違憲立法審査権

甲斐素直


 憲法第八一条は、最高裁判所に違憲立法審査権、すなわち法令が憲法に適合しているか否かを決定する最終的な権限を認めています。今までに出た違憲判決の数は、五件と言われています。これを多いとみるか、少ないとみるかはそれぞれの人の世界観に依るでしょうが、少なくとも私は、大事なのは質であって、数の多少を問題とするのは間違っていると考えています。
 通常裁判所による違憲審査権の母国である米国の歴史を見ると、むしろわが国のそれは非常に健全な道を歩いてきた、と思うのです。
 米国の場合には、わが国と違って、違憲審査権は憲法に明記されているのではなく、判例によって形成されたものです。その最初の事件は、普通マディソン対マーベリ事件と呼ばれますが、我々の感覚からすると、かなりとんでもない事件です。話は少々複雑ですが、違憲立法審査権の歴史の第一頁ですから、我慢してつきあってください。
 事件の発端は一八〇〇年一一月にあった連邦選挙です。良く知られているとおり、米国の初代の大統領はワシントン、第二代はアダムズですが、この二人はともに連邦派です。ところが、このときの選挙では、大統領が初めて共和派のジェファーソンになり、また議会でも共和派が多数を握るということになって、連邦派にとっては地滑り的な大敗北になったのです。ここで、連邦派とか共和派と呼んでいるものは、今のアメリカの政党とは直接の関係はありません。思想的に連邦としての一体性を重視する人々と、個々の州の主体性を重視する人々の対立だったのです。
 米国では選挙が終わってもすぐに大統領が交代するのではなく、翌年の三月三日までは在任しています。そこでアダムズは、この期間を利用して、連邦派の勢力を権力内に温存する方法を講じようと考えたのです。立法、行政の両分野は既に確定してしまったのですから、残る権力は司法府です。連邦裁判所の裁判官は、憲法上終身の身分保障が与えられていますから、ここに大量の連邦派を任命しておけば、共和派政府の下でも連邦派の勢力は最低限確保できるという計算です。
 まず一月に、最高裁判所長官に、マーシャル国務長官を、国務長官在任のまま据えます。二月に入り、任期満了寸前の議会は、連邦裁判所判事を大増員する一八〇一年裁判所法を制定します。それに基づいて、アダムズ大統領は一気に大量の判事の任命を行います。日本でいえば簡易裁判所に相当する裁判所にも、実に四二人の新判事を任命することにしました。猟官は珍しくない米国でも、これは滅多に見られない露骨さです。
 彼らの任命に対して上院の同意を得る手続きがすべて完了したのは三月三日の夜でした。職員が帰って人気のなくなった夜の国務省で、マーシャルは最後の一七人の辞令に自ら国璽を押印し、記録し、封緘しました。仕事がすべて終わったのは深夜でしたから、これらの判事は真夜中の判事 midnight justicesと呼ばれています。そこで、夜中でも何でも一七人を召集して辞令を交付していれば、何事もなかったのです。が、疲れはてていたマーシャルはその書類を机の上に積み上げたまま帰宅してしまいます。
 翌三月四日、ジェファーソンが大統領に就任し、新国務長官にマディソンが就任します。ジェファーソンは、断固この一七人に対しては辞令は交付しないこととしました。そして三月三一日には問題の一八〇一年裁判所法を共和派が多数を握った議会が廃止してしまいます。だから、判事達が就任するべき裁判所はなくなってしまったのです。
 ところで、その結果再び有効となった従前の裁判所法には、最高裁判所は、裁判官や官吏に対して職務執行令状を発する権限がある旨の規定がありました。だから手続きはすべて完了していて、ただ辞令を貰っていないだけの判事は、この規定に基づいて、立派に辞令に代わる令状を、最高裁判所から出して貰うことができるわけです。就任するべき裁判所はなくなっていても、連邦判事の職は終身保障されていますから、十分に訴訟で争う価値はあるわけです。
 そこで一七人の判事のうち大半のものは争っても仕方がないとあきらめましたが、マーベリ外三人が辞令を求めて最高裁判所、すなわちマーシャル最高裁判所長官に訴えたわけです。これに対してジェファーソンは、最高裁判所がなんと言おうと、辞令は交付しないと公言しました。
 したがってマーシャルは非常に難しい立場に立たされたわけです。令状を発行するという判決を下しても、大統領に無視されてしまえば、それを強制する力のない最高裁判所の権威は地に落ちます。さりとて、法律の規定を無視して訴えを却下したのでは、それはそれで法律の守護者としての最高裁判所の権威を失墜させるものであることは確かです。
 このぎりぎりの場面でマーシャルが打ち出したのが、上記裁判所法の規定が違憲だ、という解釈でした。すなわち、最高裁判所は上訴裁判所であって、第一審裁判所ではないのに、裁判所法は、令状交付の事件に関しては最高裁判所が第一審と定めているのは違憲だ、という理屈です。だから、マーベリらは正当な権利はあるが、裁判所は令状を出さない、というのです。
 この経緯を見ておわかりのとおり、最初の違憲立法審査事件は、実は法律解釈と言うよりも政治そのものであり、マーシャルとしてもこれを先例とするつもりはなかったようです。そこで違憲審査権は、実に半世紀以上の長い眠りにつきます。
 次に、違憲審査権が最高裁判所によって行使されたのは一八五七年のことです。当時の米国は、奴隷制度を認める奴隷州と、認めない自由州に分かれていました。事件は、主人の転勤に従って自由州で二年間暮らした奴隷のドレッド・スコットが、自由州で暮らしたときから奴隷ではなくなっていたはずだと争ったというものです。彼は、主人がよい人だったので、おとなしく奴隷州に戻ってきたのですが、そこで主人が亡くなり、未亡人が彼を売り払おうとしたことからこの裁判を起こしたのです。
 ところが、当時の連邦最高裁の判事達は奴隷制度支持者で固められていました。そこでかなり強引な憲法解釈によってスコットの訴えを退けたわけですが、その際に一つの連邦法を違憲と宣言する必要に迫られ、マーシャルの先例を活用したわけです。最初の例同様にきわめて政治的なものではあって、法的には褒められた代物ではありません。ここでの問題は、連邦最高裁が違憲・無効と宣言した法律が、ミズーリ妥協といわれるもので、南北戦争回避のための最後の命綱だったことです。南北戦争は、いずれは起こったと言われます。しかし、まさにあの時期に起きた、その直接の原因になったのは、この反動判決である、といわれています。
 その次に、違憲審査権が息を吹き返すのは、19世紀末から二〇世紀初頭にかけての時期です。そのころ、各州では大企業の専制から国民の自由を実質的に確保するため、今日で言えば社会法や経済法の分野に属する立法を始めていました。連邦裁判所は、そうした一連の立法を、自由主義に反するものとして違憲とする判決を次々に下したのです。その傾向は、大恐慌に対処するためのニューディール政策に基づく立法で、最高潮に達します。一九三五年一月から翌年の五月までのわずか一七ヶ月の間に、なんと一二の連邦法を違憲として、ニューディール政策を崩壊の危機に追い込みます。
 しかし、激怒したルーズベルトが、裁判所法を改正して最高裁判所を意のままにしようと画策したのに驚いて、あわてて最高裁判所が態度を改めた結果、その後の最高裁判所はルーズベルトコートと呼ばれるまでになります。経済立法については司法消極主義、精神的自由に関する立法では司法積極主義という、いわゆる「二重の基準」は、このルーズベルトによる「憲法革命」の結果として発生し、定着していったのです。
 以後、連邦最高裁判所はしばらくの間、きわめて権力寄りの姿勢をとり続けます。第二次大戦中の日系人の強制収容所への収容とか、戦後のマッカーシー上院議員による赤狩りという甚だしい人権蹂躙事件で、なんら有効な抑止勢力となれなかったのはその典型です。
 再び、違憲審査権が息を吹き返すのはウォーレン長官が主導権をとったいわゆるウォーレンコートにおいてです。具体的には一九五六年に、スミス法と呼ばれた人権を無視した反共立法を違憲とし、さらに翌五七年六月一七日には、一日に実に三権の違憲判決を下して、上記赤狩りの被害者達を救済したのです。
 私の考えでは、米国連邦最高裁判所の違憲立法審査権がまともに機能し始めた、と評価できるのは、このウォーレンコート以後です。わが国最高裁判所が最初の違憲判決を出したのは、刑事被告人以外の第三者の所有物を没収できるとした関税法の規定を違憲とした事件で、一九六二年のことです。ウォーレンコートがまともに活動を開始した時期にそう遅れてはいません。一世紀半も遅れて、スタートした制度にしては、なかなか良く追い上げたと言えるのではないでしょうか。
 何より、わが国違憲判決の優れているところは、米国のそれと違って、少なくとも違憲判決に限定して言えば、明らかに不適切だと言われるような判決がないことです。司法権の尊厳を確保する上では、それが一番大切なことです。