我が家の小鳥

甲斐素直


 私が今住んでいる家は、何もない区画整理地に建てたものですから、うちの庭は、移り住んだ時には一本の木も草も生えていませんでした。しかし、今の庭はまるで無秩序を絵に書いたように、欝蒼とあらゆる種類の木々が繁茂している状況です。ま、私の書斎の机の上の乱雑さに比べれば、大したこともありませんが。
 その中では、門の脇の松の木だけは、ある程度形がとれています。この木は、門の脇には松を植えるものだ、という固定観念の下に、以前、日比谷公園で林野庁が呉れた黒松の苗木を植えたところ、すくすくと育って今では五m程の背丈にもなったものです。今まで完全に放置してあればもっと大きく、しかしとんでもない格好になっていたでしょうが、母が、時々植木屋を雇って鋏を入れていますから、まだ見られる格好をしているのです。というと聞こえが良いのですが、別に自発的に植木屋を雇っているのではありません。うちの辺りには流しの植木屋という得体の知れない商売があって、飛込みで、あの松を切らせろと押し掛けてくるのを、年に一〜二度は断りかねて切らせているというだけのことです。
 それ以外の植木は、はっきり言って伸び放題の荒れ放題というところです。これは基本的に木に鋏を入れるのを私が嫌うからです。山本周五郎の作品の主人公たちは、例えば「長い坂」の主水正が典型と思いますが、誰も余り手を入れない雑木林を屋敷のなかに作ってその中に暮らすのが好きなようです。私は多分に彼の作品世界に憧れているところがあるのです。もっとも単なるものぐさとけちを、そういう理屈を捏ねて韜晦(とうかい)しているだけと言われれば、それを否定するほどの根拠もありませんが。
 大体、どの木もまともに植木屋から買ってきたものではありません。庭で一番大きな木で、遠くからでもうちの目印になっている桜の木は、付近の山を歩いていて山桜の根方に生えていた実生の苗を見付けて、掘ってきて植えたものです。次いで大きなニレケヤキは、人が盆栽に育てなさい、とわざわざ形を整えたうえで呉れた苗を、構わず庭に下ろしたら、すくすくと育ったという代物です。水ナラの木もかなり大きくなっていますが、これは拾ってきたドングリを播いておいたら育ったもの。栗の木も、八百屋から買ってきた栗を食べる前に2〜3個抜いて播いておいたら、ちゃんと一人前に育ったもの。有り難いもので、この栗の木も、最近では、全部合わせればもう家族で1〜2回は食べられる分くらいは自給できる程度には、実も成るようになりました。しかし、種類的に多いのは、何と言っても庭にくる小鳥たちが、手土産代わりに運んできて、植えていってくれた植物です。
 実はバードサンクチュアリというものに以前から憧れていたものですから、今の家に移り住んで最初にやったことが、小鳥用の給餌台を作ることでした。給餌台と言っても、単に庭に杭を打ち込んで、その上に、始めは木製の菓子箱を釘付けして作りました。これは余り良いアイデアとは言えませんでした。雨が降ると、箱に満々と水が溜まってしまうからです。箱に錐で穴を開けても、餌ですぐに詰まって、水捌けの役にはあまりたちません。その上、雀のように、地面の上を歩き慣れている鳥はともかく、大抵の小鳥は平たい板にはとまり難いようで、苦労しているのが見ていて判ります。その後色々な試行錯誤をして、今では平らな板の縁に手近の植木から切り取った枝を打ち付けて、林檎などが落ちるのを防ぐとともに、とまり木も兼用の縁としています。
 やってくる小鳥として多いのは、中型のものとしてはヒヨドリ、ムクドリ、キジバトそれにツグミが四天王です。キジバトはよほどわが庭が気に入ってくれたと見えて、桜かニレケヤキのどちらかの枝に必ず巣を作るようになりました。ちょっと旅行して、戻ってきて不用意に二階の窓を開けると、手を伸ばせば届くくらいのところにいつのまにか巣が出来ていて、母さんキジバトからはったと睨み付けられると、非常にあわてます。もっとも鳥というのは網戸を透かして家の中を見ることは出来ないらしく、戸を開けて、網戸を閉めておく分にはゆっくりと観察をしていても別に文句もいいません。
 小型の鳥では、スズメ、アオジ、ジョウビタキそれにセッカが四天王でしょうか。時にウグイスとかメジロも来ますが、あまり多くはありません。特にメジロは、前はよく来て、有名なメジロ押しを演じていたのですが、この頃はすっかり数が減りました。
 給餌台の上は狭いので、小鳥たちはまわりの木や電線の上にとまって順番待ちをしています。どういう順序なのか見ても判りませんが、別に喧嘩をするでもなく、順に食事をしていくのです。大きい方が強いということでも無さそうです。冬になると、葉の無くなった桜の木に、各種の鳥がびっしりととまっているのはちょっとした眺めです。普段の日に家に居ない私は信用されていないらしく、日曜日など、日中に私が家を出入りする時には、そのたびに、鳥が一斉に飛び立ちます。
 給餌台を作って一番びっくりしたのが、鳥たちが食事のお礼に色々な植木をプレゼントしてくれることです。すぐには判りませんでしたが、二〜三年も経つと、給餌台のまわりには大小様々な木が生えてきました。ピラカンサス、ウメモドキ、ナンテン、シラカシ、シュロ、ツゲ、サンショウといったところが主要なものですが、まだ何の木か判別できないものも何種類か生えています。それらが大きくなってくると、びっしり繁ってきますから、給餌台の傍に寄れなくなるほどです。良くしたもので、そのころには給餌台を支えている杭が腐って折れますから、少し離れたところに杭を打ち込んで新たな給餌台を作ります。そういうことを既に何度かを繰り返しているものですから、鳥が植えてくれた木々は満遍無く庭中に広がっています。このように、意識して植えたものではありませんから、うちの庭の木におよそ秩序がないのも尤もと納得していただけるでしょう。
 我が家の庭には来ませんが、家の周囲でよく声を聞く鳥としてはコジュケイがいます。ちょっと小型ですが、キジそっくりの実にきれいな鳥です。用心深く、姿はなかなか見られません。しかし声は驚くほど大きく、しかも容易に「ちょっと来い」と聞き為しが出来る特徴のあるものですから、間違える余地がありません。朝の散歩の時など、耳を聾するほどの音量で聞こえます。あまり声が大きくて、あちこちから反響してくるために、どこで鳴いているのかさっぱり判らないのが、却って強みのようです。
 キジは、前はよく家の周囲で見ました。住宅地に現れる鳥というイメージは全く持っていなかったものですから、最初に見たときには随分びっくりしたものです。調べてみたら、私の家の辺りは、宅地開発される以前は良い狩猟場でした。ちょうど鮒や鮎を解禁直前に川に放流するのと同じ理屈で、禁猟期の末頃に毎年放鳥していたものがなんとか区画整理事業を生き延びていたもののようでした。この頃見ないのは、猫にでも取られてしまったのでしょうか。それとも無事にどこかの新天地に脱出できたのでしょうか。いずれにしても馴染みの顔が見られなくなるのは淋しいことです。
 淋しいと言えば、前は五〜六月になると、必ずカッコウの声を聞くことが出来ました。あれは渡り鳥で、その頃にちょうど私の家の辺りを通り過ぎるようなのです。また、夏になるとアオバズクの特徴ある声も、いつも聞くことが出来ていました。しかし、そのどちらの声もこの数年聞いていません。
 その代わりに、最近よく見るようになってきたのが、オナガとシジュウカラです。オナガというのは、ご存じの人も多いと思いますが、大体ハトくらいの大きさの、鮮やかな白黒のツートンカラーの鳥で、名前のとおりの長い尾を引きずって飛びます。カラス科の鳥なので、声を聞くとツヤ消しですが、姿だけを見るかぎり、身近の鳥の中でも一番美しい鳥の一つだと思います。これは東京都や埼玉にはいくらでも居る鳥ですが、以前は茨城では全く見られなかったものです。シジュウカラというのは、スズメくらいの大きさの鳥で、いかにもサラリーマンといった感じにグレーの背広を着て、白いワイシャツに黒いネクタイを締めているきれいな鳥で、霞が関の大蔵省や会計検査院のまわりの植込の中を注意して見れば、いくらでも飛び回っています。
 こういう鳥の世界の新旧交替を見ていると、私の家のまわりの都市化の進行ぶりがひしひしと感じられる今日この頃です。