罰ゲーム |
隣の家に住んでいる幼なじみのてっぺーちゃん。年は私よりも九歳上の二十六歳。職業、会社員。 私のお母さんは仕事からの帰宅が遅い。お父さんはそれよりさらに遅い。だから、晩御飯はいつも一人。当たり前のようにてっぺーちゃんは家に来る。私が作った御飯を一緒に食べる。 それでも何も文句が浮かばないのは、てっぺーちゃんがかっこいい……のは昔から。いつの間にか好きになっていたから。 玄関のチャイムが鳴る。しばらく出ないと勝手にその人物は入ってくる。 図々しくも晩御飯を無償で食べるくせに、チャイムだけは欠かさずきちんと鳴らして入る。結局は入ってくるわけだけど、その行為がなんとなくてっぺーちゃんらしい。 「お邪魔します。……ただいま」 「おかえりなさい。もうすぐできるから待ってて」 今日はちょっとだけお茶目に、夫の帰宅を待っていた妻のようなセリフを言ってみた。 いざ口から出してみると、本当に自分がそんな境遇にいるように思えるから不思議だ。 「……なんて、お前から言われるのは気持ち悪いな」 乙女の妄想は、目の前の大人によってあっさりと砕かれる。 「私たち、だしね。まあ……わからなくもないかな」 気持ち悪いなんて思わないし、てっぺーちゃんの気持ちも全然わからないけど、物わかりのいい大人のふり。 てっぺーちゃんはいつものように、スーツのジャケットを椅子にかけ、ネクタイを外した。 この動作が好きな私は、料理を作りながらも視界にしっかりとてっぺーちゃんを入れる。それまで会社員だったてっぺーちゃんがちょっとだけ崩れる時。 「まだだったら手伝ってやろうか?」 「あ、大丈夫。一人で大丈夫」 てっぺーちゃんが隣に立ってしまったら、料理どころじゃなくなってしまう。どんなドジをしでかすかわからない。 じっと待っているのは居心地が悪いんだろうな、と思ったから、私は鍋をかけていた火を止めて、手早く料理を皿に盛っていった。 そんな私を見て、呼ばずともてっぺーちゃんは椅子に座る。私も向かい合って座る。 「いただきます」 二人で手を合わせ、箸をつかんだ私と、眼鏡をはずしてテーブルの隅に置くてっぺーちゃん。 今日はスープがあるから、湯気で眼鏡は曇る。だいたいいつもてっぺーちゃんは眼鏡を外すので、これもいつもの光景。 「そろそろ、コンタクトにするか……俺も」 このセリフは初めて聞く。 驚く私をよそに、てっぺーちゃんは淡々とご飯を口に入れる。さっきのセリフは彼からすれば、なんでもない一言だったらしい。 でも、てっぺーちゃんの眼鏡姿が好きな――もちろん彼も好きな私にとっては歓迎できるセリフではない。 「眼鏡でいいよ。眼鏡がいいよ。コンタクト慣れるまで大変らしいよ」 私は裸眼で普通に見えるから、眼鏡もコンタクトレンズも必要ない。 「慣れるまで、だろ。……あ、俺、お前のアレ知ってる」 箸と茶碗を下ろして、にやりと笑うてっぺーちゃん。 「な、なにを?」 「お前、確か眼鏡フェチ?」 「ち、違う。フェチなんてつくほど好きじゃない」 「なるほど。嫌いじゃないわけだ。俺はお前を喜ばせていたんだな。俺は純粋に視力の助けとして眼鏡着用してたのに。早急にコンタクト変更を検討しないと……」 私はテーブルの隅に置かれた眼鏡と、何もつけていないてっぺーちゃんの顔を何度も見る。そして、脱力。 「仕事のできる男の人って感じでいいのに」 「それのせいで俺は怖がられてる。冷たい男に見えるらしい」 てっぺーちゃんは眼鏡で困っているらしい。嘆息して、食事の続きにとりかかった。 「モテたいの?」 「仕事に支障が出る。怖がられるといろいろとやりにくいんだ」 「眼鏡ないとてっぺーちゃんじゃない」 「眼鏡がなくても、俺は俺」 「だけどさ……」 やり手の営業マンに勝てるわけがないとわかっていても、諦めきれない半分の意地でてっぺーちゃんに食い下がる。 私の言葉を無視するかと思われたてっぺーちゃんが、ふいに、 「ジャンケン勝負」 と、わけのわからない言葉を口にした。 「ジャ、ンケン? いきなり?」 「お前が勝ったらコンタクト計画はやめてやる」 てっぺーちゃんの気まぐれだとはいえ、いきなり巡ってきた阻止のチャンス。これを逃すテはない。 箸と皿を置いた私は即座に元気よく手をあげた。 「やる、やる。で、てっぺーちゃんが勝ったら?」 「勝ってから考える」 「いいよ。絶対勝つから」 「最初はグー、なしで」 「かけ声はてっぺーちゃんで」 私は両手を後ろに回した。少しでも手が見えたら、それだけで何を出すかばれたら困る。できる対策はやっておきたい。 てっぺーちゃんはシャツの袖をまくった。あっちもかなりやる気らしい。 ただ、腕まくりなてっぺーちゃんに私の戦意が少し喪失したことは黙っておくことにする。言ったら不利。 「いくぞ。ジャンケン……」 びしり、と二人の手がテーブルの上に出る。 勝ったのはどっちだ、と二人の視線が手に集中した。 出した手はそのままに、先に脱力したのは私。勝つ気満々だっただけにショックはかなり大きい。言葉すら出ない。 チョキの手をそのままピースに変えて、てっぺーちゃんは私の前で振る。 「悪いな」 「文句なし、だもんね。文句は言わないから好きにすれば? それよりさ、負けた私の罰ゲームは?」 冷静なふりなんてできないほど悔しいから、大人げないセリフもどんどんと溢れてくる。 「罰ゲーム……か。罰ゲームなぁ……。お前にとっては罰ゲームだろうな、これは……」 「いいから、早く言ってよ」 てっぺーちゃんが考えこむほどの罰ゲームとはどれだけのものか。少し不安だったけど、ここで怖がっていたら、てっぺーちゃんに情けない姿を見せることになる。 そんな私をじっと見ていたてっぺーちゃんは、罰ゲームを言うために口を開くわけではなく、なぜか手を動かしてパーな私の手を握った。 「えっ?」 言ったまま、開いた口がふさがらない。 わけわからない、とか言いたいはずなのに、てっぺーちゃんの手のぬくもりが私の言葉を全て吸い取っていく。 てっぺーちゃんも動かないし、もちろん私も動けない。 「……これ、なに?」 ようやく、小さいけれど声が出た。 「罰ゲーム。……お前にとっては、な」 てっぺーちゃんの言葉の真意を読み取れるほど思考が十分でない。相変わらず私の手は彼にとらえられている。 「罰ゲーム……じゃないよ」 今度はてっぺーちゃんが驚いている。 「眼鏡の俺が好きなお前にとっては、今の俺は眼鏡かけてないから罰ゲームだろ?」 てっぺーちゃんが拗ねている。 口をとがらせているわけではないし、表情に出ているわけでもないけど、口調がいつもより投げやりになっている。 「眼鏡があってもなくても、てっぺーちゃんはてっぺーちゃん」 「ということは?」 てっぺーちゃんの手を、指先で少しだけ握る。 「好き……ってこと。……は、恥ずかしいから離していい?」 「離したら抱きしめる」 強気に返したてっぺーちゃんが、さらにぐっと私の手を握る。 こめられた力にますます私は何も言えなくなりそうになったけど、こうなる原因になったジャンケンをふいに思い出す。 「コンタクトにはいつ変えるの?」 「変えてほしいのか?」 「……眼鏡のほうがいい」 「じゃあ、コンタクトに変える必要なし、だな」 てっぺーちゃんの言葉と笑顔に、初めて私は、コンタクト計画に隠された真実に気づく。 眼鏡のなくなったてっぺーちゃんに対する私の態度の変化。つまりはてっぺーちゃんなりの実験だったのだ。眼鏡がなくなったとたんに素っ気なくなる、とでも思ったのだろう。 「見くびらないでね。眼鏡くらいで変わらないんだから」 「……悪い」 許す、と言わない代わりに、てっぺーちゃんの手を強く握り返した。 明日からもっと照れくさくなるかも、などと思いながら――。 ◇終◇ |
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