単年度予算の無駄と必然性

甲斐素直

 単年度予算というものは、年度末になると予算消化のためよけいな工事をしたりして実に無駄が多い、といわれます。それなのに、なぜあんな制度を採用するのだろう、と言う意見を時々聞きます。
 確かに単年度予算であることに伴っていろいろと問題が発生します。ところで、この語は二つの概念の複合語です。そしておそらく、それを非難する人の意識としては、この語の前半の「単年度」という点に問題性を感じているのだと思います。しかし、真の問題は、この前半ではなく、後半の「予算」にあるのです。
 すなわち、仮に国民として、ないしは直接の制定権者である国会として、行政機関というものを完全に信頼するのであれば、予算などという制度は要らないのです。行政機関が必要だと言うだけの金を無限に、かつ単純に与えればいいのです。そうすれば、行政機関の側では台風とかによる不時の出費が必要になったときに、予算が不足するなどということは心配せずに、計画的に事業の実施をすることができます。そして、使い残しがあっても翌年度の予算が減額されると言う心配もないわけですから、年度末になって急に各種事業が年度内完成をめざして突貫工事で行われると言うことも又あり得ないということになります。
 予算に代表されるところの財政権を、通常の行政権限と比較すると、そこに二つの特徴があることが判ります。第1は、時間的な制限がある、と言うことです。この特徴については誰もが知っています。第2は、あまり気がついている人はいませんが、権力分立制を採用していない、と言うことです。この二つの特徴は裏腹の関係にあります。より正確に言うと、第2の特徴があるが故に第1の特徴を導入する必要が生じたのです。と、抽象的に言っても判り難いでしょうから、もう少し砕いて説明してみましょう。
 昔、ホッブスは「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する。」と言いました。これが民主主義に限らずあらゆる政治形態の基本理念です。と同時に、これは非常に逆説的なことです。なぜなら、人を信頼するということは大切なことで、それ無しにはいかなる政治組織も行政もうまく動くことはないからです。
 江戸時代に、薩摩藩が事実上破産に瀕していたことがありました。そのとき、薩摩藩では、同藩の下級武士である五代才助を全面的に信頼して藩政のすべてを委ねました。五代はこの信頼に答えて身を粉にして働き、立派に財政再建をなしとげたのです。仮に、薩摩藩が五代を信頼せず、予算や決算でがんじがらめにしていたら、このように目ざましい財政再建は不可能であったに違いありません。そしてそれによって蓄えられた財力なくしては、薩摩藩が、討幕戦を無事に遂行することは当然不可能だったはずです。すなわち、人間に対する信頼が、わが国歴史を書き換えたということができます。このことはどの歴史の教科書にも書いてあることです。書いてないのは、五代がその財政再建と平行して、自分自身としても巨万の富を立派に築き上げたということです。その蓄財行為に比べれば、金丸副総理や竹内茨城県知事などの割引債などは、実に可愛い部類に属します。ここに無限の信頼というものの限界が現れます。
 同じような話は、洋の東西を問わず転がっています。欧州では、たとえばフランスのルイ13世の宰相であったリシュリューが良い例でしょう。彼は、王の信頼を背景に、その一代で絶対王政を築き上げました。しかし、その間、リシュリューには権力と財力が集中した結果、彼は後に王の居城となるパレ・ロワイアルを建設するほどの栄華を誇る一方、個人としての王が貧しい暮らしを余儀なくされたことは、アレクサンドル・デュマが三銃士で活写しているところです。
 このように、民主主義であるか否かに関わりなく、真の主権者が自ら政治に携わることができない場合に、その代行者から主権者の利益を守るためには、その代行者がいかに有能な人間であったとしても、絶対的な権力を与えるべきではないことが判ります。まして、歴史に名を残すほどの人物に恵まれることが期待できない通常の状況下で、権力担当者に権限の行使を無条件に委任するのは論外です。
 そこで権限授与の限界を合理的に付する方法として考え出されたのが権力分立制であり、フランスで最初にこれが発達したのも、上記のリシュリュー等による豊富な実例があったからに他なりません。
 権力分立制は、その当然の要求として、各権力に他の権力からの介入を防ぐに必要な、それぞれを自律する権限を要求します。内部規則制定権、内部行政権などがそれです。内部行政権の典型は人事権ですが、それ以外にもさまざまなものがあります。
 こうした各権力に付与された権限は、通常は時間的制限を伴いません。裁判所に来年3月までは人事権を与えるけれど、それ以降の分については改めて国会が決議しない限りダメだ、等という話はないのです。それらの権限は、現憲法体制が続く限り、未来永劫に各権力が他と相談することなく、行使できるのです。
 本来ならば、財政権も、そうした内部行政権の一環として、それぞれの分割された権力に委ねられるべきものです。いかに権力分立制を形式的に確保しても、財政的自律権が保障されていない限り、その権力を真に他の権力から守ることはできないからです。
 たとえば、司法権の独立が強調され、裁判官に対する報酬が、憲法上、裁判官に明確に保障されています。これによって裁判は国会や内閣の干渉から守られているわけです。しかし、憲法第83条の定める国会中心財政主義により、国会は何時でも裁判所の予算をゼロにする権限を有しているのです。確かに裁判官の報酬に相当する部分まで切ることは、憲法上の保障から不可能ですが、それ以外のあらゆる費目を切ることは可能です。その結果、仮に裁判所が国会の逆鱗に触れる行為をした場合には、裁判官はいるけれど、電気もつかなければ判決書を書くべき紙も無い、という状態に追い込むことを、形式的には違憲とされることなく、国会は実行できるというのが、今の憲法の建前です。
 そんなことは実際問題としてできるわけがない、と言うのは簡単です。それならば、国会の気に入らない判決を下したからと言って、特定裁判官の報酬をカットするということも、通常は起こり得ないことなのだから、わざわざ憲法が裁判官の身分保障規定を置く必要はない、という理屈になるはずです。
 したがって、各権力は、その財政的自律権が保障されない限り、真の独立は達成できないと言うのは理念としてはご理解いただけるものと思います。しかし、我が憲法はそういう保障は与えていません。我が憲法に限らず、世界のいかなる憲法も、各権力ごとに、財政権を与えるという構造は持っていません。
 なぜならば、財政というものは、そのように権限を分割して委任をすることが本質的にできない性格のものだからです。無限の国の資力、ないしはそれを支えられる国民の経済力があれば、各権力がてんでんばらばらに財政権を行使しても問題は少ないでしょう。しかし、限られた財政収入を生かして国民経済に最大のインパクトを与えるとともに、国として必要な人的物的資源をもっとも効率よく調達するという相矛盾する要求を同時に充足して行くには、国の財政は、一元的に運用する他はないのです。そのためには、その第1段階としての予算そのものも、一元的に編成する必要があります。これを総計予算主義と言います。
 権力を縦に分割することが出来ない場合には、権力分立主義はそれ以外の分割を採用することを要請します。そうでないと、真の主権者である国民が害される恐れがあるからです。そこで、縦分割に代わって出てくるのが、時間的分割と言うことになります。これこそが、単年度予算原則というものの真の正体です。
 本来、時間というものは無限に連続しているものです。そして年度というのはそれを人為的に分割して、それを単位に財政をコントロールしようという不自然なものなのです。したがって、それに伴って問題が発生しなければ、その方がよほどおかしいのです。そこに発生する問題こそが、年度区分による予算というものを採用することに必然的に付随する費用であり、それを覚悟することなしに、民主主義において、権力機構の暴走を食い止めることは、理念的には不可能です。それが単年度予算に内在する矛盾を民主主義のコストと呼ぶ由縁です。
 どう制度をいじっても、予算という概念を採用する以上、どうしても時間制限というものがついて回ります。もちろん、予算編成のスパンを長くすることによって、その弊害を減少させることは出来ます。しかし、この制度を前提とする限り、どんなスパンで予算を組むことにしても問題は解消しません。単年度予算を、たとえばドイツ基本法が定めているように複数年度予算としたところで、それは年度末の到来回数を半分にする、というだけのことです。年度末の時期になれば、やはり予算消化の必要は発生するのです。