腱鞘炎奮戦記その2  テニスエルボーの巻

甲斐素直

 これで腱鞘炎は飼い慣らしたと喜んでいたのですが、最近、新手の腱鞘炎に悩むようになりました。これは俗にテニスエルボーと呼ばれるものです。私はなるほどテニスが趣味です。しかし病気になるほど熱心なプレーヤーではありません。単なるウイークエンドプレーヤー、それも平均すれば2週間に1度、2〜3時間程度するくらいがせいぜいという不真面目なプレーヤーです。何でこの程度のことでテニスエルボーにならねばならないのだ、と首を捻ったものです。
 その後、いろいろ勉強したところでは、テニスエルボーは、テニスがなければ夜も日も明けないというグループの他に、ちょうど私くらいの頻度の人間も成りごろ?なのだ、ということが判りました。つまり、間欠的に激しい運動をする場合には、常時激しい運動をする場合と同じように、腱鞘はやはり強いストレスに会う訳です。
 なじみの左手首の腱鞘炎と違って、これは最初は右腕の筋肉部分が痛む感じだったので、テニスエルボーとは疑っても見ませんでした。ある年の11月に最初に悪くなったときには、症状が軽く、鈍い痛みがある程度で、日常生活には全く影響がありませんでした。だから、その時テニスエルボーだと気が付いて、素早く真面目に治療していれば、その後の事態は全然別の経緯をたどったのではないかと思います。しかし、実際には変に長引く筋肉痛だなと思っていたので、何の治療もしませんでした。それが決定的に悪くなったのは、症状が出て2週間経ったところで、また1時間ほどテニスをしたときです。その時もプレーしているときには大して痛くもなかったのです。
 腕が上がらなくなっていると気がついたのは翌朝目がさめてからです。エルボーという位だから、肘が痛む病いと思っている人が多いと思います。確かに肘も痛むのですが、それだけではありません。これは手首を激しく上下に動かすことが原因で、それに関係する筋が肘で狭くなっているい部分を中心に炎症を起こすという病気です。だから指だけを動かすのに必要な筋は無事なのですが、手首を動かすために使われる筋は、そのすべてが痛むのです。
 このため、第1に、右手を握るという単純な動作が出来ません。第2に、右腕を曲げるという動作も出来ません。どちらをしても、それだけで腕を激痛が走りました。
 この二つが駄目と言うと、スポーツのほとんど全部が出来ません。直接の犯人であるテニスがダメなのはもちろんとして、その他、右手に何か握る必要のあるもの、例えばカヌーとか、卓球とか言うものがすべて駄目。スキーもストックワークが出来ませんからやはり駄目。さらに腕を曲げたり伸ばしたりすることが出来ない結果として、単に走ることも、ダラっと右手を下げたままではできませんから駄目。スケートも同じ理由で駄目。自転車は、左手の片手運転で走ることだけは何とかなりますが、両手を使って急ブレーキを掛ける、等の緊急動作が出来ませんから、家の回りを走り回るくらいならともかく、遠出は危なくて出来ません。残る唯一の運動の可能性は散歩くらい、という始末です。
 反対に、比較的問題なく出来たことの方をあげると、まずありがたいことに箸を使うことは出来ました。ワープロを打つこともできました。これらはいずれも手首以下には負担をかけず、指だけですることが出来ますから、腕の筋に負担が掛からないのです。
 参ったのは、なんといっても通常の筆記具が使えなくなったことです。特にボールペンは原理的にペン先にかなりの力を込める必要があるので、ちょっと使うと腕がパンパンに張ってきてうめく始末でした。鉛筆は、私は人に比べるとかなり筆圧が軽い方なので(昔、大量に手書きをするための工夫として筆圧を軽くする努力をしたおかげです。)、何とか使えましたが、やはり長く続けることはできません。字を書く動作には、どうしても手首を使うことが絶対に必要だ、ということは、この苦しい経験で初めて知りました。
 私の職業には長期の出張が付きものでした。それまでは出張中に見聞きしたことは、当然その場でメモを書いていました。しかしワープロ以外の筆記具が突然使えなくなったのですから、現場でメモを取るということが出来なくなった訳です。1週間もの長期出張の間に見聞したことを、メモなしに帰宅後に正確に復元してワープロに書く、ということは出来ないわけではありませんが、かなり大変です。結局、市販されているパソコンの中でもっとも軽いものと、私のワープロと互換性のあるワープロソフトを買って、出張時に持ち歩くことにしました。これはこの病に関連しての単一の金銭支出としては最大のものになりました。
 第2に右手で歯が磨けなくなりました。元は日に一度就寝前に磨く程度でした。が、それでは歯の悪くなるのを食い止められず、このままでは総入歯だよと歯医者に脅されたため、食後の歯磨きを励行するようになり、その頃には完全に習慣となっていました。しかし左手は不器用で、ローリング法やバス法という微妙な手首の運動は出来ません。しかたなくこれも電動歯ブラシを買うことで対応しました。その他、細かく上げていくと限りがないほどに、生活のあらゆる面を改造しなければなりませんでした。
 しかし、何と言っても辛かったのは、遅々として治らないという事実そのものです。西洋医学というのは情けないもので、腱鞘炎に対しても、筋肉痛と同じように湿布をする以外に何の方策も持っていないのです。まるでギブスをはめたように、右腕の手首から肘の上まで、湿布薬をびっしり貼る必要がありました。それでも、貼るのに応じてどんどん治っていってくれれば張り合いもあるというものなのですが、少し治ってはまた悪くなるという繰り返しで、半年経ってもはかばかしくないのです。冬の間はなんとか湿布に我慢できたのですが、暖かくなって汗をかくようになってくるとくると、もうむず痒くてたまりません。結局、激しい動きや長時間の酷使をしない限り、そうは痛まなくなったということもあり、5月の連休の頃になると、湿布は夜だけにしました。
 暖かくなれば自然に治るのでは、と甘い期待を持っていたのですが駄目でした。手を握り締めると、肘に痛みが走るのです。耳寄りの話を聞いたのはその頃のことです。鍼がテニスエルボーに効くと言うのです。私のとよく似たテニスエルボーで悩んだ人の話でしたので、私も色めき立ちました。
 西洋医学ではどうしても治らないのですから、東洋医学にすがるというのはいかにも理に適っています。ただ、近所の鍼灸医というと、どこも汚い店構えで、なかなか入る気になりません。結局、ホームドクターに相談に行って、筑波の技術短大を紹介してもらいました。
 この大学は、ご存じない方も多いでしょうが、視聴覚障害者に大学教育を与えることを目的として設置された三年制の国立短大です。筑波地区に作られた三番目の国立大学でもあります。その付属診療所が地元住民に一般開放されているのですが、鍼灸を治療法として正式に採用している、という点で、非常にユニークな医療機関なのです。
 鍼を打つというのは、その時が初めての体験でした。別に痛くないのですが、やはりあれだけの長さの鍼が腕に打ち込まれるというのは良い気持ちのものではありません。しかし、湿布が肌の表面から作用するのに対して、鍼は直接患部に作用するのですから、いかにも効きそうな気がするのは人情というものでしょう。また、西洋医学が出来るだけ腕を使わず、安静にしろと指示していたのに対して、この診療所ではストレッチ体操や腕立て伏せをするようにと指示をしたのも非常に面白いと思いました。
 私は懐疑主義者ですから鍼が効いたと断言することは出来ません。ほおっておいても治る時期が来ていただけなのかもしれません。しかしとにかく、5回ほど通った時点で、あのしつこい痛みが無くなったこと自体は事実です。
 テニスエルボーを起こした原因であるウィークエンドプレーヤーという事態が解消したわけではありませんから、今でもちょっと激しくテニスをすれば肘に違和感を覚えます。本当に治ったわけではないのです。だから左手首の腱鞘炎と同じように、この右肘の腱鞘炎とも、今後長く付き合っていかなければならないのだろうと覚悟しています。そのための、ワープロで言えば労働省の決まりのような頼り甲斐のある法則を目下、探し求めているところです。