思い出すことあれこれ

甲斐 素直

《これは学生諸君から、私の来た道が知りたいからと頼まれて、ゼミ誌の1号に掲載した随筆です。》

 人はよく死ぬ瞬間に、その生涯のすべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡るといいます。それが本当かどうか確かめることは不可能ですが、わたし自身の経験から考えると、それはある程度まで本当のように思えます。と、言うのは、会計検査院をやめる決心をしたとき、すなわち大学時代の恩師から「大分待ったのだから、今年当たり、いい加減で大学に帰ってくれなくては困る。」と言われて「判りました、帰りましょう。」と返事をしたとたんに、頭のなかにいろいろな思い出が次から次へと浮かんできて、その夜はなかなか寝られなくて苦労したという経験があったからです。
 もっとも、多くの人が、私が会計検査院を辞めた理由より以上に、入ったことの方を不思議に思っていたようです。だから、ここでは会計検査院に入った理由を説明することにしましょう。それを理解してもらうには、さらにその前の学生時代から判ってもらう必要があります。


1 学生時代
 私はいわゆる全共闘世代です。大学2年の時に大学紛争が始まり、3年の時には大学側のロックアウトによって授業が無くなり、卒業式は開かれようともせず、大学の学生課に身分証明書を提出すると、それと引き替えに卒業証書が交付される、というとんでもない時代の学生です。
 私は初期全共闘の初々しさは大好きでした。彼らの言っていることには素朴な真実があったと今でも思います。それにも増して好きだったのは、自分たちのやっていることは正義だから、世の中もこれを支持し、救けてくれるに違いないと無邪気に信じ切っていたことです。大学側の要請で、白山通りに渦巻いている学生のデモ隊を排除するために機動隊がやってきたとき、自分たちを救けるためにきてくれたのだ、と思って、学生たちが拍手でこれを迎えた、という光景は、未だに忘れることができません。もっとも、その時、私は学生運動そのものにかなり醒めた見方をしていて、その光景も当時法学部2号館の屋上にあったプレハブの法職研究室(その後、廃止になりましたが、今の司法科研究室の前身と考えればいいでしょう。)の前から眺めていたのですが・・。
 当時の私の愛読書は司馬遼太郎の「竜馬が行く」でした。その影響で、動乱期にあればあるほど、時代の傾向に安易に流されず、着実に自力をつけておいたものが、本当の意味で世の中を動かすという信念をもっていた私としては、言わば、大衆の一人ではなく、個人としての私が必要になるまでは動くまいと考え、そういう全共闘の愛すべき素朴さの中に身を投じて、一緒になって騒いで回るということはしていませんでした。その後、闘争は過激化の一途をたどり、思想的にも手段的にも、とても私が主体的に参加したり協力したりできるような内容のものでは無くなりました。
 では、その騒ぎの時に私が何をやっていたかというと、上述のとおり法職研究室の中に席を確保して、ロックアウト後も裏口から出入りをしてはそこで勉強していたのです。後になって屋内の部屋ももらえましたが、初めは2号館(今のきれいなものではなく、オンボロの6階建てでした。)の屋上に建てたプレハブハウスでした。最近のプレハブのような立派なものではなく、ベニヤとトタンを鉄筋で締め上げただけの簡単な建物です。暖房は天井もない広い部屋の真ん中に小さな石油ストーブが一つあるだけで事実上なく、冷房は全くありませんでした。それでも屋上なので、夏はまだ風が通ってしのぎやすいのですが、冬の寒さに参りました。毛布にくるまってお茶を飲む以外にぬくもりを得る方法がないのです。
 そういう時、身体を動かせば暖かくなるというのは見えやすい考えです。いるのは屋上です。そこで寒くて、どうしても本が読めなくなるとキャッチボールをしたのです。もう時効なので白状しますが、私を筆頭に、とにかくおよそ運動神経の無いというか、それまでまともに野球をやったことがないという連中が揃っていましたから、ボールのコントロールを失って下の民家(今の都営地下鉄の換気塔の部分に丸沼書店がありました。)の瓦屋根のうえにボールを落としてばかりいました。六階の屋上から落ちるボールです。多分瓦は割れているでしょう。だからとても落としました、拾わせてください、と丸沼書店に入っていく度胸はありません。
 そこで皆で費用を出しあっては、質流れ品の店から安いボールを買っては投げていたものです。しかし、回りに2mのフェンスがある屋上で投げていながら、1週間にキャッチボールで平均10個のボールをなくしていたというのは、今考えても呆れてしまいます。ひどい時になると、ダイレクトで白山通りまで飛んでいって、タクシーの屋根の上で跳ねた、なんて事がありました。事故が起こらなくて良かったものです。
 しかし、学生は自分で研究室に篭もって本だけ読んでいるだけでは、どうしても実力を向上させることができません。きちんとした講義を受ける必要があるのですが、今も書いたとおり、大学はロックアウト中です。そこで皆で相談しては、特定の先生や先輩の弁護士などに白羽の矢を立て、呼び出して講義を受けました。初めは大学の近所の喫茶店が講堂でした。先生のコーヒー代だけは皆で分担しますが、後の謝礼は当然?一切なしです。そのうち、私たちがそういうことをやっているということを知って参加者希望者も増えてきたので、喫茶店よりはもう少し環境のいいところにしようと、随分色々なところを使いました。公的な施設としては、図書館、公民館、区の出張所、小石川後楽園(野球場ではなく、お庭の方です。)などの会議室、はてはパチンコ屋や経営不振で潰れる寸前の結婚式場なんてところで会場を借りたこともあります。とにかく、都内をさまよいながらあらゆるところで講義を受けていたわけです。只で教えにきてくれた先生方も大変だったと思いますが、会場の設営から仲間内の連絡等をやっていた私の方も大変でした。しかし苦労したものは身に付くといいますが、こうした講義の方が、大学内の講堂で教えられたことよりもよく覚えられたことは確かです。

2 卒業後
 そういう無理が祟ったのか、私は大学卒業の年に大病をしました。病気そのものはただの痔なのですが、入院3ヵ月、通院6ヵ月というと半端な病気ではなかったことが判っていただけると思います。今でも学生諸君には「司法試験なんて易しい、だれでも2年間、1日10時間机にむかって本を読めば、必ず通る!」と煽るのですが、どうもその座り過ぎが尻の健康には良くなかったようなのです。
 ところで、私のその時点までのライフプランというのはきわめて常識的なもので、司法試験合格後、司法研修所に2年行ったうえで、大学に戻り、教鞭をとりたいと考えていました。しかし、1年間寝ている間に考えが少し変わりました。
 その時考えていた問題は二つありました。
 一つは、私は教育者としてよりも研究者としての傾向の方が強いということです。大学紛争のまだまだ激しい中に戻っていって、学生諸君を情熱を篭めて指導し、紛争の熱を冷まさせる等ということはどう考えても私の柄ではないのです。だからいきなり大学に戻るよりも、紛争が本格的に鎮静するまでの間、何か別の世界に行った方が良さそうだ、と考えたのです。
 もう一つ、非常に気になったのが、自分がある意味で純粋培養のブロイラーのような存在だ、ということです。つまり、私の知っている世の中というのは所詮本の中にあるだけの抽象的世界で、どうも現実に根ざしていないようだ、ということが痛感されるようになってきたのです。このままで研究者の道に入っても、実際に根ざさない空理空論を弄ぶだけの存在になりかねない、ということを危惧したわけです。こう書くと、何か私が非常にクールに自分を見つめていたように思えるかも知れませんが、おそらくこうした不安感というのは、私達のように、大学卒業資格は持っていながら、実はまともに大学教育は受けていないという人間に共通するものだったのだろうと思います。私の友人の一人は、司法試験合格後ただちに研修所に行く代わりに、それをわざわざ1年間遅らせ、その間は家業の手伝いをして過ごしてました。別の一人は研修には普通に行ったのですが、その終了後に直ちに法曹の道に進む代わりに、米国の大学院に自費で留学しました。彼は結局、そこで日本IBMにスカウトされて、同社の法務担当者として帰国することになりました。外の友人達も、それなりに曲がった道を歩いています。
 で、私は私なりに大学へ残る以外の道を探ってみようと考えました。常識的に考えられるのは弁護士ですが、これは自分には向かない、と考えていました。逆説的ですが、私には、弁護士としての能力が非常にありすぎるからです。つまり、それが社会的に見て正しいか否かに関わりなく、欲しい結論に向けて一見尤もらしい論理を組み立てる能力が多分にあります。
 話は少々逸れますが、この能力は会計検査院でも随分役に立ちました。例えば防衛検査第2課、すなわち海上自衛隊を検査する課にいた頃に話ですが、同じ班の調査官が、海上自衛隊にある非常に合理的な指摘(当時のお金で年間二億円も節減できる計算でした。)を行ったところ、相手が徹底防衛に出て、なんと20数項目の反論を上げてきたことがあります。で、彼は一々個別に反論するのは面倒だと、一遍に関係者全員(十数人いたと記憶しています。)を本院に呼んだのです。それまで、私は特にその話には関わっていなかったのですが、こういうことで沢山呼んだから回答折衝に付き合ってくれ、と頼まれ、二つ返事で引き受けました。で、相手の反論のうち、事実に根ざす反論の方はその調査官が事実を挙げて反駁し、屁理屈のたぐいは私が一切引き受けて、その場でさらに屁理屈をこねて反駁するという手法で、たった1日だけで、その大量の反論をすべて間違っていました、と撤回させることに成功したのです。この案は、結局相手方が、「嫌だから嫌だ」という理屈抜きの究極の反論を出してきた(その前の年、私はやはりその調査官等と組んで計七千万円の節減ができる合理化方法を指摘をし、検査報告掲記になったところ、国会で、こんな巨額の無駄遣いがあるとは、と大騒ぎになったので、自衛隊としては二億円の指摘を受けるわけには絶対に行かなかったのです。)ので没になりました。しかし、そこまでなりふり構わない反論をするまでに追い込めたということで、負け戦さとしては非常に後味の良い事件でした。
 しかし、こういう強引な理屈のでっち上げは、会計検査院の仕事のように、自分の良心に照らして安心して出来ることだから問題がないのです。私の知っているある有能な弁護士は、刑事事件で非常に多くの無罪判決や無罪同然の判決を勝ちとるのに成功した結果、犯罪者の間で絶対的な人気を得ました。その結果、まともな人は敬遠して近寄らなくなったものですから、はっと気が付いたら暴力団の顧問弁護士同然の存在になっていました。私も必ずそうなるという訳ではないのですが、危うきに近寄らないほうがましだ、という訳です。
 すると残るのは検事と判事が残る法曹関係の仕事ということになりますが、どちらも気乗りがししません。病み上がりの体力で、夜遅くまで犯罪容疑者相手にやりあう検事の仕事が無理なのは明らかです。判例的に面白い事件ならともかく、訴訟マニアの提起してくる訳の判らない事件も割り振られれば引き受けざるを得ない判事の仕事はさらにつまらなそうです。
 そこで考え付いたのが、行政官になるということでした。きっかけは偶然です。霞ヶ関の法務省に行って、丸の内線の霞ヶ関駅に向かって歩いていくと、そこの角に人事院ビルがあります。司法試験関係の書類を貰うために法務省に行った帰りにふと見ると、人事院ビルの外に行列ができているのです。何だろうと聞いてみたら国家公務員試験上級職(今の1種のことです。)の願書受け付けだというのです。そういえば、日大法職課程の説明会で、法職とは司法試験及び上級法律職を目指す試験だという説明があったっけ、と思いだし、聞いてみると受験料は只、試験科目は、行政法をのぞくとほぼ司法試験と重複している、ということで、これは手頃な模擬試験だとその場で願書を出したのです。
 受験した後はそのことはすっかり忘れていたのですが、ある日、最終合格の通知が舞い込んできていたのです。その瞬間に、それまで考えてもいなかった選択肢が突然一つ湧いてきたわけです。これが魅力に思えたのは、その当時の私が、既に憲法の統治機構の研究にのめり込みだしていたからです。
 私の興味の中心はかなり蛇行しています。最初、大学に入学したての頃は、民法が一番好きでした。しかし熱を入れて勉強してみると、一生を打ち込むほどに面白いものではなさそうだ、という気がしてきました。次に興味を持ったのは刑法です。大学1年生にして新派刑法理論と旧派刑法理論を止揚した新しい理論を形成するのだ、と夢を抱いて、夜も昼も考えていた時代がありました。大学ノートを何冊も、訳の分からぬ理論で埋めたものです。しかし、だいたい半年程度で、自分としては十分に整合性のある理論の構築に成功した(ちなみに、それはいまだに私の憲法第31条以下の解釈の支柱です。)ものですから、その段階で刑法研究の熱も冷めました。次いで関心を持ったのは商法で、これがもっとも長続きし、結局ゼミの稲田先生の商法ゼミに入って勉強することになったわけです。
 もっとも稲田ゼミに入ったのは、司法試験科目の中で商法が相対的に一番弱いという意識があったことせいでもあります。また、今の学生諸君もそうだと思うのですが、ゼミで大事なのは、指導教員もさることながら、先輩です。そして、当時の稲田ゼミには、今赤坂で弁護士を開業している泉さんという非常に優れた人が1年上にいたので、何でも判らないことがあれば彼に相談できるというのも大きな魅力もあったからです。
 そうやって勉強しているうちに、自分の学力のうちで、相対的に一番低いのは憲法の統治機構の部分だという事がはっきりしてきました。そこで一人でこつこつ勉強を始めたのですが、やればやるほど判らなくなってきます。最初のうちは単純に自分の勉強が不足している性だ、と思っていたのですが、だんだんに、そもそも学界における学問的研究そのものが絶対的に不足し、その水準が低いことがその原因だということが判ってきました。また、さらにその真の原因は、従来の法学の研究手段が判例中心であるのに対して、統治機構の分野は、例の統治行為理論や三権分立に基づく司法権の自制等のために、本質的に判例にならないため、法学者は手も足も出ないでいる性だという事が判ってきました。
 ここにこそ、大学に入学以来探していた私だけの研究分野がある、と考えたのです。判例で研究できないのですから、実際の統治機構を構成している機関における実際の活動内容を調査研究する以外に、この分野の研究方法がないことは明らかです。
 ここまでは、それまでも漠然と考えていたことです。そこに湧いてきたのが、前述のとおり、私自身が行政官になるチャンスでした。となると、選択の対象は自ずと絞られます。とにかく一省庁に居ながらにして、短い期間に全省庁を見ることができるところというのはいくつもありません。まず会計検査院、これが当然第1希望です。なぜなら会計検査院には憲法第90条と三権分立がどのように調和するのか、という大きな謎が、その組織そのものにあったからです。第2希望が行政監察庁(今の総務庁)、そして第3希望として人事という限られた角度からではあるが同じように、全省庁を相手にする人事院です。最初、大蔵省も考えたのですが、説明を聞きに行ったところ、主計局以外では全省庁を見るという訳には行かないということだったので、外しました。で、その三つをせっせと面接を受けて廻ったのです。どこでも最終的には局長か次官級(会計検査院だと事務総局次長)との面談にまで漕ぎ着けたのですが、結論的にいうと、その年は全部落ちました。
 大学紛争や大病など、自分の一身上のことに気をとられて全く気が付いていなかったのですが、当時民間の景気がよく、例えば公務員試験に1番で合格し大蔵省に入った男が、4月1日に姿を見せて辞表をだし、翌日から三井物産に勤めるなんて事件が頻発していたのです。そういう時代背景から見ると、私のような人間はいつ辞めるか判ったものではない、とてもではないが物騒で採用できない、と思われるのは無理の無いことです。実際にはっきりとそう教えてくれたのは人事院でした。そしてまた、その疑いは一面でたしかに当たっているのです。向こうの考えている、司法試験に合格したら弁護士になってしまうのではないか、という疑惑は外れているのですが、遅かれ早かれ大学に帰るつもりでいるのですから、長く勤めないことは確かだからです。
 しかし、その後もいくら考えても、やはり直ちに大学というのは気が進まず、他の道としては明らかに公務員が向いていると思え、公務員のなかでは会計検査院がやはり一番いいとしか思えません。そこで翌年改めて受験しなおして、また会計検査院を訪問しました。この年には司法試験も合格したので、それにも関わらず、公務員になりますという宣言はある程度の効果を持ったのでしょう、人事課に顔をだすと、面接も何もなく、人事課長からいきなり採用しますと言ってもらえたのです。
 もっとも会計検査院としても完全に安心して採用したわけではなく、依然として一つの賭けだったようです。採用の決まった後のことですが、私は、受験新報に頼まれて司法試験の合格体験記を書いたのですが、その文の最後に、「ところで私は法曹にはならない。4月1日から会計検査院に10年ほど奉職する。」という趣旨のことを書いていたのです。そういう司法試験受験雑誌というのは会計検査院とは世界が違いますから、誰知るまいと気楽に書き飛ばしたのですが、4月1日に出勤してきたら、人事課の副長に「10年は居る、と書いてあったから喜んだよ。」といわれて顔から火が出る思いがしました。ちなみにその副長とは疋田現検査官(その後、院長になられて現在は退官されました。)です。疋田さんはその後もこのことをしっかり覚えていて、10年経ったときに「ところで予定の10年が過ぎたけれど、どうするの。」と聞かれました。そのときには、「会計検査院というものがまたよく判らないので、もう10年いることにしました」と返事しました。それに対して「10年先では、ぼくはもう辞めているねぇ。」と言われました。しかし、実際には、20年目に最終的に辞めますと申し出たときの会計検査院事務総長でもあった訳で、つくづく縁が深いと思いました。
 序でに言うと、私は最初、農林検査第4課といって、農林水産省の外局である林野庁と食糧庁を検査する課に配属になったのですが、課では私の歓迎会を4月ではなく、9月にやってくれたのです。私は、その時にはなにも知りませんでしたから、そのことを別に不思議にも思わなかったものです。とにかく私自身は4月の初日は会計検査院に来たものの、その翌日から人事院の研修で1週間以上会計検査院に出勤しませんでしたし、改めて会計検査院に毎日来るようになったときには、出張シーズンに入っていて、いつでも部屋の中は半分以上がいないのですから。9月の歓迎会というのがきわめて異常な事態だったということを知ったのは、翌年の4月、文書係長が、「出張と研修だらけで、なんとしても新人の歓迎会の日程を採れない」と言って頭を抱えているのを見たときです。そのとき始めて、私は私がいつ止めるかと、はらはらして眺められていた、ということを知ったのです。私が採用になる前年に、わずか1日だけ出勤して止めた人が、会計検査院に、しかもその農林4課に居たので、その二の舞になるだろうというのが衆目の一致するところだったのです。身から出た錆とはいえ、半年遅れの歓迎会ですから、私は歓迎会が遅かったことに関する会計検査院の記録保持者ではないかと思います。
 話を元に戻して、この、学生ではないけれど就職もしていないというこの時期が、私としてもっとも経済的に厳しい時代でした。学生時代は色々な奨学金がありましたから、楽とは言えないまでもそう辛くもなかったのです。幸い、母校の方で、受験指導ということでいくばくかのお金を払ってくれました。私の場合、司法試験と公務員試験の二つの指導をやりましたから、2倍来た訳で、それでなんとか食うだけは出来ました。また、研究室も従来どおり使えましたから、居る場所に困るということも無かった訳です。
 我ながら乱暴だと思うのは、少々事情があったとはいえ、この、金の一番無い時期に家を買ったことです。まだ就職していないのですから、ローンを組むと言っても給与証明書が出ません。しかし、住宅業者の方でも、半年後の就職は確定しているということも考慮したのでしょうが、売りたい一心で、自分の会社の社員であるといういんちきの給与証明をでっちあげてくれたので、辛うじて可能となった訳です。買ったのは自衛隊の朝霞演習場に程近い小さな家でしたが、あれはまさに決断の時でした。会計検査院に入った後、程なく狂乱物価が来ましたから、落ち着いて構えていたらいまだに家を買うなんてことは出来なかったでしょう。売ったときには、かなり値切られたのにも関わらず、買値の3倍になったのですから。そのお金が今住んでいる家の原資の重要な一部になったわけです。


3 農林4課時代
 農林4課というのは、農林省の二つの外局、林野と食糧を担当している部屋でした。何といっても最初の部屋ですから、非常に印象に深いものがあります。
 私のその後を決定することになる二つの研修に1年の間隔を置いて行ったのもこの部屋からです。一つは電算機研修です。蒲田にある富士通の電算機学校に3ヵ月通って、コボル及びフォルトランといわれる言語を中心に、コンピュータソフトの書き方を習ったのです。本院はおろか、受験側である林野庁にも食糧庁にも1台の電算機もなかった時代に、良く研修に出してくれたものだと思います。この研修で学んだことは、実際問題としては何の役にも立ちませんでした。コボルのソフトなどというものは、その後まったく書いたことがないという意味において、はです。しかし、形にならない部分では非常に役に立ってくれました。受検先に電算機があると、私が検査できなくて誰が検査する、という一種の使命感で、少しも判らないなりに、とにかく検査する習慣を身につけることができたからです。私は自分のことを電算機検査のスペシャリストと規定しています。電通検査課時代には、NTTの保有する電算機の検査に会計検査院で最初に取り組み、数十億円の改善要求を行うことができましたし、また、様々な検査課で、データを電算機を使用して解析し、検査指摘につなげるということにも成功したからです。が、そこでいう電算機検査の技術は、すべて検査の過程で身につけたもので、富士通から学んだわけではないのです。ただ、恐れる事無く電算機室に入るといういちばん根底の習慣だけは、この学校の経験を通じて与えてもらったのです。
 もう一つの研修はドイツ語研修です。通産省の外廓団体であるJETROの、さらに外廓団体に、世界経済情報サービスWEISという団体があり、そこが浜松町の貿易センタービルのなかに語学研修所を作っていたのです。そこの語学研修の、会計検査院から見た場合の最大の取り柄は、民間からの受講者は有料だけれど、官公庁からの受講者は無料だ、という点です。そこで、私にどれかの言葉で研修にいってみないかという話が来たわけです。英語については自信があり、何かやるならドイツ語だ、ということで、そう研修官に申し出たところ、行く以上は、その語学で海外留学をするくらいの心算でなくては困る、といわれました。そのチャンスはこちらとしても狙っていたところですから、もちろん異存はありません。これも3ヵ月、それも午後だけでしたから、そう実力がついたわけではありませんが、これもその後の自信の大きな基礎になってくれました。どの研修にせよ、研修というものは即役に立つというよりも、その後の勉強の方向付けを与えてくれるという部分が大事なようです。
 農林4課では文書係に属していたのですが、同課は、当時の本院としてはずば抜けて文書量の多い部屋でしたから、研修に行くといっても文書事務を外してもらうわけにはいきません。学校が終わったあとで、部屋に戻ってきて、文書事務を整理するのは楽ではありませんでしたが、研修はそういう負担があってもなお行く価値のあるものでした。ついでに脱線すれば、この文書事務整理の負担を減らしたい一心で、林野庁にどういう形で書類を作らせたらよいか研究し、無造作に自分名義で文書を作って林野庁の監査課に渡したことがあります。監査課の方では扱いに困ったのでしょう、改めて農林4課長のほうにそれを持ってきました。課長は、なるほど合理的だと認めたのでしょう、下っ端のくせに差し出たことをする、と怒りもせず、逆に、より拡充した案を作成するように文書係長に指示して、結局、私の案を基本にした形で、林野庁からの書類はその後提出されることになりました。

4 防衛検査課時代
 その後、留学の順番待ちの辛い時代が来ました。農林4課の次には海上自衛隊を担当する防衛二課、防衛施設庁を担当する防衛一課と移り、調査官として仕事をしつつ、ドイツ語の勉強もしたわけです。これらの課の仕事はかなり面白く、毎年何件もの問題を発見して、防衛庁に照会を打ちましたし、担当した案件がはじめて検査報告に掲記されたのも、ここでのことです。しかし、年間100日を越える出張の中でドイツ語の勉強を続けるのは辛く、特に、ドイツ語の初級能力検定試験を受ける時期と出張とがかち合って、なかなか受験そのものができなかったのが辛いところでした。そのおかげで、語学研修で初級の最上級クラスに何年も足踏みすることになりました。また、人事院では、留学生の認定試験の実施を、日本の国語研究所に相当するゲーテインスティチュートに依頼していたのですが、ゲーテでは、初級検定に合格しない人間に、留学合格の判定を出す気は点からなかったからです。何とか出張日程をやりくりして、ようやく初級検定に合格した年は、そのしわ寄せで、人事院の留学試験の時には、出張から戻った翌日くらいのタイミングで、ひどいドイツ語をしゃべったのですが、ゲーテの方では、この年ははじめから合格させるつもりでいたらしく、口頭試験が終わるなり、担当者が、おめでとうと握手を求めてくれました。
 この時代に、印象に残っているのがロッキード事件です。田中角栄首相の辞任、刑事事件に発展したこの事件の検査は、日本にとっても大事件でしたが、会計検査院にとっても、大事件でした。これを会計検査院で直接扱っていたのは、航空自衛隊を担当していた防衛3課でした。同課では丸紅に実地検査にいって、ロッキード事件関係の契約書類などを提出するように求めたところ、丸紅では無造作に段ボール箱数十個の書類を提出してきたのです。あけてみると、中は全部英文です。そこで、突然廊下を挟んで向かい側の防衛二課の調査官だった私のところに突然おはちが回ってきたのです。要するに、防衛1課の主任と防衛3課の事務官の二人をおまえの部下につけるから、この段ボールの英文を全部日本語に訳せ、というのです。上記の通り、そうでなくとも忙しいのに、そんな膨大な量の英語の翻訳ができるわけはありません。また、ドイツ語ならともかく、英語では、留学のための勉強にも少しもなりません。しかし、命令ですから、何とかしなければなりません。そこで、片端から箱を開けて中に目を通してみると、相手が抵抗もせず、提出に応じただけあって、毒にも薬にもならない契約書類の山であるに過ぎません。そこで、これを翻訳しても検査の役には立たない、ということを上司に説得できるだけの量を翻訳する、と方針を決め、何十かの書類を選んで翻訳に取りかかりました。自分の翻訳文だけでも大変なのに、部下として割り振られた人の翻訳にも朱を入れなければならない、ということでかなりの業務量でした。ほとんど元の文が残らないほどに朱を入れる必要があったのですが、それでも一人でやるよりはかなり能率が良く、やはり部下を使うというのは大事なことだな、と痛感したものでした。

5 留学前夜ー調査課国際係長時代
 会計検査院では、今は留学と言っても特に所属課を変えることはしませんが、当時は必ず、留学が決まると官房各課、たいていは審議室か調査課に移されました。留学でいなくなるものがあるということは、検査課長としてみる限り、非常に迷惑なことです。しかし、官房としては唯でさえ手薄な陣容を、留学生にもぎ取られることは検査課よりも辛いわけです。また、留学生本人としても、留学中、馴染みの薄い部屋にサポートして貰うよりも何年か親しんできた部屋の方が楽だということがあります。だから、全体としてみた場合、今のやり方の方が利点が多いと思います。
 それはともかく、翌年の留学が決まったその年の暮れ、定期の人事異動で私は予想どおり調査課に移され、国際係長とされました。国際係は、少なくとも私の印象では英語文書の翻訳ということがメインの仕事でした。海外会計検査院との文書のやりとりと、海外から手にいれた文献の翻訳です。係から出している刊行物として、「外国調査資料」がありました。それまでの外国調査資料は、調査課のルーチンワークの中で行っている翻訳がある程度溜まると、それをまとめて印刷してホチキスで止めて配ると言うだけのものでした。体裁としても、表紙にただ掲載してある翻訳のタイトルだけが書き並べてある、という至って殺風景な代物でした。
私は中学、高校と新聞部の主筆をしていましたから、こういう刊行物を見ると、その血が騒ぎます。そこでさっそくこれの抜本改革を図ることにしました。改革方針としては、まず、毎月の定期刊行物とすること、表紙はちゃんとつけ、それに絵を入れること、の二つです。といっても、私はあまり絵心のある方ではありませんから、絵を自分達で書くのは大変です。そこで、さしあたりの方針としては、その号に取り上げている各国会計検査院の紋章を入れる、紋章がないところは国旗を入れるとうことにしました。目次もきちんと独立頁でつける、ということも決めました。例によってめくら蛇で、平の係長の分際でさっさと方針を決めたわけです。
 こうした方針を決めたについては、隠れた狙いもありました。この方針で直ちに予想されるところは、毎月かなりの翻訳を行う必要があると言うことです。そして、いまでは調査課国際係は、課長級の室長まで持つ堂々たる陣容に発展していますが、当時は係長に二人の部下というな小さな係でした。その係の片手間仕事では、定期刊行物に載せるだけの翻訳をすることが出来ないことはきわめて明きらかです。私が狙いとしたのは、院内にいる留学予備軍です。つまり、私の留学生試験の受験生活の経験から考えて、受験生達は原語の資料に飢えているに違いない、ということです。通りいっぺんの新聞記事などを個人でこつこつ訳しているよりも、自分が行こうと思っている国の会計検査院の生の活動を伝える資料を読むことが出来ればその方が良いに決まっています。
 そこで、研修官室に出かけて行って、そうした受験生達の名簿を手にいれ、一人一人口説いて回ったのです。翻訳しても謝礼は出せないけれど、翻訳が読めるに値するまで、調査課で責任を持って添削して上げるので、無料の勉強のチャンスである、と口説いた訳です。ほとんどの人が承知してくれました。
 このアイデア、当初調査課では懐疑的でした。元の文がないほどに添削する必要があることは判っていましたから、それなら地の文から自分のところで翻訳をやった方が早いのではないか、ということです。しかし、防衛検査時代にロッキード関連文書の翻訳をチームでやった経験から、どれほど添削をしても、原語から自分一人で翻訳作業をするよりもはるかに楽だ、ということは私には判っていましたから、押し通しました。もちろん、院内に将来の国際派?を育てるという陰の狙いの方は誰もが賛同してくれましたから、とにかく私にやらせてみてはどうか、という了解を得るのにそう苦労はなかったのです。
 このアイデア、少なくとも私の在任中はうまく走りました。添削するべき量が増えすぎて、予定の刊行期日までに間に合いそうもないと言うことで、電車の中で添削したことも何度かありましたが・・。実を言えば、それは私の英語の勉強法でもあったのです。結果として、これは非常に効果のある方法で、とくに会計検査関係の単語をたくさん覚えることができたのは欧州に行って非常に役に立ちました。というのは、私はドイツ一国だけではなく、かなり多数の国の会計検査院を訪問して、欧州各国の比較法的な研究を実施したのですが、そうした際には、ドイツ語よりも英語の方で意志疎通を図る必要があったからです。
 教育というものの不思議さで、教える立場の方が教わる立場よりも自分として教わることが多くなるものです。そのことを痛感したのは司法試験の受験時代のグループ研究の際でしたが、それ以来、何かを勉強したいと思ったときには少々背伸びをしても教える方に回るというのが、私の基本的な方法です。
 昔、正岡子規が和歌の勉強を始めたとき、まったくの初学者だったのに、平気で夏目漱石等を集めて教え始めた、といいます。だから丸っきりトンチンカンなことをしゃべっていることが珍しくなかったと言うことです。おそらく子規も教育者としての立場に私と同じような効果を認めていたのでしょう。私が、今回大学に帰ったのも、立法や行政の現場から生の資料を収集できるという点では会計検査院にいた方が間違いなく良いのですが、教える立場にならない限り私の学問のこれ以上の発展は望めない、と判断したからです。
 皆さんも、何かを本当に勉強したかったら、是非それを教える方法を見つけることを工夫すると良いと思います。私のゼミが、サブゼミを必ずやるようにしているのは、まさに皆さんにその機会を提供することをねらっているからに他なりません。