日本国籍

甲斐素直

 天皇は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴(憲法第一条)」であるにも関わらず、日本国民ではない、という実に珍妙な説は、昔ほどではありませんが、いまだに多くの憲法学者のとる説です。天皇が外国人でないことは確かですから、日本人でないということは、天皇は無国籍者であると、この人達は考えているに違いありません。
 この珍妙な説を最初に言い出したのは、私の知る限りでは、美濃部達吉先生です。先生は、明治憲法の時代には、天皇機関説で弾圧を受けるほどにリベラルな学者だったので、新しい憲法についても相当自信がお有りだったのでしょう、戦後、いち早く現行憲法についての教科書を書かれています。しかし、先生ほどの大学者でも、新旧両憲法をともに正しく理解するということは至難の業であったらしく、その本の中には、今日の目から見ると奇妙な学説がいくつも目に付きます。
 天皇は国民ではない、というのもその一つです。先生の説くその理由は、実に簡単です。ご存じのとおり、明治憲法の第二章は「臣民権利義務」と題されています。臣民というのは、要するに家来である国民という意味ですから、この臣民という概念に天皇が含まれるわけはありません。これは誰が見てもはっきりしています。一方、現行憲法第三章は「国民の権利及び義務」と題されています。両者の違いは、事実上、臣民と国民の差に過ぎません。そこで先生は、国民とは、臣民を現行憲法の民主主義理念にあわせて呼び換えたに過ぎないから、国民には、臣民の場合と同様に、天皇が含まれるわけはない、と説かれるのです。
 この解釈はほかの奇妙な学説と違い、現行憲法の下でも実益があるので、今日まで生き延びました。その実益とは、天皇に、国民の基本的人権を保障しなくとも構わないという点です。例えば天皇は、れっきとした一つの職業ですから、陛下に居住、移転及び職業選択の自由を主張されては困ります。また、皇太子殿下が雅子様と結婚するに当たっては、皇室会議の議を経る必要があり、我々のように両性の合意だけで結婚できるわけではありません。
 しかし、そうした基本的人権の排除は、そのような無理な解釈をとらなくとも、憲法が天皇に世襲制の地位を認めていることから容易に説明できます。むしろ、例えば学問の自由などは、天皇としての地位に抵触するとは思えませんから、当然尊重してさしあげるべきでしょう。公職への立候補権は天皇という公職との抵触があって妥当ではないでしょうが、秘密投票権を否定する必要までがあるとは、私にはどうしても思えません。むしろ、陛下の投票される写真をマスコミに流せば、どんな啓発ポスターよりも投票率の向上に寄与するのではないでしょうか。
 そもそも現行憲法は、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める(憲法第10条)」となっているのですから、法律で天皇に国民でないと定めたものがない限り、天皇は日本国民だと考えるべきです。その法律は、国籍法のことです。その第二条によると、
「 子は、次の場合に日本国 民とする。
一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。
二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であるとき。
三 日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。」
となっています。天皇を一号で読むか、三号で読むかは趣味(世界観?)の問題として、どう転んでも天皇が日本人の一人であることは確かだと思われます。
 ところで、日本の国籍法はこの一号及び二号にはっきり現れているとおり、原則として血統主義を採用しており、三号で補足的に属地主義を採用しているに過ぎません。現在日本国籍を有する者のほとんどは、帰化した人を除いては大和民族に属しますから、我々にとっては、国籍の決定に当たって血統主義を採用することは、ごく自然の発想だからです。
 以前は、もっと徹底していて、原則として父系主義を採用していました。すなわち、改正前の国籍法では、現在の一号及び二号の代わりに
「一 出生の時に父が日本国 民であるとき。
二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき。
三 父が知れない場合又は国籍を有しない場合において、母が日本国民であるとき。」
という規定があったのです。
 これには理由がありました。国籍は無いというのも困りますが、二重国籍とか三重国籍というのも健全なことではありません。今のように父母のいずれかが日本人であれば日本国籍が得られるとしておくと、国際結婚の場合には自動的に二重国籍の子供が生まれてしまうので、それを防ぐには、父系主義をとっても男女平等を定めた憲法に違反するとは言えない、と考えられていたのです。
 ところで、こうした日本的発想にとってまさに意表を突いたのが、国籍において属地主義を原則とする国があるということです。それも極めておつき合いの深い米国がそうなのです。
 米国は、基本的に移民の国です。したがって、血統主義の代わりに属地主義を原則とします。米国で生まれれば、外国人の子供であっても米国籍を取得できることは良く知られているとおりです。わが国にとって問題が起こるのはその逆で、米国人の子供であっても、米国の領土内で生まれなかった場合には、必ずしも米国籍を取得できるとは限らないという点です。そのルールはかなり複雑なので詳細は省略しますが、要するに、出生後一定期間内に米国に帰らない限り、米国人の子でも米国籍は得られません。
 その結果、米国人の父と日本人の母との間に生まれた子供で、ずっと日本に住んでいる者は、改正前の国籍法の下では、無国籍になってしまうのです。父が米国人とはっきり判っているのですから、国籍法の旧三号は適用にならないからです。
 その事件が裁判で問題となり、判決が国籍法の父系主義を問題としたため、現行のような単純な血統主義に改正されました。先に紹介したとおり、そうすると国際結婚の場合には、もし相手の国も血統主義をとっていれば(この条件が普遍的なものだと以前の日本人は不覚にも錯覚していたわけですが)、その子は自動的に二重国籍になります。その問題を解決するために、原則として二二歳までにどちらの国籍をとるか選択しなければならない、という規定が新設されました。
 これで、どんな問題が起こっても大丈夫、と皆思っていたものです。しかし、世の中に起こることと言うのは、人間の知恵では予測の出来ないものです。最近裁判で問題になっているのは、父親が知れず、母親がフィリピン人らしいがはっきりしないという孤児のケースです。ちなみに、国籍取得の基礎となる父子関係は民法に基づいて判断されますから、無効婚もしくは認知されていない場合は父親が知れない場合とされます。
 要するに、新三号は、父母が知れないときと、無国籍の場合だけをカバーしているので、母親は一応判っているが、どこの国籍を持っているかは良く判らない、という事態は予想していなかったのです。
 事件はこんな形を取りました。ある病院に、産気づいた婦人が駆け込んできたので、病院ではあわてて分娩室に運び、無事出産させたのです。ところが、翌朝、常識ではとても歩けないと思われる時期に、その母親は病院から逃げ出してしまい、後には赤ん坊だけが残ったわけです。その女性は見たところ、フィリピン人に見え、実際、それらしい名前を告げていましたが、後にそれは偽名であることが判りました。法務省は母親がフィリピン人と判っているのだから、日本国籍は得られないといい、フィリピン政府は、母親がフィリピン人とは判らないから、フィリピン国籍を与えるわけには行かない、というのです。そこで、この子供を養子にした人が、日本政府に、日本国籍を求めて訴えたわけです。
 これについて裁判所の判決は二つに分かれました。第1審は、母親の国籍の挙証責任は国側が負い、積極的な証明がない限り子供は新三号により、日本国籍を取得できると判断しました。それに対して、第2審は子供の側に、母親の無国籍の挙証責任があるので、子供は日本国籍を取得できないとしました。
 この問題は、上述のとおり、国籍法の予想していなかったものですから、国籍法を支配する憲法原理に照らして憲法レベルで解決すべきです。
 現行憲法は、その根本的な原理として個人主義を採用しています。個人主義というのは利己主義の別名のそれではなく、全体主義に対立する概念としてのそれです。要するに個々の人間の尊厳を最大限に尊重すべきだとする原理のことです。これからすれば、日本で生まれ、これからの生涯を日本で送って行くであろう子供については、出来る限り日本国籍を認める方向で考えるべきだ、ということになります。また、わが憲法は、この個人主義の派生原理として国際協調主義を採用しています。現在、可能な限り無国籍者をなくそうというのが国際的なコンセンサスと認められます。この観点からも、この子の国籍を承認するのが正しいと考えられます。したがって一審判決をもって妥当と考えます。
 事件は上告されていますから、最高裁判所がどのような判断を示すか、楽しみです。 


後日談
 最高裁判所第二小法廷では、この上告に対して平成7年1月27日に判決を下しました。判決では、国籍法2条3号の「父母がともに知れないとき」とは、父母のいずれもが特定されないときをいい、ある者が父又は母である可能性が高くても、これを特定するに至らないときは、右要件に当たるとし、また、国籍の取得を主張する者が、出生時の状況等その者の父母に関する諸般の事情により、社会通念上、父及び母がだれであるかを特定することができないと判断される状況にあることを立証した場合には、国籍法2条3号にいう「父母がともに知れないとき」に当たると一応認定することができ、国籍の取得を争う者が、反証によって、ある者がその子の父又は母である可能性が高いことをうかがわせる事情が存在することを立証しても、父又は母であると特定するに至らない場合には、右認定を覆すことはできない、と述べられています。要するに、私の本文で述べた主張が認められたわけです。しかし、残念なことに、法務省では、今日に至るも、この判決の射程距離をきわめて限定的に解釈して制度を運用しており、同じような事情で無国籍状態に泣いている子供が後を絶たない、ということです。