日本人は語学の天才?
甲斐素直
我々日本人は、中学校以降、あれほどの時間をかけて外国語教育をしているにも関わらず、語学に弱いと一般に自任しています。このため、海外に出ても、現地の人たちと積極的に交わろうとせず、日本人コロニーを作って過ごしがちだ、とも言われます。
ところが、日本人自身にはあまり知られていないことですが、外国人からみた日本人の語学力に対する評価と言うのは、こういう自閉症気味の自己評価とはかなり違うものです。私は欧州人からいろいろな機会に「日本人と言うのは、皆が皆本当に語学の天才だが、そこには何か秘訣があるのだろうか」という質問を受けたことがあります。かっては私自身も日本人の語学力に関しては、日本人の一人としてインフェリオリティ・コンプレックスを共有していましたから、そう言われたときにはずいぶん戸惑いました。というより、反対表現で語学力の貧困について皮肉を言っているのかと受け取って、最初は弁解にこれ努めたものでした。
ところが、そういうげすの勘ぐりは間違いで、彼らは本当にそう思っているのだ、ということがだんだん判ってきました。それでも、その評価の対象は、自分の力で海外に出ている人でしょうから、それを日本人の標準と考えるは、少々底上げの気味がある、と長いこと思っていました。
しかし、日本人の語学力についての感想をよく聞いてみると、そういう特定の人の語学力よりも、日本人及び日本語そのものの特殊性が、我々が通念としているところとは逆に、かなり日本人語学天才説の基になっていたということが、徐々に判ってきたのです。
第一に、日本の外国語教育の裾野の広さです。欧州は、たくさんの民族が、異なる言葉を話しながら肩をよせあって暮らしている地です。だから我々から見ると、ほとんどの人が二つや三つの言葉を話すだろうと言う気がします。ところがそれは錯覚で、たいていの庶民は自国語しか話さないものなのです。
こういうと、いや、そんなことはない、何ヶ国語も話す人をたくさん知っている、と反論する人が多いと思います。そのとおりです。我々が欧州に行って付き合うような人は皆二〜三ヶ国語くらいは話す人ばかりです。ここに存在
している落とし穴は、日本は、国民のほとんどが自らを中流階級に属するとみなしているところにあります。日本がそうだから、同じように西側先進国も国民の大多数は中流階級に属すると思ってしまうのです。まして、欧州で自分がいろいろと接触をする相手は仕事の内容も能力的にも似たりよったりだから、当然自分と同一の階級の人だと思うのは無理もありません。
ところが欧州はわが国とは違って基本的に階級社会なのです。ある人が、大学教育を受けるエリートになるか、それとも職能教育を受け、労働者階級になるか、という人の一生の決定する時点は、欧州のほとんどの国では11才です。つまり労働者になる場合は、一般教育は小学校の四年生までしか受けないのです。そして、ほとんどの人はためらわずに労働者としての道を選びます。ブルーカラーにはブルーカラーとしての誇りがあります。だから、能力や性向に関わりなく、誰でも大学教育を受けるべく、がんばらねばならない、少なくとも高校くらいは出ておかなければ、などと言う、わが国なら当然かなりの人が持っていそうな意識はまずありません。
むしろ、職人として十分な報酬を得られるようになるには、できるだけ早くからその道に入らなくては不利だ、と思われています。かって、ドイツのある州で、政府がいくら何でも11才で一生を決めるのは早すぎるから、もう二年決定を後らそう(すなわち日本だと中学に入る年まで)という政策を実験的に導入したことがあります。その時、実験校の児童の父兄は、子供から職業教育を受けるための貴重な二年間を奪う気か、と同盟ストライキをやったほどです。
ですから、大学教育を受けて、何ヶ国語も話せる人と言うのは、社会の中でほんの一〜二割程度です。ただ、繰り返しますが、日本人が欧州に行って交渉を持つ相手の人と言うのは、ほとんどの場合はこのエリート階級の人ということになるので、欧州人は誰でも語学に強い、という錯覚が生ずることになります。しかし、ちょっと田舎に行ったりすると、外国語はまったくダメという方が普通です。昔、ロミオとジュリエットで有名なベローナの町に行ったら、ツーリストインフォメーションまでがイタリア語だけしか話せませんと言うのです。しかし、宿を世話してもらわねば、野宿しなければならないというわけで、私の乏しいイタリア語知識を総動員して非常に苦労したことがあります。
そういう状況にある欧州から日本を見ると、状況は確かにまったく異なります。どんな人でも中学校で三年間の英語教育を受けているのですから、土壇場に追い込まれれば、意志の疎通に役立つ単語を並べ立てるくらいのことはします。欧州の普通の庶民はそういうことは絶対というほどできないのです。だから、これが驚きを持って迎えられるのは無理もないことです。
もっとも、日本人が英語を話す、と外から思われているとき、実は本人は日本語を話しているつもりだ、ということが実際には間々あります。たとえば日本人が「レストラン」に行き「ウエイター」に「テーブル」に案内してもらい、「メニュー」を見て「オムレツ」とか「ビフテキ」を注文し、「ナイフ」や「フォーク」「スプーン」を使って食事をしたというとき、そこで英語を使っているという意識はないはずです。しかし欧州人からみれば、それでも達者に英語を駆使していると言うことになるわけです。
もう一つ、彼らが日本人の外国語に驚くのが、発音の正確さです。これについても、日本人の発音は使いものにならないという通念がわが国にありますから、ちょっと戸惑うでしょう。こうした誤解の発生源は、日本の外国語教育が標準発音にこだわり過ぎているところにあります。これは日本が標準語が非常に普及していること、特に首都東京ではほとんど標準語に等しい言葉が日常的に使われているところから、よその国もそうだと思うためでしょう。
しかしどこの国にでも非常にたくさんの方言ががあるのです。たとえば我々が学校で学ぶ英語は、クイーンズイングリッシュと呼ばれるもので、イギリスの貴族階級だけが使う非常に特殊なものです。普通の庶民は、たとえ首都ロンドンでさえも強烈に訛っていて、我々にはまず聞き取り不可能な代物です。コックニーと呼ばれるこの方言では、例えばAはアイと発音されます。マイ・アイ・タイキットと言われたら、メイ・アイ・テイク・イットmay
I take itのことで、ちびの我々が手の届かないところのものを取ろうとしてじたばたしているのを見かねて「取ってあげましょうか」と親切に声をかけてくれていることになるのです。
ドイツ語では状況はもっとひどくて、我々が学校で学ぶドイツ語は一名、舞台ドイツ語と言われ、ドイツ北部のザクセン方言を母体にしたものですが、実際に日常会話でそれを使う人は居ないといわれます。特に首都ベルリンの方言は、ドイツの他地方の人には理解不能だといわれるほどに、標準ドイツ語とは違う発音です。さらにスイスドイツ語となると、文章に書けばまったく同一なのに、言葉として話されると、ドイツのテレビでさえ字幕が流れるほどに違う発音になっています。
だから、日本人の発音がそれぞれの言葉の標準語と目されるものから少々ずれていても誰も気にしません。判りさえすればいいのです。旅行用の六ヶ国語会話集を、振り仮名をそのまま読み上げるようなことをしても、ツウカアと通じるものです。むしろこの振り仮名のおかげで、我々の発音は原音からのずれが最低限度に抑えられています。欧州人の場合には、アルファベットを共有し、時にはスペルまでが完全に同一だったりすることが裏目に出て、よその国の言葉のつづりをそのまま自国流に読むことが多くなりますから、本人は英語をしゃべっているつもりでも、まったく通じないことが却って多いのです。
たとえば、ストーン・ヘンジといわれる有名な先史時代の遺跡があります。私はイギリスで暮らしていた頃、そこを尋ねようと考え、地図を調べて見るのですが、日本語のガイドブックによれば最寄り駅とされるソールスベリーというのがどうしても見つかりません。たまたま知り合いのスペイン人に出会ったので、ストーン・ヘンジはどこにあるか知っているか、と尋ねました。すると、ああ、それはサリスベリーのそばだよ、と教えてくれました。いわれた瞬間に、それがどこか判りました。そこで礼を言うと同時に、Salisburyと書いてイギリス人はソールスベリーと発音するのだよ、と教えてやったわけです。日本人語学天才説がまた助長されたわけです。
このように並べてくると、欧州の人々の目からみて、日本人が総体として語学の天才だ、と見られるのも無理のないとことだというのが判っていただけると思います。この結果、我々のマゾヒステックな自己評価を聞かせても一笑に付されるのが落ちになります。なに、時間をかけて修得している割に語学力が低い?文字も文法もまったく違う日本語から入っている人に今以上の能力を発揮されたら我々はたまらないよ。なに、日本人は海外でグループを作って過ごす癖がある? 我々もそうだよ・・といった結論になってくるわけです。
いい加減で我々日本人も、語学に関してはマゾヒステックな快楽に?身をゆだねるのをやめて、自信を持って行動するべき時期にきていると思います。