男を見る目がない、と友人達からよく言われる。
 本当にそうだと最近、思う。私は呆れるくらい男運がない。
 それでも男が必要だと思ってしまうのは、どうしてだろう。
 仕事を終えて部屋へ帰ってくると不意に襲ってくる、どうしようもない程の寂寥感。

 ――こんな目にあってもまだ、恋しいと思うなんて。



 Loveholic


「柚木主任、宮内さん、お疲れ様です」
「お先に失礼します」
 そう声をかけて、新人の二人が帰っていく。これでオフィスに残されたのは私と柚木主任だけ。もうすぐ今日が終わる。きっともう他の課の人たちも帰ってしまっているだろう。疲れた頭で気だけが、焦る。
 室内はものすごく静かだ。主任と言葉を交わすこともなく、ただお互いに黙々とパソコンのキーボードを打つ。
 今、外資系の大手企業から受注された社内ネットワークプログラムの検品をやっている。確かに面倒な作業だけど、いつもならこんなに遅くまでは決してかからない仕事。長時間、液晶画面を眺めていたせいで、いい加減頭痛がしてきた。
 警告が出た箇所のプログラムを眺めながらも、私はまだ、頭の奥から聞こえてくる声を振り切れずにいた。
 今日、こんなにも仕事の邪魔をしてくれる声。あの男の、声。

 ――環。別れてくれないか。……俺、来月結婚するんだ。


 私と彼が出会ったのは、去年の秋頃のこと。受注されていたプログラムを納品する時に説明役として彼の会社に出向して、すぐに意気投合して付き合い始めた。他社とはいっても、普段からよく付き合いのあるお得意様といってもいいほどウチの社とは親密な会社だったから、お互いに周りの同僚達の誰にも話すこともなくひっそりと。
 それからの半年間はとても順調にいっていたと、私は思っていた。これまでのろくでもない男達とは彼は違うのだと、信じきっていた。
 別れを切り出されたのは、先月のこと。突然の宣告に、呼び出されたカフェで人目もはばからずに泣き出してしまいそうになった。それでも、意地だけで唇を噛んで耐えて、涙は我慢したけれど。
 彼に対して、私は何も言えなかった。一言でも口を開けば、泣き喚いてしまいそうで、でもそんな自分を彼に見せるのはどうしても嫌だった。諦めの悪い人間は彼が一番嫌いなタイプだと、わかっていたから。
 いつまでたっても何も言わない私に呆れたのか、しばらくして彼は大きな溜息を吐くと、何も言わずに席を立った。――それっきり、彼とは会っていないし、連絡もしていない。
 そして、今日。彼は駅と隣接している大きなホテルで結婚式を挙げているはずだ。
 彼の結婚相手は大学時代から付き合っていた会社でも公認になっている彼女だと、そんな噂をどこからともなく聞いた。


「宮内、あとどのくらいで終わりそう?」
 声をかけられて、自分がぼんやりしていたことに気が付いた。声のした方を見ると、柚木主任はすぐ側まで来ていた。首元をいつの間にか軽く緩めて、若干疲れた様子を見せながら横から画面を覗く。
「珍しいな。宮内が手間取るなんて」
「……すみません」
 まだ、今日やる予定の半分も終わっていなかった。このままのペースでいったら、期日までにはとても終わらない。
 柚木主任は溜息を吐くと、髪を軽くかきあげながら言った。
「まだもう一つ、宮内がやる予定のやつあったよな」
「……はい」
「それ、ロムにやいて」
「え?」
「俺がやるから」
 それだけ言うと、柚木主任は自分のデスクに戻ろうと背中を向ける。
「あの。いえ、自分で出来ます」
「上の空で全く進んでない人が、何言ってんの」
 振り向きもせずに、軽くあしらわれた。
 本当にその通りだったから、私は何も言えない。
 自分のデスクを片付けてパソコンをシャットダウンした主任は、帰り支度をして鞄を持ってこちらを見た。こつこつと足音を立てて、歩いてくる。
「俺も帰るから、宮内も今日はもう帰りな。送るから」
「いえ。自分で帰れます。……悪いです」
「終電もうないよ」
 すれ違いざまにぽんっと私の肩を軽く叩いて、そのまま主任がドアに向かう。
 今日は、特に心が参ってしまっているからだろうか。――触れられた肩が、少し熱い。
「車、回してくるから。用意して下で待ってて」
「――主任、今日はやけに優しいですね」
 振り返りざまに私がそう言うと、主任は少しだけ眉を歪めて笑った。
「今日だけ、な。弱ってる奴を苛める趣味は俺にはないから」


 帰り支度をして裏口から出ると、丁度いいタイミングで黒のティアナが目の前に止まった。
 運転席から柚木主任が助手席の扉を開けて、手招きをしてくれている。
 私が助手席に乗り込むと、主任はすぐに車を発進させた。
 何となく声をかけるのも躊躇われて、車内を見渡してみた。だけど、車内には物がほとんど置かれていなくて、結局前を向いているしかない。
「宮内、家はどこ?」
 主任はこっちを見ないまま、声だけで聞いた。私も、主任の顔を見ずに前を向いたまま答える。
「緑ヶ丘です」
 私の答えに主任は軽く頷いた。そして車内はまた静かになる。
 私は何もすることがなくて、何となく主任の運転する姿を眺めてしまう。
 柚木主任は、社内では一、二を争う有望株だ。プログラムを書くにしても、車を運転するにしても、とにかくそつがない。その上、男の人にこういう言葉を使うのはおかしいのかもしれないけれど、色気のある人だと思う。今はハンドルを握っている骨ばった指の長い手だとか、ネクタイをはずして緩めている首元とか、切れ長の目元だとか、そんな些細なところがすごく艶っぽい。会社の内外問わず女の子に人気がある理由は、この人に限っていえば私にも十分わかる。だけど主任は、社内の女の子には決してなびかないことでも有名だった。お互いに合意の一夜ならともかく、本気にはならないと。多分、社内だと別れた後が面倒だからだろう。
 疲れた頭でぼんやりとそんなことを考えていたら、声をかけられた。
「宮内」
「はい」
 主任は、少し言いにくそうに視線を一瞬だけこちらに向けて、それから続けた。
「何かあった?」
「あ……」
 見通されていた。そんなに私は態度に出してしまっていただろうか。恥ずかしくて顔を僅かに俯かせてしまう。
「男?」
 ストレートな質問に、心臓が一つ大きく鳴った気がした。
「……随分、直接的に聞きますね」
「嫌なら別に答えなくてもいいよ。単なる俺の好奇心だから」
 息を深く吐いて、少し自分を落ち着かせてみる。それから、主任の方を向いた。
 運転に集中している様子の横顔を見つめる。
「振られたんです、先月。二股かけられてたらしくて」
 信号が赤になって、車を止める。それから、主任は何の表情も浮かべずにこっちを向いた。
 視線が、ぶつかる。
「でも、傷ついたのは」
 そのまま主任と目を合わせているのが辛くて、顔を背けてしまう。
 思い出すとまだ、胸が痛い。
「二股をかけられていたことじゃなくて、彼の中で私は一番じゃなかった――そのことに、傷ついたんです。どうしようもないですよ、ホント」
「……宮内なら、もっといい男いくらでも捕まえられそうなもんなのにな」
「私、男運ないんですよね。いい人が来るまで、待てないんです」
 そして下らない男に捕まってしまう。きっと次も、そう。
 だって、頼れる人がいないっていうだけで……今だってこんなに寂しい。
 自嘲気味に笑った私を、主任は横目で捕らえて言った。
「俺にしとけば?」
 独り言のようにぽつんと聞こえて来た言葉に、耳を疑ってしまった。
 主任の方を振り向くと、信号が青になって車を発進させるところで、もうこっちを向いてはいない。
 だけど、交差点を渡ったところでもう一度、今度ははっきりと声を投げかけられる。
「俺にしろよ」
 容赦の無い声。命令の様にも聞こえる強い声に、心が傾きそうになってしまう。
「止めて下さい。……主任が私を想ってる訳じゃないことくらい、わかります」
 わけもなく、声が震える。それでもなんとか言い終えた。
 これ以上、惑わせるような事を言うのは止めて欲しい。
 寂しさを恋情だと、勘違いしそうになる。
「同情じゃない」
 私の弱さも知らずに、前を向いたままきっぱりと主任はそう言った。
 強い声で。

「今惚れた」



 嫌味なくらい静かな時間が流れた。
 私も主任も、それ以上は何も言葉を続けないまま。
 私は、主任の言葉に何も答えられなかった。どう答えていいのかさえ、わからなかった。
 重い沈黙に早く家に着くことを切実に祈るけれど、こんなときに限って時間はゆっくりとしか進まない。
 ――いっそもたれかかってしまいたい、と思う私がいる。
 ――でも、そんな愚は冒したくない、と思う私もいる。
 主任が本気かどうかもわからない。私の気持ちは決して恋じゃない。そんな状態で何かを始めても、上手く行くはずも無い。わかっているのに、この人の引力に惹きつけられてしまいそうになる。
 相反する思いに苛まれて、身体が僅かに震える。
 もうこれ以上は耐え切れない、と思ったとき私は反射的に声を上げていた。
「あのっ………」
 ちらっと私を見て、主任は前に向き直る。
「何?」
「もうここでいいです。降ろしてください」
 私の家は、まだここから車で五分くらいかかる。でもそんなこと、この緊張感に五分も身を置く事に比べたら今はどうでも良かった。
 主任はもう一度私を見た。何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局何も言わずに車を止める。
 多分、私の身体が震えているのに気が付いたんだろう。
「あの、ありがとう、ございました」
 主任を視界に入れずに何とかそれだけ言うと、急いで車のドアを開ける。足を踏み出そうとしたところで、後ろから声をかけられた。

「逃げるなよ。――環」

 その言葉だけで、私は動きを止めてしまった。
 男の低い声で名前を呼ばれて、そこに彼の記憶が重なる。――胸が疼く。
 私は、縋りつきたくなる衝動を必死に押し殺して、車から出た。
 扉を閉めるために振り返ったら、私の方をじっと見ていた主任と目が合った。主任は視線の鋭さを隠しもせず、こっちを見つめる。
 その目を私は仕事中、何度も見たことがあった。そして今、不意に悟ってしまう。
 ――主任は、本気だ。
 そう思った瞬間、心臓が今までよりも更に大きく鳴り響き始める。
 背筋に予感が走る。
 その視線だけで捕まったと、不意に思う。
 私がその場を立ち去ることも出来ずにいると、やがて主任は視線をはずして車をまた動かした。
 段々と遠ざかる黒のティアナが見えなくなるまで、私はその場から動けなかった。

 主任の姿が見えなくなっても、鼓動が一向に静まらない。

 ――もう、この気持ちが何なのか、私にはわからない。





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[wordless]のヨウさんから。
10万打、おめでとうございます〜。
キリリク拡大版というなんとも太っ腹な企画に甘えて、お持ち帰りさせていただきました。
3作品もあって迷ったのですが、いい男率を上げたくて(笑)柚木主任を。じゃなくて、Loveholicを。

ヨウさんの文章はシンプルなのに、的確に単語が選ばれていて、読んでいると頭の中がきれいな光景でいっぱいになるんです。
そんな感じがたまらなく心地よくて好きです。
この作品でヨウさんにメロメロになった方はぜひ、サイトのほうへ。

 ヨウさんの、素敵なサイトへどうぞー → [wordless]

 

 

 

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