「タバコ、うざい、やめて」
よっこいしょ、と腰を下ろした男性は30分ほどして、隣からそんなことを言われた。 わざとらしく目を丸にして、吸い込んだ煙を吐き出してから、へえ、と口の端をつり上げた。 「ついに、お前もそんな口が聞けるようになったか」
かぷかぷと煙を吐きながら、えらそうに笑った。 このクラムボンめ、と下向きに吐き捨てた。どうやら耳には拾いあげられなかったらしい。
構わずに、いやぁお前がそんなに成長してくれると俺も鼻が高え、かかか。と、またお祝いを兼ねた一服、かぷかぷと。 白いふきだしを自分で作って、その中に台詞を書いて、みたいな。一人漫画をしていた。
ワイシャツの襟口が汚れていて、あちこちにシワが寄ってて、ああまたこの人家に帰ってないんだなって。 またあんなにきれいな奥さん、家に一人にしてるんだなって。 どうしようもないクラムボンだなって。 奥さんの手伝いになればいいなとシワを伸ばす気持ちで、シャツを引っ張った。
「私のこと殴ってもいいから、やめて」
偶然耳にしてしまった、そんな通りすがりの人たちの空気が凍りつく。 閉店後のパチンコ店のシャッターの前で、セーラー服を来た女の子と会社返りのサラリーマンが並んで腰を下ろしていて。 それだけでも目立つのに、そこへ飛んできた台詞の威力は十分だった。 威力、知ってて使った。
「いや、なんていうかお前ってさ…」
一端、そこで切る。 とりあえず、顔のシワを伸ばすのには成功した。 タバコを指と指の間でとんとんと叩く様子が、困ってた。
ぱらぱらと灰が道路に散るのを見る。 その間も、ビルとビルの隙間から見える夜空の星を数えながら、またふきだしを作っていた。
「アンパンマン志望なの?」 「……なにそれ」 「やけに自己犠牲精神旺盛だなと思ってさ。僕の顔を食べてもいいから、つったろ?」 「……食べていいとは言ってない」 「おんなじようなもんだろ。さて、どうしてやるかな」
かぷかぷ、とクラムボンが上向きで笑ったので、顎から無精ひげ生えているのが見えた。 こんな、だめ親父でも家に帰ってからは、タバコのタの字も匂わせないんだよ? 信じられないけれど、奥さんのこと思い切り大事にして、愛してるって知ってる。
「私のこと殺してもいいから、やめて」
てめえ、グレードアップさせやがったな。 にやりと口の端をつり上げた隙に、手のひらを広げて、タバコの火を包み込むように。 ぎゅ、と握り締めて、思い切り大事にして、愛してあげた。 手のひらがこげる感覚はあんまりなくて、すぐに手、無理やり開かされたから、熱いと思う時間もなかった。
焦って硬直している横顔。こんな顔、初めてさせたんじゃないかなって。ゆうえつかん。
「へえへえ、わかりましたよ」
投げやりな言い方になって、禁煙宣言をして。 手のひらから道路に、零れ落ちた吸殻を拾い始めた。 さーってビルの間を風が抜けて灰を散らかして、クラムボンが消えた。
(私は)
大事にしなくても、愛さなくてもいいから。 殴っても殺しても何してもいいから。 このシワの寄った背中がほしいなと思う。
(でも)
長生きしてほしいなって、奥さんのためにも。 そんなふうにも思うのも本当で。 消えてしまったクラムボンの後を追いかけて、今夜も狭い空を仰ぐだけ。 |