日本語の精緻さ

甲斐素直

 この間、ある著名な翻訳家の書いた随筆を読んでいましたら、「曖昧な日本語を精緻な英語に訳す」ことに苦労している、という文章にぶつかりました。この日本語と英語の対比については、この翻訳家に限らず、多くの日本人が同じ印象を持っていることと思います。この人は英語と日本語の間の翻訳を業とする人ですから、ここで英語という表現が出てきたわけです。しかし、この理屈は同一の言語系であるドイツ語、フランス語等、すべての欧州語に共通していえるはずでしょう。
 こういうマゾヒステックな見解には、私は少々疑問を持っています。翻訳の困難性が発生する原因は、むしろ逆に、欧州語が曖昧なものであるのに対して、日本語が非常に精緻なものであるため、うまく対応しないからではないか、と思っているのです。
 そんな馬鹿な、と反論する前に、何語でも良いですから、手近の欧州語辞書を引いてください。基本的な単語になればなるほど、やたらと色々な意味が並んでいることが判るはずです。別にこれは日本語と欧州語とが一対一対応をしないために、日本語が増えている為ではありません。それが証拠に、例えば英英辞典を引いても、同じように基本的な語になればなるほど沢山の説明が書いてあるという現象にぶつかるはずです。
 他方、国語辞典を見てください。基本的な単語でも、意味は非常に限られていることに気付くはずです。要するに、日本語は一語一語が非常に限定された特定の意味を持っているのです。それに対して欧州の言葉では、物理でも経済でもいいですが、学問の分野である状態を意味するために特別に開発された単語を除けば、すべての言葉がかなりの漠然とした広がりを持っているのです。
 このことは、日本語の中にある外来語を見るとよく判ります。ガラスとグラス、カップとコップは、日本語としては違う意味ですが、それぞれ原語ではまったく同じ言葉です。つまりもとの英語は、その両者の意味を含む言葉であるわけです。背広上下を意味するスーツと、ホテルの続き部屋を意味するスイートが、英語では同じ言葉だと聞くとびっくりする人も多いのではないでしょうか。
 英語に限らず、欧州語の単語を学ぶとき、私はまず辞書に乗っている日本語の個々の訳を覚えようとはしません。そこに並んでいる日本語訳の総体の中から、言葉にするには余りにも漠然とした、しかし統一的なイメージをとらえようと努力します。そのイメージを視覚化すれば、宙に浮いている巨大な円錐とでもいうことになるでしょうか。円錐のてっぺんに位置する非常に抽象的な部分、これは単一の概念です。しかし、それが具体的な部分に降りていくにしたがって、連想可能な限界までどんどん意味が分岐して行くのです。この結果辞書には、一体どうしてこうも違う意味が同じ言葉で表現できるのだ、と叫びたくなるほど多様になるのです。
 いや、それは日本人が欧州の言葉を学ぶときに、そういう錯覚が起こるので、彼らから見れば単一の概念なのだよ、という人がいるかも知れません。そうではないのです。彼らからみても、欧州の言葉というのは巨大な概念の集合体なのです。
 わたしは昔、ドイツで大学が外国人留学生のために開講しているドイツ語口座に通ったことがあります。そのクラスで、あるとき Brechenという言葉が取り上げられました。これは英語で言えば Breakに相当します。したがって普通我々は「折る」という意味だと思っています。ところが、講師は折るという日本語からでは、どう語義を捻っても出てきそうもない様々な概念を次から次へと、精密な用例とともにかれこれ二十くらいも示したのです。
 さらに生徒に他に知っているか、と聞いたのに対して、普段あまりドイツ語のうまくない米国人が手を挙げて、これ又次から次へと様々な概念を上げていったのです。それが皆正しくて、一々講師がうなずくのです。いや、能ある鷹は爪を隠すというが、あの米国人のドイツ語の実力は大したものだったんだな、と感心して聞いたものでした。
 が、最後になって彼は文字どおり馬脚を顕しました。馬を Brechenする、ということを言い出したのです。馬を折る? 講師もきょとんとしてよくよく聞いてみると、米国では野性馬を乗りこなす、という意味で馬を Breakするという言い方があるから、ドイツ語にもあるかと思った、と答えたのです。つまり、それまで二十数例も上げられたドイツ語の概念は、すべて米語のそれとまったく同一だったため、ドイツ語は判っていなくとも、自分の母国語である米語をきちんと理解していれば、いくらでもドイツ語の語義が上げられた、という単純な話だったのです。
 そのときほど英語とドイツ語の同根性を痛感したことはありません。欧州の言葉は相互に方言のようなもので、別の言語と数えるのは間違いなのです。本稿で欧州語と表現して論じているのもそのためです。それはともかく、単一の言葉の持つ異なる概念は、欧米人にも意味の違うものとして理解されていることが、このエピソードでお判りいただけたと思います。
 しかし、では何故、一語一語についてみれば、欧州語よりも曖昧さが少ない日本語の方が、より曖昧さの大きい欧州の言葉よりも非論理的だ、という印象を与えることが多いのでしょうか。
 それは、一つには論理学の歴史の差です。現代欧州語は、古代ギリシャでアリストテレスが論理学を確立して以来、数千年にわたって論理を駆使する道具として磨き抜かれて来ています。これに対して、現代日本語に論理学が導入されて高々百年です。だから日本語は、個々の概念のレベルではいまだに明確な定義が不足して、非論理的な部分を多量に引きずっている語が多いのは当然です。
 しかし、そうした歴史の不足以前に、現代日本語の使用者である我々自身に、より大きな責任がありそうです。それは日本語の隙間を生める努力を十分にしていない、という点においてです。
 欧州語は、今も言ったとおり、抽象的なレベルから具体的なレベルに至るまでをカバーする巨大な語義の集合体である言葉から成り立っています。そこで状況が、ある語の漠然とした範疇に含まれれば、およそどんな概念でもその語でカバーできます。米国で西部開拓をして生活の中に馬が入ってくれば「馬を Breakする」という言い方が無理なく成立し得るだけの懐の広さが、それぞれの語に本来的にあるのです。
 ところが日本語の場合には、精緻さの度合いが高くて、すなわち一語一語のカバーする範囲が狭く、しかもはっきりしているものですから、社会変動により、既存の言葉では表現できない概念が発生した場合に、欧州語のように無造作に既存の言葉の語義を拡張して使用することができません。だから、社会の事象と既存の言葉の間にはどうしても隙間が発生します。この隙間を埋めるために昔から日本人は大変な努力をしてきました。日本語が古代からものすごい勢いで外来語を導入したり、新しい漢字(国字)を作り出したりしてきました。また、外来語や日本語を組み合わせたり、さらにそれを適当に略したりして新語を作る、というのは日本語の特徴的な行為ですが、それは、この既存の言葉と言葉の間隙を埋めるために必要な作業なのです。
 しかし、日本のように社会変動の激しい国だと、そうした努力もなかなか我々の頭の中に湧いてくる新しい概念を表現するには追いつかないものです。そこで何とか意味の通じそうな既存の日本語を、正確ではないが大体を顕せるということで、そのまま利用して表現する、ということがついつい行われることになります。その場合、使われている語の本来の語義とは、ずれたものであることに目をつぶっているものですから、どうしても曖昧さが発生してきます。むしろ新しい言葉の創造は、新しい概念の存在が社会的に認知された場合に、そうした曖昧さを排除しようとする努力の結果、行われる、と言うべきなのでしょう。
 理由は何であれ、日本語のように精密な語義を持つ言語では、新しい概念を述べようとすればするほど曖昧な表現が発生し易くなってくることになります。これに対して欧州語の方では、単語本来に曖昧さがあるため、それを集めて作る文章には曖昧さがない、という面白い逆転現象が起こる訳です。その意味では、日本語の曖昧さは、日本の社会が発展して、常に新しい概念を生み出して、それを表現する新しい言葉を必要としている限り、いくら論理学の道具として磨き抜いても、付きまとうことになるのは止むを得ないのかも知れません。