あ、呼ばれてる。
机の下の小さな世界に鳴り響いたのは、崩壊の序曲だった。 久しぶりに開いた目は光源の処理をしくじって、ちかちかと星を散らした。 屋根の上で、太陽と月がバトントスする時間帯。 体内時計で感じ取って、なんとかよろよろと体を起こす。のどが渇いていた。 再放送のテレビドラマをなんとなく見ているうちに寝てしまった、らしい。 机の上には、明日までに仕上げないといけない書類と、みかんの皮が散乱している。 体はあくびを強要して、物足りなさを訴える。 まだ、呼ばれていた。ブーと、腰骨に響く低い音だ。 「はいはーい」 急かされるように走って、玄関までたどりつく。 サンダルを引っ掛けて、鍵を回す。 擦りガラスの引き戸は、向こう側の人を輪郭で伝えていた。 無用心だ、と叱れるに違いないけれど、誰だと確認するよりも前にドアを開けた。 立っていたのは、見覚えのない男の人だった。 宅配の人、集金の人、セールスの人、変な人、エトセトラ。 どれにも合致しない気がして、首がゆるやかに傾いていく。 「まの?」 30度、傾いたところで呼ばれた。 見覚えのない顔だけれど、聞き覚えのある声で。 ちょっとくたびれた背広姿の男性は、一瞬言葉を失ったように口を閉じた。 それからすぐに酸素が足りなくなったように、大きく息をする。 居心地が悪そうに、ネクタイを指でゆるめた。 気管を下りていった酸素が、広い胸板を上下させる。 合わせるように、男性の首もわずかに傾いた。 その角度が重なったあたりで、聞き覚えのある声が言った。 「空気入れ、貸してくれない?」
倉庫の奥にしまってあったそれを探し出すのには結構、難儀した。 たくさんの荷物でできた山の、ふもとあたりから、えいやっと無理やり引っこ抜いたら、がたがたと小さな雪崩が起きた。 頭に乗ったホコリを振り払いながら、はい、と差し出した。 自転車の空気入れ。 大学に入ってバス通学になって、運転免許証を取得して以来、縁のなくなったものを。 それを受け取った手、のほうじゃない、もう片方の手が、こちらに向かって伸びてきた。 髪にこびりついていたらしい白い糸を取り去ってくれる。ああ、蜘蛛の巣か。 ついでにクシで梳くように、何度か髪の間を指が往復する。ああ、寝癖か。 「すみませんねえ」 「いや、真野が相変わらずで」 言葉が切れた先、あたりにはすでに暗がりが落ちてきていて、はっきりと表情まで読み取れない。 それでも、どうやら目の前の人は笑っているようだ。 向かい合っている人が笑顔を選択するのは、いいものだ。 久しぶりに会った幼なじみに、私はにっと笑いかけた。
家の前の道路、コンクリートブロックに座って、自転車のパンクに空気が入っていくのを観戦する。 しゅ、しゅ、とリズミカルにポンプは上下して、見る見るとタイヤの空気圧を上げていく。 どこか、見覚えのある自転車だ。 前タイヤの裏側には、住所と名前が記されている。いびつな字の形に、覚えがあった。 近所の書道教室は、その道では大家であったらしいおじいちゃん先生が一人で経営していた。 入った時期は二人一緒に、小学校入学と同時くらいだった気がする。 しかし幼なじみのほうは、小学校高学年になると、サッカーやら野球やらクラブ活動が忙しくなって教室通いをやめてしまった。 私のほうは、中学に入るまでは続けたが、結局成果は上がらなかったのだ。その証拠がこれだ。 記名忘れを、生活指導の先生に注意されて、たまたま一緒に登校していた、なおかつ油性のマジックペンを所有していた私が代筆したのだ。 名前の輪郭を指先でなでていると、いつのまにか空気の流れが止まっていた。 上着を脱いでワイシャツ姿になった幼なじみが、夕日を背景に影になっていた。 私の隣にしゃがみこむと、幼なじみはまた影から人に戻った。 「……自転車漕いで、どこまでいくの?」 「ん、ちょっとコンビニまで。母さんにおつかい、頼まれて」 「あれえ、車持ってなかった? 駐車場に、いつも停まってるじゃん。四駆、外車、ごっついの」 「あれは、ただいま車検にお出かけ中で」 さあ、出発しようかな。 隣から楽々と立ち上がり、自転車の具合を確かめる。サドルの位置を調整する。 「あ、私にもアイス買ってきて?」 あわてて、ポケットを探った。小銭の冷たい感触を指でたどる。 私の手を、幼なじみはちょっと笑いながら制した。 「いいよ。溶ける前には帰ってくるから」 しゃーっと、風を切る音がした。 空気と空気の隙間、新しくできた道を、幼なじみの自転車が疾走していく。 その背中を見送りながら、私は深く息を吸い込んだ。 夕暮れどきの空気は、昼間よりも、これからやってくる夜のにおいのほうが強い、気がする。 今日が終わってしまうさみしさと明日が始まる前の不安で、胸がいっぱいになる。 けれど、今日の私の胸は不思議とあたたかい。 太陽のにおいでいっぱいになった。
「ひゃっこい」 突然触れた首筋の感触をそのまま音にすると、アイスを持ったままの格好で、幼なじみが固まっているのが見えた。 どうでもいい悪戯が好きだった、そういえば。 気づかずにいると、先にネタばらしをしてしまうような人だった、そういえば。 仕掛けるくせに、小心者。 幼なじみの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。 受け取ったアイスは、まだ溶けていなかった。約束どおり、ひゃっこいまま。 口にくわえて、かじる。 「おいし」 「そりゃあ、よかった」 幼なじみの口から、ほっと息が漏れた。 道路脇のコンクリートブロックに並んで座って、棒つきアイスをかじる。 コンビニのレジ袋に残された、おつかいの中身は、カレーのルーだった。 隣の家の窓から漏れ出した光が、ちらちらとおいしそうに揺れている。 うちも、今晩はカレーにしようかしら。 欲望を呟いたら、夕食に誘われた。おばさんのはちみつたっぷりの甘いカレーが誘惑する。 とてもとても悩んで、振り払った。甘い誘惑だけど、また、今度ね。今度。
「じゃ今度、また俺にも、空気、借してな」 玄関の前まで送り届けた幼なじみが、ぽつり、ぽつりと口にする。 ドアがわずかに開いて、中から強い蛍光灯の光が漏れている。 その中で、幼なじみは濃い影の、輪郭だけの存在になっていた。
自転車を動かすのと同じように、私たちが生きていくには空気がいる。たくさん、いる。 ひゃっこいアイスと、甘いカレーもいる。 幼なじみも。
「必要になったら」 いつでもどうぞ。 私が笑うと、にっと、目の前の人も笑ったようだった。 |