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 07. 何もないところで

 

 三歩先をぴかぴかのランドセルが歩いていた。

 やっぱり、ランドセルは赤だよな。
 茶色とか、ピンクとか、なれの果てのブルーとか、グリーンとか。
 まあ本人が好きなものを選べばいいと思うのだけれど、それでもやっぱり赤だろう。

 春のやわらかな日差しをきらきらと反射しながら、ランドセルは歩みに合わせて上下に揺れる。
 今にも、スキップしだしそうな気配に、自然と苦笑が漏れた。

 通学路、を示す黄色の標識が、未来を保障してくれていた。
 いつまでもついて行きたい衝動を振り払って、足の回転を速める。
 今年入社したばかりの会社は、小学校よりもずっと遠くにあるので。
 ランドセルの彼女のように、朝の陽気を楽しんでいる余裕はなかった。

 近づくとわかる、全然違う背丈、歩幅、スピード、とても同じ人間のものとは思えない。
 それでも人生において重なった瞬間はあったはずなのだ。
 オレもずっと前はあんなふうに新品のランドセルを背負って歩いていたはずで。
 今では想像も尽かないけれど。
 あ、と思ったときでは遅いのだ。
 いつだって後悔は後からしかできなくて。

 大人目線からは、段差もない、石ころもない、滑らかに舗装されているように見える道路の上。
 そんな何もないところで、ランドセルはすっ転んだ。

 体重が軽いせいか、さほど派手さはなかった。
 でも受け身もろくにとれずに、正面からまともに硬いアスファルトに突っ込んでいった。
 足の回転を緩めずに、ちょうど、ランドセルの横を通過しようとしたところだった。

「ふぇ」

 と、泣き出しの合図が耳に飛び込んできた。
 青い空を仰いで、社会人おめでとう、とプレゼントしてもらった腕時計を確認する。
 三秒、頭の中で天使と悪魔を戦わせて、くるりと方向を変えることを足は選んだ。

「……だいじょうぶ?」

 道の途中で、うずくまったままでいるランドセルに声をかけた。
 見上げた顔、くしゃくしゃになっている中で、潤んだ目が不思議そうに輝く。
 どういうふうに見えているんだろう。
 知らないおじさんだって、警戒されているんだろうか。せめておにいさんにしておいてほしいな、と。
 黄色の安全帽のゴムが、あごのあたりにひっかかっている。
 お母さんに結ってもらったのか、短い髪を二つに束ね、みつ編みにしているのがかわいかった。

「立てる?」

 と、差し伸べた手を、ためらわずに握られた。ぶら下がってくる重みに、後ろめたい気持ちになる。
 こんなふうに頼られるのは、慣れていなかった。妹も弟もいないし。
 立ち上がった膝が両方とも、ランドセルのような赤色に染まっていて、う、とオレは固まる。とても痛そうだった。

 バンソーコ、とか必要なものがオレのカバンの中には入っていなくて、役立たずで。
 ただ幸い、ポケットに入れておいたハンカチは洗濯してアイロンもかけてあった。
 滴る血を拭き取る。そのまま傷口の上をそっと押さえたら、大きな目から涙がぽろぽろとこぼれた。

「うわごめん! オレが悪かった!」

 こんな小さな女の子に泣かれたら、どうしたらいいのかさっぱりわからなかった。降参だった。
 助けを求めて周りを見回すものの、こういうときに限って誰も通りかからない。

 困った。

「……えっと、おうちに帰る? それとも学校行く?」

 しゃがんで目線を同じにする。こうしないと、顔が見えないし声が聞こえなくて不安だったので。
 答えが返ってこないので、使った言葉が難しすぎたんだろうか、と心配になる。そんな加減さえもわからなくて。
 学校、と小さく呟かれたのが理解できて、ほっとする。えらい、と思わず褒めた。

「あー、一人で、学校まで行けそう?」

 ためらいがちに聞いた。新品の腕時計が、タイムリミットを告げている。
 ランドセルは沈黙する。それが答えだった。
 思わずため息をつこうとした口を押さえ、深呼吸をする。うん、よし。

 履歴書の、自己PRの欄に書いた、決断力があります。一度決めたことは最後までやり通します。
 嘘をついてはいけないだろう、密やかな決意を胸に。
 携帯電話を操作して、履歴の一番最初にある番号を押した。

「おはようございます。営業ニ課の保住ですが、松原さん、もう出社されているでしょうか? ……はい、お手数をおかけします、お願いします」

 手を繋いだ先の男が、携帯電話を片手にぺこぺこ頭を下げる様子を、女の子が不思議そうに見ていた。
 慣れない敬語を聞かれるのは恥ずかしい。装っている自分はぎこちなくて、らしくないと思う。

「あ、松原先輩、おはようございます、保住です。はい、昨日はありがとうございました。えっと、実は今、……」

 事の顛末を話す。正直に。
 初めての遅刻がこんな形で実現されると、これからの自分の履歴書にどう影響するのかわからないけれど。
 少なくとも、電話の向こうの先輩の声は明るい。お前なー、と呆れているように聞こえるのは気づかなかったことにする。

「はあ、そうなんです。それで学校まで送っていこうかと。 あ、はい、すごくかわいいですよー。……は? ゆ、誘拐?! 違いますよ、やめてくださいよ、しゃれにならんですよ!」

 誘拐、という言葉に、ぴくりと隣のランドセルが反応した。
 違うよ、と必死に説明したけれどうまく伝わったかどうかは不安だ。電話の後に残ったのは、なんとも形容しがたい気まずい空気だった。

 何年ぶりか、久しぶりに歩く通学路は、記憶の中にあるようなでこぼこ道じゃなかったけれど、自然と足は回転して。
 身体の記憶、を信用する。知らない間に自分に培われてきたもの。

「おじさん」

 と呼んで、ぎゅ、と手のひらに重さが加わる。
 下を向いたら見えた膝が、まだ痛そうだった。
 女の子はちょっとだけこちらを見ていて、やがて恥ずかしそうに俯いた。
 繋がっていないほうの手で、ランドセルの肩ヒモを握り直して。

「……ありがと」

 遠く、重なる音がした。
 だって、こんな小さな手を裏切られるわけがない。おじさんじゃなくて、おにいさんだけれど。
 スキップの代わりにぶんぶんと繋いだ手を振りながら、赤いランドセルと並んで、小学校まで歩いた。

 

 

 

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