検査の目、法律の目

甲斐素直


 先日、読者の方から、私の随筆がたまには読みたいというお便りをいただきました。ありがたいことだと思います。確かに、ここしばらく、本誌に私の随筆を載せていません(注:これは会計と監査誌に載せた随筆です。)。実をいうと、その理由はきわめて単純で、このごろ、随筆が書けなくなってしまったのです。より正確に言うと、かってのようなスタイルの随筆が書けなくなったというべきでしょうか。
 今になってつくづく思うのですが、かっての私の随筆は、いわば検査の目で社会を眺めるというところから生まれていました。もっとも、検査の目といっても、人により検査には様々な着眼点があり、また、それを実現するためのスタイルがあります。私の場合、会計検査院に奉職した20年の間、一貫して3E検査、後にはもう一つEを加えた4E検査になりましたが、を追求していました。すなわち、経済性、効率性及び有効性の検査であり、ないしはそれに公平性という観点を加えての検査です。いわゆる不当事項を目指した検査というのは、私の場合には基本的にやるつもりがありませんでした。20年間も奉職していたのですから、その間には不当の提案者となったことも、当然何度かありますが、それには、二つの類型があります。一つはいうまでもなく、それを見つけるつもりで行った検査の結果ではなく、4E検査を行っていく過程で偶然見つけてしまったものです。今一つは、地方機関の権限で実施している問題に対して行った4E検査の結果、見つかった問題です。処置要求は、本省に対して照会を打つ関係から、地方レベルの問題、すなわち特定の地方はきちんと処理し、他の地方は不適切な処理をしていた、というような問題は、理屈としては本省がきちんと監督していれば必ず回避できたはず、ということになりますから、すべて自動的に不当事項となるわけです。
 もっとも、検査課によっては伝統的に不当事項しか取り扱わない、という課もありました。そういう課に回った時には、その課の検査手法そのものに4E検査を行って、検査手法そのものを改善するという調子で、あくまで4E検査にこだわったものです。
 4E検査を行うに当たって、私がとった検査手法は、私が密かに相撲方式と名付けていたものです。簡単に言ってしまえば、基本的には押してみるが、押して駄目なら引いてみる、という訳です。どんな問題でも、一つの視点から見て完璧に実施している場合には、視点を変えた場合には、それが意外な無駄を含んでいる可能性が大きいものです。だから、何かの事業を検査する場合には、まず、その事業の基本的な目的をどこまで完全に実現するように事業が行われているかをチェックすることが検査の第1歩です。そこで問題が出てくれば、それを指摘して検査は終わりです。
 しかし、その事業目的との関連で担当者が完璧な仕事をしていると認定することができても、それで検査を終わりにしたのでは、4E検査とはいえません。人間の仕事に完璧と言うことはあり得ません。ある事業目的を実現するには、それが完璧であればあるほど、そこで何かが犠牲とされる必要が生じます。そこで、その事業で必然的に犠牲とされている側面はなにかを見つけだすことが検査の第2歩になります。その側面における犠牲が過大となっていたり、過大とまではいえなくとも、本来の事業目的を達成するという観点からはほとんど差異がないにも関わらず、より小さな犠牲で済ませる方法はないかを検討しなければなりません。
 このように、絶えず、目の前に現れてくる問題について別の側面があるのではないか、という発想をしていれば、社会の見方そのものが変わってくるのは当然です。これまでの私の随筆は、そういう検査マンとしての視点が書かせていたものと言うことができるでしょう。
 ところで、私はカメレオン人間です。ある場所に動くと、すぐにそこにしっくりなじむことができます。以前、ドイツに留学していたときには、ドイツで見ればちゃんと学生に見えたのに、帰ってくれば直ちに役人に見えるといわれたことがあります。また、教職に転職した直後に、まるで生え抜きの学者のようだ、といわれたこともあります。これは、単に服や何かがそれに応じて変わる、ということではなく、発想自体からがらっと変わってしまうからです。そこで、このごろは、昔のような随筆が書けなくなってしまったというわけです。その代わり、なにを見ても法律的な角度から考える習慣が付きつつあります。その結果、随筆を書く場合にも、そういう傾向の随筆なら簡単に書けるようになっています。我ながら不思議に思っています。