ぽろん、ぽろん、音が漏れてくる。 二階からだ、と階段の一番下から一番上まで眺めて思う。
間違ってはいないけど、奇妙な音階。単音で追いかけていたメロディが一周ぐらいして。
曲名がわかった。
ロンドン橋が落ちた。
音をたどってきたら、二階の一番隅の部屋に着いた。
ドアが開けっぱなしになっている。
部屋の真ん中に、同居人の、丸まっている背中があった。
そっと一歩踏み出してみた。
都合のいいことに、柔らかいじゅうたんが足音を吸収してくれる。
何年か前の雨の日から、ここが同居人の生活の拠点になっている。
母からプレゼントされた最低限のインテリアと、大きな棚を埋める本の多さが目立つ。
育児書や絵本みたいな仕事関係から、料理やガーデニングみたいな趣味関係まで。
きちんと整頓されていて、すっかり、らしい部屋になっている。
すぐ後ろに立っても、成太は振り向かなかった。
床に、楽譜が広げて置いてあって、一番上に『LONDON
BRIDGE』とあった。
背中に隠れて見えなかったそこに、音の源があった。
成太の長い指が、窮屈そうに縮まって、動いている。
また一つ、ロンドン橋が落ちた。
「シュローダーのピアノなんて、どこにあったの?」
きゃん、と成太の指が鳴らした。たぶん、レとファとソの奇妙な和音。
それから遅れて、おかえりなさい、と成太の口が言った。
「で、ごめん。なんのピアノだって?」
「シュローダーのピアノ」
グランドピアノをぎゅっと100分の1ぐらいに縮めた、おもちゃのピアノ。
「シュローダーって、スヌーピーの友達の?」
「うん。いつもピアノ持って作曲してる子のやつに似てるだろ」
「へえ、かわいい呼び方するんだね」
日和は脱いだコートをそこらへんに置いて、成太の隣に座った。
床に広げてあった楽譜を手に取る。たのしい英語のうた、という題名がついていた。
本当だ。音符の下に振られた歌詞をよく見てみたら、ロンドン橋は、落ちた、じゃなくて、フォーリングダウンしていた。
いまどきの保育園では、英語までやるらしい。
「……今日、倉庫掃除してたら見つけたんだけど、やっぱり日和のやつだった?」
成太が、脱ぎ捨てた日和のコートをハンガーにかけながら聞いてきた。
「うん、まあ」
確か、何歳かの誕生日に父親がくれたものだ。
記憶の中の姿よりも、少し汚くなっていて、少し小さくなっていたけど。
白いピアノ。シュローダーのピアノ、という名前がついたおもちゃ。
見た瞬間ほしくてたまらなくて、それで、買ってもらったのだ、確か。
今の今まで、忘れていたけど。
「そう。勝手に触ってごめんね」
「そんなのは別にいいけどさ。なんで、成太はこんなのここで弾いてんの?」
成太は聞かれて、罰悪そうに、どこか照れくさそうに頭をかいた。
本音を聞きだすまで少し、時間がかかった。
「……今度おゆうぎ会があるから、ちょっとピアノの練習がしたくて」
成太は、保父さんだ。
ずっと前に保母さんから保父さんと呼ぶように訂正されて、やっとなじんだと思ったら、今度は保育士さんにしなきゃいけないらしい。本当は。
でも、どう呼んでも成太が訂正しなくなったので、保父さん、という呼び方を日和は採用している。これが一番、成太には似合っているような気がするから。
また、成太が人差し指一本でシュローダーのピアノを惹き始めた。
キラキラ星。たのしい英語のうただから、TWINKLE
TWINKLE,LITTLE STARー、か。
「……いちおう、うちにはグランドピアノが二台もあるんだけど」
「うん。でもあれは間違いなく、日和くんの、だからね」
シュローダーのと同じ扱いをされた。
一緒に生活するようになってずいぶん経ったから、もう、うちの中の全部に成太の指紋がついていると思っていたけど。
一つだけ、ついてないかもしれないものを見つけた。
「……おゆうぎ会、成太がピアノ弾くの?」
「いや、いちおう俺は主にみんなと一緒に踊る担当かな」
保父さんは、園児と一緒に踊るのも仕事です。
日和は自分の中で何かがはじけるのを自覚した。
成太の手の中にあった、シュローダーのピアノを、無理やり取り返した。
びっくりするくらい軽くなっていた。
いち早く音符を鼻歌に乗せて、日和は楽譜をめくる。
「オレが弾いてやるよ。ロンドン橋?キラキラ星?二曲とも?」
「そりゃ日和がピアノ弾いてくれるなら、嬉しいけどね……」
成太が濁した語尾を、日和が笑顔で引き継ぐ。
「だから、成太先生はそこで踊りの練習しててもいいよ」
「……やっぱり」
がくり、とうなだれた成太を横目にしながら、日和はシュローダーのピアノに向き合う。
困ったことに、二オクターヴ半ぐらいしかない。
でも、その不自由さも、ピアノより鉄琴に近い音も嫌いじゃないと思った。
懐かしい、自分の中にある音の源。
最初の音を鳴らすと、成太が観念したように立ち上がった。
テンポはゆっくり。
おもちゃのピアノを弾いて、踊りの練習をして、ロンドン橋を落として、空に星を輝かせて。
成太に晩ごはんのメニューを聞いたら、シチューだと言っていた。
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