『弘海ー息子が海に還る日』

市川拓司著、朝日新聞社刊 1300

 最近、インターネット出身という新しい種類の作家が出現している。本書の作者はその典型というべき人物である。そのデビュー作『Separation』は、1999年に自らのホームページ上で連載を開始したところ、その評判が口コミでネット上に広がり、一年がかりの連載が終わったときには、延べ12万人に読まれていたという。それが2002年に書籍として刊行されると、今度は書店員のお薦めという形で評判を呼んで、ロングセラーとなり、テレビドラマ化もされたそうだ。

 また、『いま、会いにいきます』は、販売部数100万部を突破し、映画化もされた。その後も『恋愛写真ーもう一つの物語』『そのときは彼によろしく』など、矢継ぎ早にヒットを飛ばし、本書が最近作という事になる。

 この作者の紡ぎ出す物語には大きな底流が三つある。一つはSF的味付け。物語そのものは、家族の情愛をしみじみと描いたもので、決してそのものずばりのSFではないのだが、どこかしらSF的な設定が隠れているのである。特に本書の場合、SFの名作である『アトムの子ら』(W.H.シラス著、ハヤカワ文庫1981年刊)へのオマージュとも言える作品なので、もしそれが未読であれば、物語の感興が幾分そがれると思われる。残念ながら、この書は現在絶版なので、未読の方は古本屋で探す他はない。

 二つ目は病気。どの作品でも、何らかの病気に主人公が掛かっていて、その病気の進行が物語の緊張感を高めるという仕掛けになっている。なぜどの話も病気がメインテーマなのか不思議に思って、作者のホームページにアクセスしてみたら、日記風の記述の中に、バイクで走っている最中に、手足がしびれて路肩に30分も寝ていた、といった、『いま、会いにいきます』の主人公そのままの闘病生活が書かれていて、なるほどあれは、自画像なのか、と納得がいく。逆にいうと、そうした自らの体験が、病気の描写の迫真性を増して、我々読者を物語り世界に引き込む原動力となっているのである。

 三つ目はミステリー的味付け。たいていの作品では、読者が物語が終わったと思った、その後に少し長めのエピローグがついていて、そこで、あっと思うどんでん返しを用意している。SF的説明はこの部分で出てくる事が多い。本書は例外だが。

 実をいうと、この作者の作品を紹介するのは気が進まなかった。紹介するとなると、少々個人的にみっともない事を書かなければならないからである。しかし、紹介する以上は、避けて通れないから腹をくくって書こう。私は、この作者の作品を読むと、泣くのである。決してお涙頂戴の物語ではない、と思う。物語そのものは、会話を多用して、実に淡々と進む。しかし、病気の進行により、主人公である親子や男女が、愛する者の幸せのために、ある決断を下す場面が来る。それが淡々と語られると、むしろそれ故に、我知らず、目尻が濡れてくるのである。

 本書は、そうした作者の一連の作品の中では、一番泣かずに済んだものである。おそらく、他の作品と違って、一応ハッピィエンドになっているからに違いない。この作者の他の作品同様、ミステリ的味付けがあるから、物語の概要を紹介するのは避けるが、サブタイトルにあるとおり、息子は無事に海に還るのである。

 

 

 

『夏目家の糠みそ』

半籐末利子著、PHP文庫刊、619

 夏目漱石の、文豪としてではない、生身の人間としての姿を活写した作品としては、なんと言っても、その妻鏡子の口述による『漱石の思い出』という作品が重要であろう。実に自然な文章で書かれており、単に漱石の外伝というにとどまらない傑作で、漱石の目指した口語体文学の一つの到達点と私は信じている。

 それを書いたのは、漱石の長女筆子の夫となった松岡譲である。本書の作者は、その松岡の四女で、新田次郎賞をとった『漱石先生ぞな、もし』等で知られる作家半籐一利氏の妻女である。

 つまり、祖父、父、夫と三代にわたる優れた作家を身近に恵まれた人なのだから、この人が優れた文章を書くのに何の不思議もない、といえる。しかし、これまた不思議な事に、作者は60歳になるまで文章を書いた事がないのだそうだ。後書きに、長年の介護の末に母を看取った後、「このまま何もせずに、只老いて死んでいくのは余りにも空しいという焦りにも似た気持ちに駆られるようにして、食卓の端っこに紙をひろげ胸中に去来する様々な思いを写し綴るようになった」とある。人間、何かを新しく始めるのに、遅すぎる事はないという事の見本のような人といえるだろう。

 本書を手にしたのは、例によって漱石に対する興味からであるが、収録されているエッセイの多くは、漱石とは直接関係はない。作者の父母が結婚したのは、漱石の死後であったから、筆者は漱石に関する直接の思い出は持ちようがないのである。もっとも、祖母鏡子は86歳まで、母筆子は91歳までといずれも長命に恵まれたから、作者はこの二人からかなり思い出話を聞かされている。その語り伝えを書いた部分だけでも、非常に興味深いものと言う事ができるだろう。

 しかし、漱石とは関係のない身辺雑記なども、非常に興味深く書くコツを、作者は心得ている。どのエッセイをとっても、その巧みな文章力に、思わず引き込まれる。特に、どれも最後の1行がピリッと決まっているのは見事である。

 例えば、表題作になっているエッセイは、こんな話である。作者が日常使っている糠みそは、祖母鏡子が漱石の時に嫁入りした時に、実家から持参したものなのだそうだ。だからその時から数えても、既に100年以上、もしかすると300年くらいになるものなのだそうだ。テレビ局がその話を聞きつけて、漱石の食べた糠みそと題してテレビで放映した。その際、作者の顔もアップで映された。それを受けて、「糠床は時代を経れば経るほど味が良くなるが、女の顔はそうはいかないと痛感した」と結んでいるのである。

 ちなみに、本書の表紙の絵は、作者の父の書いたものであり、題字は、夫君の彫ったものなのだそうである。作者は、これを「甚だ家内工業的な一冊」と謙遜しているが、家内工業でこれだけやれるだけの身内に恵まれている、というのは実にうらやましい。

 実をいうと、私は、松岡譲という人の作品は、冒頭に言及した『思い出』以外には読んだ事がない。しかし、本書を読んで、一度読みたい気分になっている。残念ながら、どうやら『思い出』以外には、現在刊行されているものはなさそうである。もし、本書をきっかけに、松岡の作品が再版されたりしたら、それが作者にとっての最大の親孝行になるかもしれない。