「御苦労様」論

甲斐素直


 司馬遼太郎の代表作「翔ぶが如く」は、後の大警視、川路利良がパリに留学しているときに、わざと道に迷っては巡査に宿まで送ってもらう話から、物語が始まっています。彼はフランスの警察制度に深い感銘を受け、その実際の機能を肌で感ずるために、そうやって巡査に送らせるということをやっているのですが、帰り付くと、送ってくれた巡査に「おやっとさぁ」と礼を言います。
 司馬氏はこの言葉を「お役目ご苦労である、という意味である。目上の者が目下の者にいう言葉で、少なくとも『有難う』という語感のものではない。」と説明しています。つまり道に迷った外国人としての感謝の意ではなく、国こそ違え、上司としてねぎらっているというわけです。
 ここでは「お役目」という言葉が補われていますが、これがあろうと無かろうと、「ご苦労」という言葉は基本的に、地位の上の者が下の者の苦労をねぎらうという語感を有するものだと思います。
 ところが、最近、この言葉が意外に世の中に氾濫しています。特に選挙シーズンには、駅前に繰りだした運動員が「毎日のお勤め、ご苦労様です」とやって、繊細な?私の神経を逆撫でします。
 私の勤めは、私が選んだものであり、どれほど大変だろうとも、候補者に労ってもらう性格のものではないし、第一、なんで彼らにご苦労と言われねばならないのでしょう。憲法第15条に言うとおり、議員は我々に対する奉仕者、すなわち目下の者ではあっても、間違っても我々の目上ではないはずです。
 もっともジャン・ジャック・ルソーは、間接民主制を評して、1日は主人だが、あとは奴隷となる制度と言っていました。これは確かに一面の真実でしょう。候補者の皆さんも、議員となって我々のうえに君臨する予定でいるものだから、その意識がまだ我々にお願いする立場である候補者の段階でも、つい顕れてくるのが、あの表現ということなのかも知れません。一人、二人がそういう言い方をする分には、あの候補には間違っても投票しない、とブラックリストに載せればいいのですが、困るのは、どの候補者もこの台詞を吐くことです。
 もっとも、これは選挙専門の現象ではありません。駅頭に立っていると、よく出迎えの光景にぶつかります。遠来の客を出迎える地元の側が、「遠路はるばるご苦労様でした」と挨拶すると、列車から下りた相手の側では、「わざわざのお出迎え、ご苦労様です」と返事をしています。
 これではどちらが目上なのか、よく判りません。おそらく、対等の間柄で、単に互いの労苦に感謝の意を評したいだけなのでしょう。そして問題は、そういう対等者間でそうした概念を表す手ごろな言葉が今日の日本語にはない、ということなのでしょう。そこで「ご苦労」という言葉に「様」などをくっつけることで、なんとかそうしたイメージを顕そうとしているのだと思います。
 しかし、こういう言い方が日本語として誤りであることを確かめるには、ちょっとした思考実験で足ります。例えばあまり知らない人にするときに「有難うございます」という丁寧な表現をするときに、親しい友人なら単に「有難う」ということが許されます。では、友人であれば「出迎えご苦労」と言えますか?
 ジョークで言うならともかく、真面目に言ったらおそらく喧嘩になるでしょう。丁寧表現を削り取ってしまうと、上下の意識が剥出しに露呈されてくるからです。この、言葉の中核的な語感に変化をさせることが出来ない以上、どれほど丁寧語でオブラートに包んでも、やはり対等の間柄では使えない言葉だと思います。まして選挙シーズンの候補者のように、目下?の相手から言われる筋合いではないのです。