栄冠は君に輝く

 

 グランドの輪郭がオレンジ色に輝いている。
 顔を上げたらもうこんな時間で、教室の暗さに驚いた頃、調子外れのトランペットが鳴り始める。
 ゆるゆると静かに。開け放った窓から入り込む、夕風に乗せて。

 まだ辛うじて明るい空をバックに、その影は窓の淵に座っている。
 ピストンにかかる指が動いて、それ以外のすべてものが息を潜めている。
 みんなどこに行ってしまったんだろう、不安をかき消すように鳴る。

 低音の悲惨さが嘘のように、サビの高音部分になるときれいに音が伸びる。
 澄み切って、空の中に溶けてしまいそうな。
 好きこそものの上手なれ、というけれど、好きな部分だけ上手というのは、音楽家としては失格だ。
 だけど彼は例外だ。彼は音楽命の人ではないから。

「下手くそー!」

 曲が終わるのと同時に、下から野次が飛んできた。
 それに笑い声が重なる。野太いのと黄色いのと色々あるから、どうやら今日の観客の入りも上々だったらしい。

「うるせー」

 窓から身を乗り出して言い返す、空の中で銀色のトランペットが揺れた。

 

 最終下校時刻が迫る頃。
 この時期、グランドをほぼ一面占領している野球部は、ちょうどこの頃に一度目の休憩をとる。
 それに合わせるように、3階の音楽室から、トランペットの音色が響き始める。
 ゆるゆると。低音はぎこちなく、高音はなめらかに。
 恒例になった行事を終えた臨時吹奏楽部員は、気がついたらそばにいた吹奏楽部員の姿に驚いた。

「えーと、どうでした?」
「うん。甘めで60点だね」

 がくり、とうなだれるオーバーアクションに少し笑う。

 3階の一番高い位置からでも、もう太陽の端っこしか見えない。
 もう少しすると大きな照明がともる。
 グランドでは白いユニフォームを着た野球部員たちが慌ただしく片付けを始めていた。
(ああそうか、もう明日からなのか)
 その様子に一人で合点していると、隣の人の目がいとおしそうにベンチ前で指示受けをする選手を追いかけていた。

「君の恋人の調子はどう?」

 見咎められたのを恥ずかしそうにして、後ろ髪をかいた。
 去年まで坊主だった頭は、すっかり毛が伸びてしまって、昔の面影はない。
 日に焼けてガン細胞の塊のようだった肌も今は白い。
 キャッチャーをやっていたらしい臨時の吹奏楽部員は、昔の恋人を見つめて笑った。

「絶好調ですよ。今年は何回戦まで見れるか楽しみにしといてください」
「そうする。せめて陣野くんが100点とれるまでは、勝ち続けてもらわないとね」
「あ、じゃあ最低でも甲子園までは行ってもらわないと」

 目を見合わせて笑う。
 今年の野球部のピッチャー、幸田くんは投げてよし打ってよし守ってよしの三拍子揃った選手で、公立高校の星として期待されている、らしい。
 野球部のベンチと音楽室は、ちょうど対角線上にあった。
 そんな遠いところからでも、スーパースターは、ぶんぶんと元気よく手を振ってきた。どうやら目もよし、らしい。
 陣野くんが照れくさそうにトランペットを振り返した。

「おお、あれはアンコールの催促に違いない」
「え」

 陣野くんの目が真ん丸になった。
 にやりと笑って、こっそり手に忍ばせていたトランペットを持ち上げる。

「私はセカンドを吹くので。陣野くんはそのままファーストをどうぞ」
「……どうも」

 ふうっと、一つ息を吐いて吸い込む。
 唇をマウスピースに当てる。合図はいらない。陣野くんのペースに乗っかるので。
 やっぱりぎこちない低音。消さない程度に音を乗せてごまかして、サビの高音では邪魔をしないように音を重ねた。
 この夏一番の演奏は静かに終わった。

 一番遠いところにいたピッチャーの幸田くんが、帽子をとって頭を下げた。
 つられるように、グランド整備をしていた他の部員たちも同じように頭を下げた。
 円を描くように広がっていって、吹奏楽部員は二人して顔を見合わせた。

「……あらら、どうしよう」

 予想外の事態にうろたえると、陣野くんがもう一度銀色のトランペットを持ち直した。
 仕方ないか、とそれに付き合い、マウスピースに口をつける。

 吹き出しで、思い出す。初めて陣野くんが音楽室にやってきた日のこと。
 丸坊主で、泥だらけのユニフォーム姿で。

「すみません。オレにトランペット、教えてもらえませんか?」

 腰を痛めたせいで、もうキャッチャーはできないんだと。
 そういう事情を、後から誰かに教えてもらった。
 それでもどうしても少しでも野球部に関わっていたくて、吹奏楽部に臨時で入部したこと。
 それについて、咎めないし、同情もしない。
 野球が命で、昔の恋人が忘れられなくて。
 基礎をすっ飛ばして、好きな曲を好きなように吹く。
 上手くなる気配のない低音。
 まだ始めたばかりのクセしてやけに伸びる、澄み切った高音を、妬ましくいとおしく思う。

 曲が、何度目かになる終盤にさしかかる。すっかり日が落ちて、3階からでは人影も確認できなくなった頃。
 みんなどこに行ってしまったんだろう、ひとりぼっちになったような不安をかき消して、隣から音が鳴る。
 低音はぎこちなく、高音はなめらかに。
 それでも栄冠は君に輝く。

 

 

 

 

 

 

 おしまい。

母校の敗戦を記念して。いつか甲子園まで応援に行くのが夢です。
私はもちろん高校野球好きなんですが、同時に妬ましくもあります。恨みすらある。
それくらい、高校野球って特別な存在なんですよね。
スタンドにいるすべての人が主役。
本当はそんなことはないのに、わかっているのに、そういう錯覚をくれるもの。

 

 

 

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