+体温+

  06 三日ぶりに学校へ。  

 青い空をした、いい日だった。
 深呼吸して新鮮な空気を全身にめぐらせる。
 頑張らなくちゃ、と理実は呟いた。
 ちゃんと言葉にして、本当に力にできるように。

 家の門を出てすぐの道路に、電柱みたいに立っている人がいた。
 気持ちのいい朝の光を浴びているはずなのに、眉一つ動かさない。
「え、あっくん?」
 目を丸くする理実の姿を見ることでスイッチが入ったのか、すたすたと篤郎の足が動き始める。
 ただでさえ長い足なのに、回転速度にもまったく遠慮がない。
 理実は慌てて小走りになって追いかける。
 おはよう、となんとか隣に並ぶのに成功して、整わない呼吸から声をかける。
 はよ、とそっけない、らしい挨拶が降ってきた。
「もしかして、迎えにきてくれたの?」
「……おばさんに、頼まれて」
「お母さん? なんか言ってた?」
「……病み上がりだし、最近元気がないから心配だ。って」
 そう言っては、何かと篤郎に頼むのである。うちの母親は。
 理実は気恥ずかしい思いで、ごめんねと呟いた。
 別に。とそっけない、らしい返事が降ってきた。
(そんなに、わかりやすかったかな)
 と、常に少し前を行く大きな背中を見つめながら、理実は自分を省みた。
 無理をしているように見えたんだろうか。
 知らない間に、心配をかけて気を遣わせてしまっていたんだろうか。
 頭の中にいくつか顔を思い浮かべる。
 とりあえず、隣の顔はいつもと変わりないように見えるけれど。
「そういえば、バスケ部の朝練は? 今日はないの?」
「昨日練習試合があったから……休み」
「そっか。えっと、どうだった?」
「負けた」
「……そっか」
 理実にとって、会話の主導権を持たされるなんてことは、滅多にないことで。
 篤郎とは、小さい頃から、年齢も同じくらいということもあって何かと一緒にいた。
 けれど、常に、篤郎とは身長の差分、距離があるような気がしてならなかった。
 そしてその距離は、年を重ねるに連れて、だんだん大きくなっていった、ように思う。
 ちらりと盗み見た。
 はるか高みの、表情の読みがたい横顔の向こう側、青空が眩しかった。
「いい天気だね」
 何気なく浮かんだ言葉を口にした。
 すると篤郎が、意外なくらい意外そうな顔を、理実に向けてきた。
 何言ってんだこいつは、と少し開いた口の隙間から言われたような。

「……」

 長く重たい沈黙が、理実の上に落ちてきた。
 自分で招いたものとは言え、あまり居心地のよくないもの。
「……あの、あのね」
 なんでもいいから続けよう、と一念発起して理実が顔を上げるまで。
 どうやら、篤郎は空を見上げていたようだった。
 あぁ本当だ。と、注意していないと聞き逃してしまいそうな声が降ってきた。
 そっけなくて、彼らしい。
 けれどどこか、感動を帯びているようにさえ聞こえる。
「……もしかして、気づいてなかったの?」
「あんま空なんか見ないからな」
 どうやったら、こんな青い空に気づかずに過ごせるんだろう。
 理実が疑問に思っていると、ああそうか。と、今度は何か悟った声。
「え、なになに?」
「背が小さいから。いつも上ばっか見てるから気づくんだな、こういう当たり前のこと」
 そんなことをさらりと言う横顔も、少なくとも理実には、いつもと変わりないように見えた。

 いつもの改札をくぐって、いつもの電車に乗って、いつもの駅で降りた。
 篤郎が隣にいることだけが、いつもと違う。
 ふと気がつくと、周りには同じ制服の人ばかりになっていて、学校がもうすぐそこまで迫っていた。
 理実はまだ隣に篤郎がいることを確認して、ほっと胸をなでおろした。
 意外なことに、篤郎は身体のサイズに比べて、あまり存在の気にならない人で。
 いつのまにかそばにいて、いつのまにかいなくなっていることが、今までに何度もあった。
「あっくんあのね、私、頑張るから」
 理実の唐突な言い分にも特に驚きも見せずに、いつものように。
 もしかして篤郎は、理実のような、自分より小さな人と話すためには、少し首を曲げなければいけないのだろうか。
 その見下ろす仕草が、怒っているように見えるのかもしれなかった。
 理実は初めて、そんなふうに思う。
「せめて、お母さんや、あっくんに心配かけないようにする」
 ちゃんと言葉にして、本当に力にできるように。
 頑張れるように。
 と、宣言してはみたものの、やっぱり恥ずかしくなって、理実は俯いた。
 また変なことを言ってしまっただろうか、という小さな後悔と一緒に。

 ポン、と、軽い重みを感じた。
 ポン、ポン、と続けて落ちてきた。
「……あっくん?」
 篤郎の大きな手が理実の頭のてっぺんに置かれた。
 最後に少し強めに、後頭部を一発はたかれた。
 わ、と軽い悲鳴を上げ、理実は数歩分前へとよろけた。
 それ以上の言葉を交わさずに、篤郎は、自分の校舎へと消えていった。
 無口なイトコの手に押されて、理実は三日ぶりの校門をくぐった。


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