ローマの休日

甲斐素直


 オードリー・ヘップバーン主演の懐かしの名画、ローマの休日は、テレビでもよく放映されますし、ビデオショップにも並んでいますから、見た人は多いと思います。ところで、あのタイトルの意味は何かご存じでしょうか。より正確に言うと、原題の意味、ということですが。
 私は、日本語のタイトルから漠然と、原題はホリディ・イン・ローマと言うのだと思っていたのです。ところが、よく見てみるとローマン・ホリディと言う題なのですね。この英語は、確かに日本語に直訳した場合には、ローマの休日で間違いありません。ただ、英語の表現だと、もう一つの意味が出て来るという点に大きな違いが現われます。
 すなわち、ローマンという英語には「ローマの」という意味に加えて「ローマ人の」という意味があるのです。そして「ローマ人の休日」と言う英語の表現は「他人を苦しめて得られる楽しみ」というとんでもない意味を持っています。剣闘士や捕虜に命懸けで戦わせたり、キリスト教徒をライオンに食わせたりして、それを見物するのがローマ人の休暇の過ごし方であったという故事に由来している表現です。
 そのことを念頭においてあの映画を見ていると、あのプリンスの刹那の楽しみの持つ重みがいよいよ切実に感じられる気がします。この慣用的な言い回しがあればこそ、あの作品の物語世界は広がるわけです。仮に、あの作品の舞台をパリやロンドンにしても、我々日本人の受ける感銘に違いはないでしょうが、英語国民にとってはまったく意味が違ってくるはずです。
 ローマの休日という表現そのものはあまり知っていた人はいないでしょうが、もっと単純な言葉でも、会話や翻訳にあたって混乱する言葉は多数あります。いや、おそらく現代日本人にとって、英語で一番難しいのは、基本的な単語でありながら日本語と使用法が食い違う言葉、例えば、はいといいえの使い分けとか、行くと来るの使い分けではないか、と思います。少なくとも私はそういう部分で一番手こずっています。
 馬鹿なことを言うな、行くはゴーで、来るはカムだろう、何が難しいのだ、と言う人は、本当に英語で苦労したことがないか、九州辺りの出身者ではないかと思います。
 すなわち、現代日本語では行くと来るの使い分け基準は常に話者です。話している人からみて離れていく動作なら行くで、話していく人に近付く動作は来るです。ところが欧州語では、話の中心と意識されている人からみて離れていくか、近付いていくかで使い分けられます。例えば、フォスターの名曲「オールド・ブラック・ジョー」の中に、訳詩だと「我も行かん」とされている部分があります。そこは原詩だと「アイム・カミング」と歌われています。
 これは理屈としては解っているのです。しかし欧州人との会話の中で、うっかりすると間違えて言ってしまい、話が混乱します。
 ところで、この来ると行くの使い分けが、不思議なことに、日本でも昔は欧州語と同じ基準だったのです。例えばお馴染みの百人一首では、皆、欧州語と同じ使用法です。思い出すままに幾つか上げれば「いま来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな(素性法師)」とか「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな(三条右大臣)」等にでてくる「来る」がそれです。つまり、いずれの「来る」も、話者が相手の女性のところに「行く」ことを言っているのです。いつごろから、今のような表現になったのか知りたいものだと思います。
 おもしろいことに、この言い方は、先に触れたとおり、九州地方などには現在も明確に残っています。私の母は熊本の出身ですが、彼女が親戚と電話で話しているのを聞くと、こちらから相手の家を訪ねる場合に、熊本弁で、私が来るから、という意味のことを言っています。同じ母が、標準語で友人と話す場合には、これ又何の問題もなく、私が行くから、という言い回しに移行するのです。熊本弁で話すときと、標準語で話すときとで別に意識して使い分けているのではなく、自動的にそう変化するのだそうです。どうやら私の母は、日本語という枠内ではありますが、立派なバイリンガリストであるようです。
 聞いたところでは、日本の方言は、京都を中心に同心円状に、同種の言い回しがあるそうです。ですから、私が自分で確認したわけではありませんが、おそらく東北の人も熊本と同じように、百人一首時代の言葉を残して使っているのではないでしょうか。
 そういう地方の出身の人は、欧州語に熟達することが、東京生まれで東京育ちの私などより、非常に基本的な部分ではるかに容易な条件を備えている訳です。そのような基本的な部分で引っ掛かって会話を混乱させるたびに、私も地方出身だったらなあ、と思ったものです。