+体温+
*読まれる前に。
完結後のお話になります。
スパムメール
軽やかなメロディが、昼間と夕方がやわらかに交じり合い始めていた空気を切り裂く。
続けて、ごほん、とやや大袈裟な咳払いが聞こえた。
「館内では、携帯電話の電源を切るか、マナーモードに切り替えて頂きますようお願い致します」
「ご、ごめんなさい」
「頼むよ? 図書委員さん」
館内唯一の利用者に注意されて、図書委員はあわてて鞄から音源を取り出した。
今朝は一際の冷えこみで、ついもう少し、と布団のぬくもりに甘えていたら寝坊してしまった。
そしてうっかり、マナーモードにするのを忘れてしまっていたのだ。
電車や授業中に鳴らなくてよかった。
ほっと胸をなでおろしながら、理実は携帯電話を開いた。
そのディスプレイに濃い色の影がかぶさる。
のぞきこんでいるのだとわかったが、顔を上げないまま文字を読もうとすると、ひょい、と手の中から携帯電話が奪われた。
「だめ、ぼっしゅーっと」
え、と理実の口から漏れるよりも早く、指先が軽やかにボタンの上を踊り始める。
「おや。ダーリンから、みたいですよ?」
だーりん。
いまだに慣れない変換に戸惑いながら、理実は少しカウンターに身を乗り出した。
「なにって?」
「ええと……」
興味深そうに文面を追いかけた目が、見る見ると光を失っていく。
「なんだ、ずいぶんと健全なメールだな」
健全じゃないメールってなんだろう。
理実が内心でこっそり首をかしげると、朗読劇が始まった。
そっけないのに、やさしい。
声質が似ているわけではないのに、画面の向こう側の人を呼び起こしてしまうのはどうしてだろう。
声の大きさや、間の取り方なんかが、似ている。気がする。
よく観察してるなぁ、と変なところに感心しながら、静聴した。
ごく普通の、赤井いわく、健全なメールだった。
今日の放課後、灰谷は歯医者の予約があるとのことで、すでに学校を出ていた。
それはすでに知っていることで、用件はもう少し先のことに触れている。
今日理実が借りるはずだった本を渡し忘れしまったことを謝って、また明日貸すよ、と約束してくれていた。
「なんとお返しいたしましょうか、お嬢さま」
きれいな微笑みに、ぱちぱちとまばたきで返事をした。
「え? いいです、大丈夫。自分で打てます」
「そう遠慮なさらずに。お嬢さまは、自分に課されたお仕事を続けるがいいよ」
と言われても、じゃあお言葉に甘えてと、図書委員に、特別にやらなければいけない仕事はないのだ。
でも、携帯をつかんだ指がうずうずとしていたのが見えたので。
理実は苦笑いして、言葉をつむぎはじめる。
「ええと、じゃあ――」
ボタンの上を縦横無尽にすべる親指。
声を出すスピードとほぼ変わらなく、文字が打ちこまれていく。
どちらかというと、言葉にするまでもそして文字にするまでも時間がかかる理実にとって、その速さは驚異だった。まるで同じ人間じゃないみたい。劣勢に傾きそうで、あわてて唇を動かした。
やがて、これでいい? と示された画面に映されている文章は、確かに自分が口から吐き出されたものなのに、まるで自分の言葉じゃないみたいだった。
理実は、ゆっくり目で追いかけて、こくりと頷いた。
送信、という掛け声とともに、指が最後のボタンを押す。
「ありがとう」
お礼を言うと、珍しく図書室のドアが開いた。
利用者だ。手に返却本を持っている。仕事だ。
理実が業務に戻る素振りをすると、赤井も、一利用者の位置へと戻っていく。
「ケータイ、ここ置いとくね」
目線でそう告げて、カウンターのすみっこにアイボリー色の携帯電話が置かれた。
返却業務を終えて、理実は再び自分の携帯電話を手にした。
先ほど来訪した利用者は去り、対応している間に赤井もいつのまにかいなくなっていた。
部屋を出て行った様子はないが、奥の棚のほうに行っているのだろうか。理実が座っているカウンターからは姿が確認できない。
送信済みメールフォルダの中に、さきほどのメールを見つけた。
> 歯、平気? 痛いの早く治るといいね。お大事に。
> 本のことは大丈夫だよ。明日貸してもらえるの楽しみにしてます。
ごく普通の、健全なメールだった。
そういえば、赤井は相手に合わせてメールの文章を変えると聞いた。
顔文字やら絵文字やらを多用したり逆に減らしたり、タメ口にしたり敬語を使ったり、即返信したりじらしたり、メールじゃなくて電話をかけたり、この小さな機械の中には人とつきあうためのノウハウが詰まっている。楽しそうに語っていた。
小さな四角の画面を見つめる。
この短い単語の繋がりが、用件を伝えて、感情の色まで伝えてしまう。
そう思うと、不思議だ。
画面の向こう側に広がる世界を想像していると、先ほどのメールの下に不自然なスペースが空いていることに気づいた。
理実は何気なく親指で下矢印を押し、スクロールしてみた。
> 歯、平気? 痛いの早く治るといいね。お大事に。
> 本のことは大丈夫だよ。明日貸してもらえるの楽しみにしてます。
>
>
>
>
>
> 灰谷くん、大好きだよ!
「こ、っこここれ?!」
ノドがひっくり返った。図書室ではお静かに、思い出し、携帯電話を折りたたむ。
誰もいない室内を見回して、もう一度おそるおそる携帯電話を開いた。
メール画面を立ち上げ、送信済みのボックス、時刻とあて先を確認して、もう一度メールを開く。三回くらいくり返した。
> 灰谷くん、大好きだよ!
何度見直しても最後の一文は消えなかった。
自分の言葉ではない。けれど、これは電波に乗って相手の元に届いて目に触れて、自分の言葉になるのだ。
理実は胃の底のあたりがさーっと冷たい空気で満たされるのを感じた。
「メールは時に、口よりも雄弁だよね」
「きゃあっ」
いつのまに戻ってきたのか、生徒会長がカウンターの向かい側で一緒に携帯の画面をのぞきこんでいた。
理実は呆然として、助けを求めた。元凶に。
「ど、どうしようこれ」
「なにか問題があるの? 彼氏彼女、相思相愛の間柄なんだから」
満面の笑顔は、自分が悪いとは一ミリも考えてないようだ。
理実は一言文句を言おうとしたが、小さな怒りよりも大きな焦りのほうが勝った。
「だ、だってこれ、びっくりマーク付いちゃってるし!」
「大丈夫大丈夫、一個だけだし無問題だって」
「いや、でもだって」
だって、こんな脈絡なく好きだなんて、あれだ。一種の迷惑メールのようなものなんじゃないだろうか。
自分の欲望だけを押し付けて、ターゲットを指定せず、無作為に振りまかれるメール。
この場合はターゲットを絞ってしまっているのだから余計に性質が悪い。
「やっぱりいいよね、メールは」
頬杖をつきながら、しみじみと赤井が言う。
「言葉と違って形に残るところとかも」
…… 追い討ちまでかけないでほしい。
理実は必至にどうすればさっきのメールをなかったものにできるのか考え、電話をしようか、いっそ歯医者まで押しかけようか。
何通りも実行して、結局一番消極的にメールをすることにした。
> さっきのメールは、赤井くんの指の仕業です。ごめんなさい。
> できれば見ないで捨ててください。見ちゃった後だったら…忘れてください。ごめん。
たったこれだけのことを打つのにかなりの時間を消費した。
いつのまにか赤井の姿がまたいなくなっている。室内をぐるりと巡回してみたが誰もいなくなっていた。
本は貸しても、もう二度と携帯電話は貸し出すまい。誓ってみても、生徒会長がここの本を借りていくことなどめったにないのだった。この場所に用があるだけで。
大きな音を立てて、図書室のドアが開いた。
今日は利用者が多いな。
珍しく思って理実が入り口を見れば、見慣れた姿がそこにあった。
携帯画面の向こう側にいるはずの人物が、両膝に手をついて呼吸を整えている。
「め、メール」
開口一番、核心に迫って理実の心臓が飛び跳ねた。
「さっきの赤井が送ったって聞いて」
「ご、ごめんね。なんかイタズラされてしまって」
理実が近づいていくと、灰谷は固まったように動かなくなった。
「オレ、てっきり柳原だと思ってたから
……」
口に手を当てた灰谷は歯切れの悪い言い方をした。
歯医者はどうしたんだろう。もう終わったのだろうか。
理実がたずねようとするのをさえぎるように灰谷が口にする。
「メール」
「え?」
「メール読んだ? さっき送っってくれた、のに、…… 送り、返したやつ」
言いながら、灰谷は顔をそむけていく。
携帯電話はカウンターに置きっぱなしになっていた。
「ううん、まだ読んでないと思うけど」
確認しようと振り返ると、灰谷があわてた。
「あ、いいんだっ。読んでないならそれで。その、間違って送ったから」
「……
間違えちゃったの?」
灰谷でも間違えることがあるのか。理実が驚いていると、灰谷は気まずそうに声を落とした。
「……
うん、だから消しちゃって。ごめん」
わかったと理実がうなずくと、ほっとしたように息をつく。
どうやら診療を待っているわずかの間に舞い戻ってきたらしい。
迷惑メールは名前だけでなく、本当に迷惑なメールになってしまったようだ。
灰谷はじゃあ、とまた帰っていった。貸してくれる約束だったはずの本と一緒に。
よほどあわてていたらしい、自分も灰谷も。
面映い心地にひたりながら、カウンターに戻る。太陽が沈みかかっている。暗がりに支配されつつあった室内で、携帯電話が着信のランプを灯している。
約束したことは覚えていた。
開いてしまったのは日ごろの習慣か、言い訳をしながら画面を見つめる。
本音は、彼がどんな間違いをしたのか、気になってしまったのだ。
> Re:
>
> うん、本は明日には必ず。感想、楽しみにしてる。
>
>
>
>
>
> >
大好きだよ!
>
> 俺も
>
「…………」
削除しますか?
理実は、親指を止めた。
三秒きっかり経ったあと、携帯電話を閉じた。
もう一度開いて、言葉が消えていないことを確認する。
灰谷に嘘はつけない。つかないようにしようと心に決めている。
だから、あとでちゃんと消そう。
約束して、もう一度見る。心臓が持たないので小分けにして、何度も。何度も。
携帯電話から削除する方法は知っているけれど、記憶からはどうやって削除すればいいのだろう。
理実はしばらくの間、灰谷の顔をみるたびに思い悩むことになる。
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