13. ページを捲る音だけが

 

 指を順番に折っていく。無事だったのは左手の小指だけだった。
 最低でも九年。気の遠くなるような時間をここで、過ごさなければいけない。
 四角い檻の中で過ごした時間は、すでに五年。
 左手全部と右手の人差し指を復活させる。
 かちゃかちゃと足元で鳴った。透明色の鎖が足首に巻きついて、机の細い脚と繋がっている。
 
 だからそれは、誰にも見つからないように実行されなければいけない。
 鎖の鍵をこっそり外す方法。
 解き放たれたら、音を立てないようにそっと、近くのドアやら窓から出る。
 特別な力も知識もいらない、ごく簡単な方法だ。音に、耳をすますだけでいい。

 ぺらり

 

 柚子の在籍する5年2組は、どうやらお調子者の多いクラスらしい。
 少なくとも、教科担当の先生たちからはよくそういう評価をされる。
 指摘されてみると、休み時間になるとよく頭の上をボールが飛び交っているような気がする。
 男子たちは、給食を配膳するための広いテーブルに固まって、自慢のカードを見せ合っている。
 また多くの女子たちはいくつかのグループに分かれて、雑誌の読み合いっこをしている。
 中身は、ティーンズ向けの情報誌だったり、漫画だったり、いろいろだ。
 柚子のように一人で席に着いている子もいる。
 そういう子のだいたいは、机の下で携帯電話をいじっているかなんかだ。
 休み時間になると、容量をこえた音の塊が教室から氾濫を始める。
 柚子はそれらのすべてを背景にして、本を開く。
 五年も一緒に過ごしていれば、教室の中の異物の存在にはすっかり慣れてしまって、過剰に反応してくることは少ない。
 だから柚子はいわゆるイジメの類いを受けることもなく、本の世界に逃げこむことができた。ありがたいことだと思う。
 ぺら、ぺら、とページをめくるたびに、後ろから前へと比重が移動していく。
 柚子は、思わず口元が曲がってしまうのを堪えた。物語はクライマックス。今、足が動いたらきっとスキップをしている。
 一枚、一枚、薄い紙を、後ろから前へと送っていく。途方もない作業。最初はゆっくり最後は早く。

 そのうちページをめくる音も聞こえなくなって、最後には自分自身が居なくなる。
 自分だけ、教室の中から消えてなくなるのだ。誰にも気づかれないうちに。

 ぺらり

 おや、と柚子は驚いて手を止めた。
 別の扉から、この世界へ入りこんできた何かがいた。
 教室の角と角、対角線を引いた反対側。
 短く刈りこんだ髪、片足を椅子の上に乗せて、どう見ても本を読むにはふさわしくないと思われる格好だった。
 ぺら、ぺらり、と。

「うわあ! みみみんなっへーすけくんが大変だ!!」
「うるせえな、騒ぐんじゃねえよ」
 唇をとがらせて応じた姿に、教室内のあちこちで発生していた音の塊が一つになって膨れ上がった。
 今までかろうじて保っていた水際の攻防の決着、堤防は決壊し、一気に溢れ出す。
 教室は、爆発した。

 いつのまにか、柚子はそこに帰ってきていた。
 教室の端っこに。
 指をページの端っこにひっかけたまま、震源地の様子を見守っていた。

「へーすけって文字読めたんだ」
「おもしろい? ねえ、おもしろい?」
「へーすけが読書なんて、雨か雪が降るんじゃないの、それかヒョウか」
「体育館に雷が落ちるに一票!」
「おまえらはさっきから失礼なことばっかり言ってんな」
 へーすけこと海老沢平介は、本から顔を上げ、集まってきたクラスメイトをぐるりと見回し、にやりと笑んだ。
「おもしろいよ」
 平介は再び机上の本に向き合うと、ぱらぱらとめくり始める。
 そこにあるすべての目が、その動きを追いかけていた。
 後ろから前へと、質量が移動していく。
「まだ読み始めたばっかりだから、正直わっかんねえけど」
 最後までページをめくり終えると、ぱたん、と重たい扉が閉まるような音がした。
 ハードカバーの本だ。臙脂色のくたびれた感じのある表紙に見覚えがあった。
 この間、柚子が図書室で借りたばかりの本に似ている。あれは遠い国で作られた物語だった。
 開いた瞬間、異国の香りを嗅いだ気がした。ときどきそういうことがある。紙か印刷されたインクのにおいなんだろうけど。
 図書室の奥で長い間誰にも手に取られなかった、古い本のあかし。
 ずいぶん遠くに来てしまった、そういう気持ちを知っているのはきっと私だけ。
 そう、柚子は思っていた。

「梶谷が笑って読んでたんだから、絶対」

 あの梶谷が、にんまり笑ってたんだぜ?
 急に、スポットライトが向けられた。
 クラス中のたくさんの目が、今や自分に向けられていることに遅れて気がついた。
 ここは異国の地などではなく、教室で、檻の中で、舞台の上だった。

「な?」

 台詞を思い出さなければいけなかった。読んだ覚えのない、脚本の。
 図書室の棚、記憶をたよりの背表紙を指でたどっていく。でもどこにもそんな本はない。
 柚子は慌てて、手元の本の世界に逃げこむフリをした。
 衆人監視される中で、それを実行するにはあまりにも無謀。机の脚と繋がっていた鎖がカチャーンと高い音を立てた。気がした。
 ぺらり、
 本が開かれた音だった。小さな音。
 平介が再び読書を始めている。たったそれだけのことで教室には、授業が始まったときのような静けさが広がった。
 それから一ヵ月くらい、クラスでは休み時間に読書するのが流行った。
 強化担当の先生たちが口々に褒めた。このクラスはなんて優秀なんだ、他のクラスも見習うべきだ。
 やがて飽きたのか、もしくは元気が足りないと担任に心配されたせいかわからないけれど、本を開く人数は減っていった。
 ずっと続けていたのは柚子と、もう一人だけ。
 静まった教室内より、騒がしい教室のほうが読書に集中できる気がする。
 なんでだろう、自分の感じ方を不思議に思いながら、柚子はまたページをめくる。
 すると、追いかけてくる足音がある。
 思い切って足を止めて、振り返ってみる。
 はるか後方に見える、小さな人影。
 ずっと続いていく、追いかけっこ。

 

 

 

「梶谷、もうこの本読んだ?」

 移動教室の途中、唐突に話しかけられた。
 掲げられていたのは、柚子の好きな作家の新刊だ。
 今月は懐が寂しくて、図書館の予約合戦にも負け、まだ手にしていない。
 柚子は首を横に数回振った。
「ううん」
「そっか、じゃあ貸してやろうか」
 そう言って、こちらが返事をしないうちに抱えた教科書の上に重ねられた。
「……ありがとう」
「うん、またなんか面白いのあったら教えてなー」
 手首をふにゃふにゃと曲げながら去っていく。
 中学に入ってからは、ずっと違うクラスだ。
 ただときどき、廊下で出会う。息苦しくて、教室から逃げ出したときに。
 背中に声がかけられる。見れば、背丈だけ伸びた変わらない笑顔がある。
「感想聞かせてなー」
 思わず、振り返った。
 実際追いかけそうになってしまった足を止め、いつのまにか握っていた手を開く。
 折り曲げていない指はあと2本。
 あと2本、たった2本。 
 足首に繋がった、透明色の鎖をたどってみる。
 歩き出すと、まだずしりと重たい。
 でもだんだんと軽く、頼りなくなってきた。力を入れたら、今にも切れてしまいそう。
 終わってしまうのが惜しい。
 それほど面白い物語に出会えたら幸せだと思う。
 この本はどうだろうか。
 柚子は貸してもらったそれを、胸の前で大事に抱えなおした。
 休み時間の喧騒の中で、柚子は相変わらずひとりぼっちだ。
 でも、耳をすましたらほら。


 

 

 

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