表題

甲斐素直

 先日、NHKでドラマ作りを担当する人の書いた随筆を読んでいたら、知名度の高い人を主人公にしたドラマの場合には「信長」とか「吉宗」というように、単純にその人物名をタイトルにするのが良いのだが、日野富子を主人公にしたドラマの場合は、彼女の知名度が低いので、そうは行かず困った、という話が書かれていました。テレビの場合には、新聞のテレビ版を見るだけで一応話の内容の見当がつかないと、チャンネルを回してもらえないという事情があるので、作る側としてはやむを得ないと言えるのかも知れません。
 しかし、わたしには根強い偏見があるので、そのような、人物名をいきなりタイトルにしているドラマは、絶対に見ません。テレビドラマに限らず、小説の場合も、そういうものはご免です。
 その偏見とは、そうした作品は、作者の側の観点が決まっておらず、ふらふらしているに違いないから、見てもつまらないに違いない、ということです。
 およそ人間というものは誰でも複雑な、相互に矛盾する要素をその中に抱えている存在です。まして、ドラマや小説の主人公に取り上げたいと思うほどの人物は、通常の市井の人間よりも一層複雑な内容をもっているのが普通でしょう。そういう複雑な人間の一生を、1年間のテレビドラマでも良いし、1冊の小説でも良いのですが、とにかく、非常に限られた枠で取り上げる以上、その全体像を完全に描き出すというのは出来ない相談です。したがって、やれる最善のことは、その人物の特定の側面に着目して描く、ということしかないと思うのです。その場合には、その着目した側面に関しての基本的なコンセプトがあるはずです。それこそが表題となるべきだと思うのです。
 具体的な例を挙げれば、司馬遼太郎の一連のタイトルはどれもすばらしいと思っています。高杉晋作を描いた作品のタイトルが「世に棲む日々」であると知れば、その表題をみるだけで、そのわずかな生涯を精いっぱい生き抜いた若者が浮かんでくるではありませんか。「坂の上の雲」という表題を見れば、明治時代の若者たちが、いかに彼岸の理想を追いつつ苦闘の道を歩いたかが浮かんでくるような気がします。
 あれもこれも、と多角的に取り上げれば、一応ドラマは出来るはずです。みてくれは良いでしょう。しかし、そんな総花的な話が面白いわけはないのです。
 物語の醍醐味は、やはりセンス・オブ・ワンダー、すなわち日常の感覚とは異なる視点を提供してくれるとことにあります。そして、視聴者や読者がそれを感ずるためには、それ以前に、まず作者自身がそれと同質の驚きを感じている必要があります。つまり、作者としては、物語の対象となる人物のどこかに、自分とは違う何か、世の多くの人に伝えたい何かを感じたらからこそ、少なからぬ時間をつぎ込んで、それを描きたいという衝動に駆られたはずなのです。
 物語の面白さは、その作者の感じた驚きをどこまで読者や視聴者の目に見える形に昇華できるか、という点にかかっています。すなわち、生の素材をそのまま並べ立てても、限られた枠の中から見ている我々には作者の驚きは伝わってこないのです。そのためには、まずその驚きが、作者の精神の中でぎりぎりに煮詰められ、単純なコンセプトに昇華された後、それを物差しとして素材が選択され、銅鑼まかされる必要があります。そのように簡潔な形で提示されることによって、作者の驚きはようやく我々に伝わることが可能になるのです。
 そして、そのように作者が自らの素材としての驚きを、具体的に表現することに成功している場合には、その過程で、その自分の驚きを簡潔に表現する言葉を見つけられないわけがない、と思うのです。それを表題にするとき、物語は一番輝くはずです。
 単なる人物名が表題となるようなドラマでは、それを期待することは出来ません。
 日野富子が十分な知名度があれば、「富子」という表題にしたかった、という話を読んだおかげで、私のあのドラマに関する関心は完全に消えました。今年も、日曜の夜8時には、見る番組を探して苦労する羽目になりそうです。


後日談
 今NHKがやっている「葵、三代」というドラマも、表題を見れば家康から家光までの三代の話だな、ということが見え見えで、およそ見る気になれないでいます。