防衛の建白書が余りにも過激であったため幕府から咎められ、男谷が16歳の時に閉鎖されるに至った。そこで、男谷は平山の紹介で、本所亀沢町に道場をもつ直心影流の団野真帆斎の弟子となる。本書に描かれているのは、その平山道場が閉鎖され、団野道場に入門するまでの短い期間の物語ということになる。

 作中に、男谷と同じく平山の弟子として、下斗米秀之進という人物が現れる。本書の段階では作者が全く説明を書いていないので、私が余計な注を書くと、彼は、後年相馬大作の変名で津軽藩主を狙撃しようとして獄門の刑に処せられた。作中に同じく秋山要助という人物が現れる。この人は、熊谷の紺屋の倅として生れたが、幼少から剣術を好み、神道無念流の達人となり、旅を好んだところから、侠客の仲間に親しまれた。かの大親分になつた大前田英五郎も彼の弟子だったという。このように、多数の実在の人物も含めて、虚実取り混ぜた様々な人物を背景に、若き日の男谷精一郎の心の軌跡を巧みに描いた作品である。

 本書は、「小説すばる」に数年掛けて、断続的に掲載された作品に、さらに大幅な加筆修正を加えたものという。しかし、作品としては中途半端な終わり方をしている。例えば、勝小吉(勝海舟の父)が全く登場していない。小吉は、下斗米などとともに、平山門下の四天王の一人であるし、彼の書いた「夢水独言」は、若き日の男谷に関して確実な事実を伝えている数少ない一次資料である。したがって、数年後には、続編を期待することができると考えている。

 

 

『ハゲタカは舞い降りた』

ドナ・アンドリュース著、早川書房刊、900

 本欄は、これまで同じ作家を二度取り上げるということは原則としてしてこなかったし、例外的に取り上げる場合でも同じシリーズを取り上げる事はしなかった。しかし、本書はあまりにも面白いし、本シリーズの第1作『庭には孔雀、裏には死体』を取り上げたのは3年も前のことだから、それを記憶している方も少なかろうと、再度取り上げることにした。

 本シリーズは、第1作の時点ですでにアガサ賞をはじめとして三つもの賞を取った傑作ユーモアミステリとしてスタートした。第2作『野鳥の会、死体の怪』は、設定的には第1作の延長で、基本的にはヒロインにして探偵役のメグ・ラングスローの変人・奇人の親戚を巡る話題で笑いをとる作品であった。しかし、第3作の『13羽の怒れるフラミンゴ』では、メグの職業である鍛冶屋、すなわち鉄を素材として作品を作る前衛芸術家という設定を生かした面白い作品になっていた。ちなみに、そのタイトルは、メグは鋳鉄製のフラミンゴを作ったことを巡る事件であるところから来ている。

 本書は、これまでの3冊と違い、メグの両親と弟を除いて、まったく親戚が出てこない。代わって登場するのがプログラマー達である。

 メグの弟ロブは、これまでのシリーズの中では、司法試験を目指していたが、試験勉強をするべき時に、それをそっちのけにして「地獄から来た弁護士」というロール・プレイイング・ゲームの創作に血道を上げていた。その後、コンピュータ通の友人に手伝って貰って、それをコンピュータ・ゲームにし、既存のゲーム会社に売り込もうとしてうまく行かないことが描かれていた。

 そこで、ロブは自分で会社を作ることにし、メグなども、その資金繰りを手伝った。その結果、ゲームは大ヒットし、ロブは今では年商百万ドルの会社の社長になっている。

 ところが、その会社の中で何かがおかしい、とロブは感じた。そこで、たまたま鍛冶屋仕事の最中に間違って左手を怪我して本業をやれなくなっているメグに、しばらく彼の会社を仕切ってくれるように頼んだところから、本書は始まる。

 おそらく読者の皆さんも、これまでに何か、コンピュータ会社の設立にまつわる物語を読んだことがあると思う。一つでも読んでいれば、プログラマーという人種が、有能であればあるほどかなり突飛な仕事ぶりを示すことはご存じとともう。したがって、彼らだけでも、変人・奇人をそろえたメグの親戚真っ青の珍騒動が、ロブの会社で展開されるであろうことは、容易に想像が付くと思う。

 タイトルのハゲタカは、この会社の受付に、本物の生きたハゲタカがオフィス・マスコットとして頑張っていることに由来する。この会社では、ハゲタカばかりでなく、“ペットを職場に連れて来よう”という運営方針のため、多数の犬が職場内を走り回っている。さらに、オフィスビルの賃貸契約上のトラブルから、前からオフィスを借りていた数人のセラピストが、同じフロア内に居座っている。ただでさえ、異常な人種であるプログラマーに加えて、これだけの味付けが行われいると判れば、後の説明はいらないであろう。メグと父親が、殺人事件捜査の最善の手段として深夜のオフィスで踊り狂うところなど、まさに絶品である。ユーモアミステリ好きの方にお薦め。