正直に言おう。
声を掛けたのは、やましい気持ちゼロから、ではなく。 むしろ針はメーターを振り切る勢いで、下心から。
校則がゆるゆるのうちの学校にあって、天然ものの髪というのが大変珍しかったこと。 確か一ヵ月ぐらい前に隣の席になったのに、まだ一度もしゃべったことがないのに気がついたこと。 あと、たくさんの人の中に埋もれて、なぜか背中が、淋しそうに見えたこと。 具体的な理由をあげるなら、そんな感じ。
「さっきかわさーん、おーはよっ」
ぽん、とクラスメイトで許される範囲のスキンシップ。 肩を叩いて、追い抜こうとしたら、やられた。 思い切り、後ろ髪を引っ張られて、急停止させられた。
「あれ、なんで泣いてんの?」
朝っぱらから真っ赤に染まった目は、メイクなし、でもかなり目立っていた。 じろじろと覗き込むようにしてしまったせいか、咲川さんは慌てて顔を伏せた。
ああ、これは一種のイジメかなと思う。 いや、クラスメイトなんだから朝の挨拶ぐらいさせてくれてもいいじゃん、とも思うけど。 たぶん、このまま見なかったことにして、初めてしゃべった記念日も忘れて、ゼロに戻してしまうほうが優しいんだ。 でも、オレは別に優しくしたいわけじゃなくて。 生まれた欲求を抑えて、我慢してやる気もなくて。 小学生の男子が女子に対するついやっちゃう、あれみたいなもんで。 ただ咲川さんの泣き顔が、かわいいなと思った。
「なに、どうかしたの?」 「うん……ちょっと」 「ちょっと、なに?」
咲川さんの眉毛が困る。 たかが学校で隣の席程度、の縁じゃ、話せないってことなんだろうか。 手提げ鞄を胸の前で抱え込む。これは拒否のしるし。 気がつかないフリをして、無理やり学校までの道のりをご一緒することにした。 咲川さんの足取りはゆっくりとしていて、次々と人に追い越されていった。 いつもの朝とは違う風景だった。 隣から、諦めたようなため息が漏れた。
「ちょっと、その、……に会って」 「え、なにって?」
全神経を彼女の声に集中させていたから、聞き逃しはしなかった。 呟かれた単語が彼女の雰囲気とまったく結びつかなったから。
「電車で、チカン、に会って。それでちょっと」
ちょっと、泣いてしまったと。
「……ごめん、無神経だった。嫌なこと聞いた」
友達とケンカしたとか、彼氏とケンカしたとか、両親とケンカしたとか。 そういうことだと思っていて、そういうことだったら少しからかってやろうって。 きちんと頭を下げると、頭上で慌てる気配がした。 「なんで、ヒフミくんが謝るの」 意外なことに、咲川さんはそんなオレを見て、少し笑った。 「あ、ごめんね。名前で呼んじゃった」 動揺を勘違いして、咲川さんが先回りをする。 明るい笑顔に、下心を罰されたみたいで、余計に恥ずかしくなった。
「よく会うの?」 「え?」 「チカン」 「ああ、うん。たまに」 「おんなじやつばっか?」 「わかんないんだ。怖くて顔、見てないから」 「なんか、対策とかは?」 「車両とか時間とか変えてみたんだけど、あんまり効果なくて」
あはは、と苦笑いをした咲川さんを見て、何かがぶちっと切れた。
うちの学校最寄の駅に通っている私鉄は、利用者が多い。 登校時間はほぼ満員で。チカンの出没しやすい条件が整っている。 咲川さんを横目で見る。 チカンの気持ちなんて考えたくないから知らないが、咲川さんみたいな子は狙われやすいんだろうな、と思う。 外見も中身もおとなしそうで、期待を裏切らない人だから。
「捕まえて、警察とかに突き出してやればいいのに」 「そうしたいんだけど、気のしすぎかもしれないと思ったら言えなくて。それにね、逆ギレされると怖いし」 「だからってタダで触らすなよ。相手、調子づかせるだけだって」 「……そうだよね、今度はがんばってみる」
違う。 咲川さんは全然悪くない。悪いのは全部、チカンする野郎だ。 あと、下心丸出しで話し掛けて、こんな困った顔をさせてるオレだ。
ちくしょう、と突然地面を蹴っ飛ばしたオレを、咲川さんが目を丸くして見ている。
「なんで、ヒフミくんが怒るの」 「なんで咲川さんはもっと怒らんの!」
世界は理不尽のかたまりでできている。 咲川さんはなんにも悪いことしてないのに、こうやって傷つけられる。 そしてオレは、黙って、クジで決まった隣の席に座ってるだけだと?
「だってオレ、咲川とこうやってしゃべるのだけで一ヵ月かかったんよ?! 今日だって挨拶言うのにどんだけ勇気ふりしぼったと思ってんの?! それが、ばったり会ったチカンのほうが先に進んでるのってどうよこれ?!」
っかーくやしい! 地団駄を踏み鳴らしてやったら、周りの奴らが、ざざっと、チカンを相手にするみたいにして割れた。同じ扱いしやがったな、ちくしょう。かなり不愉快極まりなかった。 でも、隣を行く咲川さんの足取りは、あいかわらずゆったりとしていて。 朝の風景は、のんびりと進んでいく。 だから、オレも咲川さんの世界に守られて、なんとか無事に学校にまでたどり着くことができた。一人だったら絶対、速攻で家に引き返して漫画読んで寝てるところだった。
席に着いても、腹の底から沸いてくるイライラは、尽きそうになかった。 いつもつるんでる連中も不穏な空気を察してか、とばっちりを恐れて、近づいてこようとしない。 そんな爆弾着火三秒前のようなオレに。 朝のうるさい教室に紛れてしまわない声で、ありがとう、と咲川さんが言った。
オレは、そのときほんのちょっとだけ。 世界中の人に、どんなにきもくてみじめでださくてむかつくチカン野郎にでも。 ほんとにちょっとだけなら、今の幸せのおこぼれをくれてやってもいいと思った。 |