――好きな人ができたんだ。 なんて陳腐でありきたりな台詞だろう。 電車が発車して人気のなくなった駅のホームであたしと向き合った彼は、頭を下げてそう言った。 あたしはもう、笑うことも驚くことも出来ず、ただひとこと「そう」と呟いた。 彼は何度も謝っていたけれど、その殆どはあたしの耳を素通りして、あたしは何の感情もない声で「さよならだね」と続けた。 その瞬間の、彼のほっとしたような、困ったような、そんな複雑な顔が忘れられない。 彼がホームからいなくなっても、あたしはひとり、立ち尽くしていた。 何の状況も理解できていないような感じだったけれど、ただ、もう彼と一緒に歩くことはないのだと判った。 泣いて我侭を言って困らせればよかったのだろうか。 そんなことはできなかった。何よりもあたしのプライドがそうさせた。 あたしは、本気で彼が好きだった? ひとを好きになるって、どういうことなのか…判らなくなってる。 ただ、壊れた人形みたいに涙がひとすじ、ぽろりと頬を伝った。 泣きたくないのに涙は止まらなくて、あたしはハンカチを取り出して頬をぬぐった。 そのとき。 「僕はきみとつきあうことが出来ない」 立ち尽くしていたあたしの耳に、そんな声が届いた。 少し変わった言い回しに、あたしは見るともなしにそちらを見る。 同じように人気の無い向かい側のホームで、うちの高校の制服を着た男の子が、あたしに背を向けるようなかたちで誰かと向き合っていた。 そして、別の高校の制服を着た少女が俯き加減で走り去っていく。 あたしは泣きながら、ホームに立ち尽くしている彼の背中を見つめていた。 あたしはふられて、彼はふって、同じ時間の同じ場所で、正反対のあたしたち。 そのとき、あたしの手からハンカチがするりと風に乗って飛んでいった。 声を上げるまもなく、ハンカチは向かい側のホームへと飛んでいき、立ち尽くす彼の足許にぽとっと落ちる。 彼はハンカチを拾い上げて、ゆっくりとあたしのほうを振り返り――そして、驚き顔であたしを見つめた。 そこにいた彼は、あたしもよく知っている人物だった。 キッカケ 宇津木拓海はうちの高校の有名人だ。生徒会長で頭脳明晰、運動神経抜群。そして容姿端麗。 少し無愛想だけど、そこがいいと騒ぐ女の子も多い。彼女はいないという話だったから、彼とつきあいたいと思う子も多いだろう。 あたし、加藤あかりは、宇津木と同じクラスではあったけれど、一言二言しか話したことなんてなかったのだ。 ――今日、このときまで。 向かい側のホームからわざわざこちらに回ってきた宇津木が、あたしにハンカチを差し出す。 それは飛ばしたあたしのハンカチじゃなくて、おそらく宇津木自身のものだろう男物の大きめのハンカチだった。 あたしはしばらく宇津木が差し出したハンカチを見つめる。宇津木は無愛想に短く告げる。 「落として汚れただろ」 「…ああ…。ありがとう…」 ぼんやりとしたままハンカチを受け取り、あたしは頬を伝う涙をそれでぬぐう。宇津木はベンチに腰掛けて、小さく呟いた。 「変なヤツ」 話したこともない相手にそう言われるくらい、いまのあたしは変なのだろう。涙をぬぐいもせずに突っ立っていたのだから。 心のどこかがおかしくなってしまってるのかもしれない。それくらい、現実感がなかった。 あたしはいま自分が泣いてるのかどうかでさえも判らない。 「…っ何か言い返せよ」 宇津木はあたしを睨んで舌打ちでもしそうな勢いでそう言った。あたしはぼんやり宇津木を見下ろす。 そんなあたしを見上げて、宇津木は大きなため息をついた。 「どうしたんだよ。加藤がそんなに泣くなんて…」 「…どうもふられたらしいわ」 あたしはハンカチで口許を押さえながら小さく呟く。宇津木は少し驚いたように顔をあげた。 自分でそう言って、やっと事が理解できた気がする。あたしは宇津木の隣に座り、ハンカチを握りしめる。 「一緒にいるのが当たり前すぎて、好きだったのかどうかも判らなくなっちゃった」 好きな人ができたんだ、と言った彼。あたしとは次第に友情になっていっていったのかもしれない。 お互いはじめてで自分の熱に浮かれてて、相手のことなんてなにも見てなかったのかな。 だからあたしはこうして、彼が好きだったのかも判らなくなってる。 「…宇津木は、誰とも付き合わないの? あれだけもてるのに」 彼はしばらく線路を見つめて、それからぽつりと呟く。 「他の誰に好かれても、僕が一番好かれたい人に好かれなかったらなんの意味もないだろ」 あたしはしばらく彼を見つめ、やがて「そうだね」と呟いた。 そして彼の言葉の意味を考え、あたしは好奇心を抑えられずに訊ねた。 「…宇津木、好きな子いるの?」 今の言葉から考えると、彼は――片想いをしているというように聴こえたんだけど…。 あたしの視線から逃れるように、宇津木はほんのわずか顔をそむける。けれど、耳が少し赤くなっている。 完全無欠な生徒会長にも、そういう一面があったわけだ。 あたしはそれが意外で、彼を身近に感じて少し嬉しくなる。 「笑わなくてもいいだろ。らしくなくて悪かったな」 「怒らないでよ。笑ったのは…ごめん、親近感がわいたから。他意はないの」 軽く憤る彼に、あたしは素直に謝る。彼はひとつため息をついて、そしてまた線路を見つめる。 彼の彼女になる子は、きっと苦労するんだろうと思う。けど、それ以上に大事にしてもらえるんだろうな。 なんだか少しだけ羨ましくて、誰かも判らない相手に嫉妬する。 「…僕が生徒会に立候補したとき、演説前にすごく緊張してたんだ」 ひとりごとのように宇津木がぽつりと呟いた。あたしは黙って、彼を見つめる。 「誰も聴いてくれないんじゃないかとか、ちゃんと話せるだろうかとか、そんなことばかり考えていた。 そのときに肩を叩いて『あたしはここで聴くから』って言ってくれた子がいたんだ」 宇津木はほんの少しあたしに笑いかける。はじめて見た宇津木の笑顔だった。 それだけでやけに体温が上昇して、あたしは必要以上に早鐘を打つ心臓を押さえるのに必死だった。 「きっとその子にとってはなんでもない一言だったんだろうけど、聴いてくれる人がいるってことで、かなり楽になった。 それからなんとなくその子が気になるようになって、でもその子には彼氏がいたからどうにもできなかった」 宇津木はそこで言葉を切って、真剣な目であたしを見つめる。 あたしはどきどきする心臓を押さえながら、宇津木を見つめ返す。 だって、宇津木が言った女の子は。 「加藤。僕は隙あらばって主義だけど」 嫌が応でも心臓は跳ね上がり、あたしはベンチに座ったままで後ずさりする。 宇津木はあたしの手を掴んで、痛くない程度に力を込める。 「…でも、加藤が僕を見てくれないなら虚しいだけだから」 「う、宇津木…」 宇津木はあたしの手を離して、ベンチから立ち上がった。 そして座り込んだままのあたしを見下ろして、真剣な目をしたままで言った。 「僕は加藤が好きだから、たぶんしばらくは誰とも付き合わない」 ふられたことに現実感がなくても、告白されたことは現実だと思ってしまうからあたしはタチが悪い。 「…ねぇ宇津木。友達じゃ駄目かな。あたし、まだぜんぜん整理がついてない」 今日ふられて、今日告白されて、怒涛のような一日だ。 しかも告白してくれたのは、完全無欠の王子さまみたいな人間で――。 いろんな感情がいりまじって、あたしはやっぱり自分の気持ちが判らない。 宇津木はゆっくり微笑む。 「充分だ。僕だって、いまはそれ以上の欲はないから。ただ…」 あたしがさっき見とれた笑顔で、彼はあたしの心に言葉を落とす。 「僕が加藤のことを知りたいように、加藤も僕のことを知っていってくれたらいいと思うんだ」 こういうはじまりもいいんじゃないかと思う。 あたしが宇津木を好きなのか、これから好きになるのか、まだ何も判らないけど。 もっと彼のことを知ってみたくなったから。 「宇津木」 あたしは立ち上がり、彼に笑いかける。 「いっしょに帰ろう」 あたしは宇津木と並んで駅の階段を降りながら考える。 今まで全然遠かったクラスメイト。 けど、たったひとことで世界が変わる。 きっかけなんて小さなことで。 あたしも宇津木も、少しずつお互いを知っていって、そして最後に相手を好きになれればいいなと、思った。 次の恋愛は、自分の熱に浮かされるだけじゃなくて、どうか相手を心から好きだといえますように。 |
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