国籍離脱の自由を考える

甲斐素直


 我が憲法二二条二項には、「何人も外国に移住し、又は自由に国籍を離脱する自由を侵されない」とあります。
 先日、ある法律雑誌を読んでいたら、憲法学者の奥平康弘氏が本稿と同様の題の下にこの規定の解釈を問題にしていました。通説によると、国籍離脱の自由とは、無国籍になる自由は含まない、とされています。氏はその解釈に長年何の疑問ももたなかったのに、最近の若手は、氏の疑うことのないこの常識的な解釈に異論を唱えるものが増えている。最初は「馬鹿な」と一喝すれば済んでいたのだけれど、近頃では氏の方がよほど異端という気がしてきた、という前置きの下にいろいろと検討を加えて、結論的には従来のものを維持したい、という内容のものでした。
 しかし、私も、昔からこの条文は他に国籍をしない場合にも国籍離脱権を承認しない限り、憲法規定としては無意味だと考えていました。正確に言えば、二重国籍を有する者が、その一方を整理する自由は、単なる実務上の問題に過ぎず、憲法が規定を設けて保障する必要のある問題ではない、と考えていました。その意味では、馬鹿な!と一喝されてしまうグループに属します。以下、私が従来の通説からすれば異端の理解を持っている理由を話しましょう。
 昔、初めてこれを読んだとき、直ちに連想したのはソクラテスの弟子であるプラトンが書いた「クリトン」に出てくる主張です。ソクラテスの友人のクリトンが、不当な裁判によって死刑の判決を受けたソクラテスを救うべく、脱獄の手配をした上で、獄中のソクラテスと面会した際の会話の最後の部分に現れます。
 ソクラテスは、皆さんご存じのとおり、脱獄を拒みます。問題は理由です。よく、ソクラテスは「悪法といえども法である以上守らなければならない」と言って脱獄を拒んだ、と信じている人がいます。確かに、そうした趣旨の発言をソクラテスはしています。
 しかし、ソクラテスの、その発言には重大な前提があるのです。すなわち、アテネは従来からその法に「満足しない者があるとすれば、自分の持ち物を携えて、どこへなりと望むところへ出て行くのを、誰にでも望む者には許」してきた(角川文庫「ソクラテスの弁明」一二三頁より引用)のだから、法が自分に都合の良い間だけアテネに留まってその保護を享受しておきながら、不都合な法になったといって逃げだすことはできない、ということを最終的な根拠としているのです。そして、これにはクリトンも反論できず、牢獄を後にしたのでした。
 もう少し砕いて説明すると、ソクラテスの主張は、法は全体として一つの体系をなしているのだから、自分に都合の良いところだけつまみ食い的に受け入れ、都合の悪いところは拒む、というようなご都合主義の認容を是認したのでは法の整合性を保つことは出来ないということです。したがって、人として出来ることは、ある国の法体系の全体を飲むか、すべてを拒絶するかの二つに一つで、中間はあり得ないということになります。ただし、その結論の前提としては、その国が、国民の出国の自由を認めている、ということが絶対の条件となります。
 現代憲法の基本原理である個人主義に立脚する限り、他の国の住民になる自由があるにも関わらず、あえてその国に留まったという自発的な選択の存在こそが、国としてその個人に法的責任を問う決め手なのです。その意味で、近年までの東欧諸国のように、国民の出国の自由を制限している場合には「悪法といえども法」であるどころか、むしろ悪法に抵抗する権利が認められねばならないという結論が導かれるはずです。
 この立場から憲法二二条を見れば、その意味はきわめて明白です。海外移住ないし国籍離脱の自由が認められるか否かは、人が国の主権を是認するか否かの分岐点を決する概念と位置づけられます。
 この自由が認められる国においては、人は、悪法で処断された場合も、法の許す抵抗、例えば上告や再審請求は許されても、脱獄したり、国外逃亡する自由は認められません。素直に刑に服せ、と要求する権利が、その国にはあります。二二条の権利は、その裏面として常に無条件に認められるべきであると理解されます。
 二二条限りであれば、話はここで終わりです。しかし、憲法体系全体としての整合性を考える場合には、話は今少し複雑になります。
 なぜなら、今日においては「国境」の意味が大きく変化しています。古代ギリシャでは、すべての土地が必ずいずれかの国に帰していたわけではありません。国と国との間の無人の広野は誰のものでもなかったのです。その結果、人が国外に出るということは、文字どおり国外に出ることを意味するに過ぎず、決して他の国に入国することを意味するわけではなかったのです。しかし、今日、土地はいずれかの国家の主権に属します。国外に出るということと外国に行くということとは事実上同義です。国外旅行は、受入国があって始めて可能なことであり、個人が勝手にできることではないのです。
 一般の船や飛行機は必ず特定の目的地へ向かうもので、漫然と国外に向かうのではないのです。乗客は目的地で入国を拒絶された場合は出発地まで戻らねばなりません。さらに、出発地がその人の国籍帰属国でない場合には、その出発地も入国を拒否する事態が発生しうるのです。こうなると、人は永遠に公海上をさまようしかありません。そんな人の面倒を見る羽目になっては大変ですから、輸送会社は相手国の受入保障のない人はそもそも乗せません。
 通常の場合、相手国での受入保障が査証であり、出発地たるわが国での受入保障が国籍です。今日では、どこかの国が受入を保障するか、国籍保有国がその人の旅行の自由を保障しない限り、人は国外にでることは出来ないのです。最近、第二次大戦中に、外務省の指示を無視して、ユダヤ人にわが国査証を発行した外交官が話題になりましたが、そのエピソードは、今日における国境の持つ力を端的に示しています。
 こう見てくると、日本国内にあって漫然と日本国籍から離脱する自由を認めることは、その人にとり、海外旅行の自由を全面的に放棄するに等しいことが判ります。母国のない人に査証を発行する国は、常に最終的に受け入れる覚悟が必要だからです。
 さて、そこで考えなければならないのは、国籍を離脱したということの持つ実定法上の意味です。わが国国民でなくなったということは、その瞬間から外国人(無国籍者を含む)として扱われるということです。したがって、国籍を離脱しておきながら、そのまま漫然と暮らし続けるということはできません。必ず外国人として、その国から在留許可を得る必要があります。
 外国人として他の主権国家に滞在する以上、永住許可者でない限り、有限の期間を定めた在留許可を受ける必要があります。このことは、確立した国際法規(憲法九八条二項)により認められることです。条約と憲法のいずれが優位するかについては古典的な論争がありますが、確立した国際法規が憲法の規定よりも上位にあることには誰も異論がないでしょう。その限りで二二条は当然変容します。
 国籍を保有するということは、わが国統治の客体としての地位にある、ということであり、永住とは、わが国主権を認容するということです。したがって、わざわざわが国の国籍を離脱して、なおかつ永住許可を得るというのはナンセンスです。他方、有限の在留許可を得ると言うことは、期限経過後は国外退去する、ということが前提です。ところが前記のとおり、無国籍者は、国外に出ること自体が通常は不可能ですから、退去要求を受けてもそれを満たせません。したがって、わが国としてはそのような人に外国人として滞在を認めること自体が出来ません。
 すなわち、今日の国際法規を前提として考えると、わが国から退去要求を受けて退去できる自由を有していることが、国籍離脱の自由を主張するための前提条件となっていると言えます。そう考えると、実際上わが国国籍の離脱が可能なのは、他の国の国籍を有しているか、少なくともいずれかの国の永住許可か亡命許可を得ている場合しか考えることが出来ません。
 こうして、国籍離脱の自由は、決して漠然と個人の趣味として国籍を離脱する自由を保障しているのではないことが判ります。海外移住の自由と相まって、わが国主権による支配を拒否する自由を保障していると解するのが妥当です。広い意味での亡命の権利を保障していると言えるでしょう。その代わり、わが国に留まる限り、憲法秩序を尊重し、擁護する義務を負うことを定めているのです。