『やさしい死神』

大倉崇裕著、東京創元社刊 1600

 今回は、落語をベースにした推理小説を取り上げる。落語と推理小説というと、まず思い浮かぶのが北村薫の『空飛ぶ馬』に始まる「円紫さんと私」シリーズであろう。但し、このシリーズの場合には、個々の短編と落語の話の間には必ずしも強い結びつきはない。その点、今回取り上げる二つの作品は、どちらも落語と謎解きがストレートに結びついた傑作となっている。

 本書は、新米編集者の間宮緑シリーズ第3作である。出版業にあこがれて、大手出版社に採用されたのは良いが、全く落語など聞いたこともなかった彼女が、なんと『季刊落語』編集部勤務を命じられ、落語絡みで発生する難事件・怪事件に右往左往する。その謎を、落語界の生き字引である編集長の牧大路が鮮やかに解決するという基本設定のシリーズである。

 第1作の『三人目の幽霊』は滅多に受賞者がでないというので評判の創元推理短編賞で佳作になったということで話題を呼んだ表題作を中心にした短編集であった。確かに個々的に見れば、良い作品が揃っている。しかし、間宮緑が全く落語に素人という設定が全く生きていない感じがあり、また、あまり落語に結びつかない話も混じっていたりしている点で、私は評価していない。また、第2作『七度狐』は、何とも陰惨な連続殺人事件が八墓村よろしく、交通が途絶した山間の村で展開するという気が滅入る代物で、なぜ笑って楽しむべき落語をベースにこんな話を書かねばならないのか、理解に苦しむ作品であった。要するに、推理小説としての出来を云々する前の、基本設定レベルで、私には拒否反応が出た。

 本書は、その点、安定感のある良い短編集になっている。緑も季刊落語の編集を担当して2年目、暇さえあれば、都内各所の寄席巡りをしているから落語を聞く耳も育ち、寄席の経営者や噺家にも顔が売れてきている。いつも携帯の電源を切ってさぼっている編集長の牧に代わって実質的に雑誌の刊行業務をしっかりと引き受けているのだから、彼女に対して、関係者が相談を持ちかけてきても不自然ではなくなっている。さらに、落語のネタと事件の絡み具合も絶妙と言ってよい。

 本書は、五つの短編で構成されている。どの話も、古典落語を、前途有望な若手落語家が語っている描写から入る。落語というものは、話芸だから、それを単純に活字化しても面白くも何ともない。筆者は、その困難を、ト書きや噺家の所作、寄席の観客の反応などを適宜混ぜつつ、記述することで乗り越えている。それにより、架空の噺家のはずなのに、その姿が目に浮かぶばかりに活写されている。すっかり寄席にご無沙汰の私に、たまには寄席に行きたいという気分にさせる名描写で、そこだけでも読む価値がある。

 作品内容に関しても、前作までの陰惨さは影を潜め、いずれも人情噺的に見事にまとまっている。小説としても趣向を凝らし、第3編の「幻の婚礼」では、牧を海外出張させ、代わって安楽椅子探偵として牧の前任編集長であった京友成が活躍する。また、第5編の「紙切り騒動」では、俗に色物といわれ、噺のおまけみたいな扱いをされる紙切り芸に光を当て、さらに緑が牧の協力を得ず、単独で謎を解こうと頑張るなどの趣向を見せる。

 緑が、より成長を示すであろう、第4作が楽しみになってきた、優れた作品である。

 

『笑酔亭梅寿謎解噺』

田中啓文著、集英社刊、1800

 これまで、本欄ではハードカバー及び文庫をそれぞれ1冊宛取り上げてきた。本書及び『やさしい死神』は、いずれもハードカバーで取り上げるべき作品として早々と白羽の矢を立て、それに組み合わせるにふさわしい手頃な文庫が出るのを待っていたのだが、なかなか注文通りの文庫が刊行されない。このままでは新刊紹介どころか、古書の紹介になりかねないので、あきらめて、今月はハードカバーを二冊取り上げることにした。

 書評に取り上げておいてなんだが、私は、この著者の作品を一般に好まない。作品数は結構あり、一定の水準にあるのは確かなのだが、いずれも何とも猥雑なのである。おそらくサービス精神からなのだろうが、必要もないところでやたらと汚物や性器に対する執着を示した記述を乱発する結果、それに対する不快感から、話の本筋が吹っ飛ぶほどである。その点、本書は、そのバランスが絶妙で、見事に一皮むけたという感がある。

 主人公竜二は、両親がなく、ぐれて高校を中退した、表紙の絵に明らかなとおり、鶏冠頭をした不良少年である。これを、高校時の担任が捕まえて、むりやり上方落語の長老である笑酔亭梅寿に弟子入りさせるところから物語は始まる。不良少年と落語という組み合わせが、最初、腑に落ちない。しかし、落語家を目指して入門しながら才能が無くて挫折した担任教師が、この少年が噺家として天賦の才能を持っていることを見抜いての行動であることが、やがて明らかになる。本書の縦糸になるのは、この少年の、噺家としての成長の物語である。

 このように説明すると、猥雑が特徴の、この作者の物語とは思えないきれい事になってしまう。話の実際は、当然のことながらもっとどぎつい。この不良少年が逃げ出しもせずに内弟子になった最大の原因は、古典落語の魅力もさることながら、師匠である梅寿の並の暴力団真っ青の行動にある。上方落語会の大長老と紹介すると、枯れた人柄を連想するだろうが、ここに描かれているのはその対極にある人物像である。数年前に脳溢血で少し呂律が怪しくなっているというに、連日がぶがぶと一升酒を飲み、反吐を吐き、弟子に対して数時間も失神させるほどの暴力を遠慮無く振るい、借金で首が回らず、暴力金融の取り立てに逃げ回る毎日、というとてつもない生臭さ爺いなのである。

 竜二は、噺家としての天賦の才能に加えて、物事の本質を瞬時に見抜く頭脳がある。そこで、身の回りに発生する様々な怪事件(ご丁寧に殺人事件まである)の犯人をズバリ見抜くのである。しかし、人の数にも入らぬ前座の身としては、事件の真相を自分で出しゃばって言うわけにはいかない。そこで、「・・て言うてはりましたよね、師匠」という式に、師匠が見抜いたことにして語る。師匠の方でも心得て、うまくそれに載って、解決を自分の手柄にしてしまうところから、本書のタイトルは来ているわけである。この不良少年と不良老年の掛け合いこそが、本書の命である。

 本書は7編の短編から成り立っているが、それぞれの表題は、何れも有名な上方の古典落語から採られており、推理小説としての趣向もぴたりとそれに載っているところは鮮やかである。ただ、落語の紹介は苦手らしく、紹介文はそれぞれの話の冒頭に、コラムのような形で月亭八天が書いている。それはそれで見事な随筆になっている。