| 【連作短編小説・雨上りの街 第63話】 |
| 男の隠れ家A |
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翌朝、目覚めると6時半だった。会社に行く日と同じ時刻に目が覚めてしまったことに小倉は苦笑した。 寝袋から抜け出して、小屋の外で歯を磨く。朝の引き締まった空気に身体がすっきり目を覚ました。 シジュウカラがすぐ近くの木にやってきた。静かに見ていると、コガラやエナガの群がシジュウカラを追いかけるようにやってきて、しばらく賑やかに梢を飛びまわっていたと思ったら、いきなりどこかに消えてしまった。 そのまま緑の森をぶらぶら15分ほど歩いて、小屋の上にある小さなピークに行ってみた。そこはちょっとした岩峰になっていて、梢が切れて空が明るい。岩に登ると周囲の山が緑の大海のうねりのように見える。その向こうにすっかり雪の少なくなった富士山が聳えていた。朝日を浴びた山々を眺めていたら、爽快な気分になってきた。 岩に踏ん張って茫漠とした山の連なりを眺めていたら、いきなり心の深いところから抑えきれない感情が湧きあがってきた。小倉はどことも知れない山の彼方に向かって、ワアーッと大声をあげた。気持がますます清々してきた。 小屋に戻って、昨日の残りメシをお茶漬けにして食べた。 食事の片付けをしてしまうと、やらねばならないことは何ひとつない。小倉は寝袋の上に寝転んで二度寝を楽しむ。眠るもよし、さまざまな想いが胸に去来するのにまかせるもよし。 (酒と薔薇の日々……) 自足した気持でそうつぶやいてみる。何の色にも染まっていないまっさらな時間。何のために用意されているでもない時間。おとといまでの普段の暮らしが嘘のような時間。季節のうつろいを感じ、ゆったりと流れる時間。聞くまいと思えば何も聞かずにすみ、見まいと思えば何も見ないでいることのできる時間。いや、そんなことさえ考えなくていい時間。この時間の中にいると、気持がかぎりなく楽になる。かぎりなく自分が自由であることを感じることができる。自分の心が内に内にと向かって、すべての縛りが解けていくような時間。ほんとうの自分に返ることのできる時間……。 いつの間にか眠ってしまったらしい。目が覚めたら9時半だった。 さて、山が静かなうちに散歩がてら、山頂まで歩いてくるか。小倉は文庫本を一冊持ち、登山靴を履いて小屋を出る。 浅間峠までいったん短く下り、緑のきれいな森の中を尾根どおしに緩やかに登り返す。路傍には白い蕾をつけたユキザサがたくさん生えている。花を開いているものもある。 北陸のどこかの地方ではこのユキザサを山菜として食べるということをいつか誰かから聞いたことがある。その地方のユキザサは茎がもっとずっと太く、山菜の中でも特にうまいのだという。こんな可憐な花を咲かせる草を食べてしまうなんて小倉にはとても考えられない。きっと冬の寒さの厳しい豪雪地帯なのだろう。カタクリもニリンソウも山菜図鑑に載っているが、小倉はこうした草を掘り取って食べる気にはならない。 やがて登り勾配がだんだんきつくなり、しばらく階段の道を我慢すると広場になった王子山の山頂に出た。幾つかのベンチと説明版の設置された山頂には誰もいなかった。明るい陽射しの広場からはすこし霞みはじめた富士山が見える。 帽子を尻の下に敷き、広場の端の草地のブナの幹にもたれて文庫本を広げる。木漏れ日を浴び、ウグイスやホトトギスの鳴き声を耳にしながら本を読む。これこそ究極の極楽の時間だと小倉は思う。リタイアして、毎日こんな時間がすごせたらどれほど幸せだろう。 30分ほど本を読んでいたら、気の早いハイカーがもう登ってきた。デイパックを背にした中年男性二人のパーティーだった。彼らは、こんな時刻に山頂の草地で本を読んでいる男がいるのを見てちょっと驚いたようだった。 「おはようございます」 挨拶をされて、小倉も本から目を上げて挨拶を返す。 「早いですね」 「ええ、まあ」 「どちらから?」 「そっちから」 小倉は自分が登ってきた登山道を指し示す。男たちはなんとなく釈然としない顔をしたが、富士山が見えることに気がつくと、デイパックを下ろして写真を撮りはじめた。彼らにかまわず、小倉はまた文庫本に目を落とす。今日は土曜日だし天気もいいから、これから昼すぎにかけて続々とハイカーが登ってくるだろう。山が騒々しくなる時間帯は、小屋で静かに昼寝でもしていよう。夕方になれば山はまた静けさを取り戻して、小倉にしか見せない姿を見せてくれる。 男たちは小休止をしただけで、思いのほか早く下山していった。 30分ほどすると、10人ほどの中高年パーティーが登ってきた。ほとんどが女性だ。彼らも小倉を見ると、あらっ、というような反応を示した。小倉は黙って本を読みつづける。女性たちは慎みのない高い声で、富士山がきれいだの、おいしいチョコレートがあるから食べないかだのとしゃべりはじめ、静かだった山頂はすっかり騒々しくなった。 そろそろ退散したほうがよさそうだ。小倉は腰を上げ、彼らの脇を抜けて小屋への道を戻った。 避難小屋に戻ってチャーハンを作っていたら、ごろりと戸が動いて、男が顔を覗かせた。室内からは逆光になって相手の顔がよく見えない。立派なログハウス風の山小屋だから、用もないのに通りがかりのハイカーがちょっと覗いてみるということがときどきある。見知らぬ人間にじろじろ見られることになって、小倉は不愉快になるが、公共の建物だから我慢するほかなはい。相手が黙っていれば、こちらも無視して黙っていることにしている。気を遣って声をかけ、小屋に入り込まれて煩わしい思いはしたくない。 しかし戸口から顔を覗かせた男は聞き慣れた声をかけてきた。 「やあ、小倉さん、もう来てたんですか、早いですね」 寺島だった。重い戸をさらにもうひと押し開いて、大きなザックを背負って入ってきた。 「久しぶりだね」 「ほんとうにね」 「あんたも早いじゃないか」 「今日はいちばん乗りだと思ったんだけど、先を越されたか」 「朝一で家を出てきたのかい」 「うん、週末が近づくと心はこの小屋に飛んじゃってね。このところ野暮用がいろいろあってしばらく来れなかったから、家でのんびりしている気にならない。小倉さん、何時に家を出てきたんですか?」 「いや、休暇をとって昨日から泊まっている」 「そりゃ羨ましい。連泊ですか」 「そのつもり」 「とにかくよろしくお願いします」 寺島は小倉のスペースから適当に間を開けて、ザックを置いた。 「昨日の夜は、ひとり?」 「もちろん」 「どうでした?」 「晩飯食って、一眠りしたあと、夜中に上の岩まで行ってきた。いい夜だったよ。満天の星でね。30分ぐらい岩に腰掛けてぼんやりしていたけど、10個以上流れ星を見た。フクロウもよく鳴いていたし、ムササビが飛ぶのも見た」 「そりゃいい。ブッポウソウは鳴かなかったですか」 「聞かなかったね。今夜あたり、鳴いてくれるといいね」 「ムササビも出てきてくれるといいな」 「久しぶりにあんたが来たんだから、また出るんじゃないの」 寺島はザックの中身を取り出していそいそと店を広げる。 「久しぶりの邂逅を祝して、じゃ、軽く一杯やるか」 「いいですねえ」 小倉はシングルモルト山崎を二人の間のスペースに置く。 「おっ、豪勢ですねえ。こんなもの持ってきたんですか」 「もらいものだよ。家で飲んじゃもったいないんで、ここに持ってきた。昨日はずっとこいつをちびちびやっていた」 しかしウィスキーはまだ5分の1ほど減っただけだ。クーラーボックスの氷はもうほとんど溶けてしまったが、冷たい水割りならできそうだ。 「ぼくはビールを冷して持ってきたんですよ。ウィスキーの前にビールをやりませんか」 「いいねえ、昼間から豪勢な宴会だ」 「本場イタリアのうまいソーセージもあります」 「じゃ、そいつをちょっとフライパンで炙ろうか」 二人の持物からソーセージやスモークチーズやピーナッツが出てきて、チャーハンで昼食のつもりが昼間から酒盛りになった。 「これがいいんだよね、これが」と寺島は嬉しそうだ。 「大人の遠足……」 「というよりも、かりそめの隠遁」 「というほどの深さはないけどね」 「まあ、一日は長い。ゆっくりやりましょう」 寺島の持ってきたビールはよく冷えていて、ほんとうにうまかった。 「戸を開けたら、誰かが中にいるじゃない。せっかく早く出てきたのに、知らない人だったらいやだなって一瞬思った。先着者がいると、間借りするようで気兼ねしなければならないからね。でも、小倉さんだったのでほっとした」 「俺も、入ってきたのがあんただったんでほっとした。一番乗りすると誰かあとから来ても小屋番みたいな顔をしていられるけど、知らない人間だとやはり気疲れするからね」 「われわれみたいな人間があまり増えないでほしいですね」 「ほんとうにね。ところで布施さんとこのごろトンと出合わないけど、どうしているんだろう」 小倉がこの小屋に泊まりにきはじめた頃、たまに一緒になる老人がいた。話好きの気さくな人で、この小屋が建て替えられる前から、ときおりここに泊まりにきているということだった。いわば小倉の大先輩である。 「ああ、仙人ね」と寺島が笑いながらいう。寺島は布施さんに〈仙人〉というニックネームを勝手に献上している。「ぼくもしばらく顔を見ないから具合でも悪いのかと思ってこのあいだ電話をしてみたんです。そうしたら奥さんが電話口に出てきて、今は東北方面の山をさまよっているらしいということでした」 「ほう、東北の山ね」 「もう2ヶ月ほど家にもまともに連絡がなくて、行方不明状態らしいですよ」 「ふうん、布施さんらしいね」 布施さんは、もう七十を幾つか過ぎた歳まわりのはずである。若い頃から相当山を歩いているらしい。だからもう山歩きなど卒業してもいい年齢なのに、歯科技工士を廃業してからいっそう熱が入って、人の入らない林道に車を乗り入れて、気に入ればそこに1週間でも10日でも滞在するらしい。米と味噌さえあれば、あとは山菜を採ったり岩魚を釣ったりして、幾日でも山にいられるといつか聞いたことがある。まさに極めつきの行動派で、歳をとったら里山で畑を耕すなどという発想とは無縁の人である。 そんな布施さんに、どうしてこんな近郊の山に泊まりにくるのかと訊いてみたことがある。「ちょっとした息抜きですよ」という答えだった。家でじっとしていられない人らしい。家に1週間もいると、もうどこかに出掛けたくなってしまうという。 「奥さんもさっぱりしたもんです」と寺島は笑う。「そのうち何か連絡があるでしょうとさほど心配していないようでした」 「もう諦めちゃってるんじゃないの」 「そうかもしれないですね。こっちのやることに女房にやいやい口出しされるのも煩わしいけど、諦められるというのもなんとなく寂しいんじゃないかな」 「たしかにね。布施さんは家じゃ居候みたいなもんじゃないのかな」 「一年の半分以上を住所不定状態で遊び歩いていられたら、家族も呆れ果てて居候扱いになりますよ」 「寺島さんはあそこまでやる気にはならない?」 「仙人みたいになれたらすごいとは思うけど、あそこまでやる気にはなれないですね。あれはもう、ほとんど世捨て人だもの」 「あの年齢だから後顧の憂いなくあそこまでできるのかもしれないけど、体力的にもたいしたものだね。いつだか聞いたんだけど、誰も入らないような林道の奥に車を停めて幾日かすごしていて、花の写真を撮ろうとして崖から転落しちゃったことがあるらしい。なんとか崖から這い上がりはしたものの、腕の骨を折って、身体は傷だらけ。これは一刻も早く医者に行かなければいけないと、片手で運転して死ぬ思いで家まで帰ったそうだ」 「仙人になるには強靭な体力と精神力が必要なんだ」 われわれクラスはこのあたりで酒を飲んでのんびりすごすのがちょうどいいかと、二人は笑いあった。 「これがぎりぎりですね。ほんとうをいえば俺なんか、こんなこともしていられる状態じゃないんです」 「でもこれくらいはしたいよね」 「したいけど、俺、現在失業中で、ほんとうはこんなことしている場合じゃないんです」と寺島は自嘲気味に笑う。 「ほう、会社辞めちゃったの」 「好きで辞めたんじゃないんだけど、希望退職に応じちゃった。今辞めれば条件がいいんで決心したんです。いずれだんだんと条件が悪くなって二次三次と退職勧奨がきつくなるのがわかっているから、辞めるなら今かと」 「ふうん、そうだったんだ」 「当面は割増退職金も入ってきたし、今日明日に生活が追い詰められるということはないんだけど、職を失うというのは思った以上に精神的にきついですね」 「で、再就職のほうは?」 「これが、いざ職探しをしてみると思った以上に厳しいんですよね。自分のスキルを活かせる仕事なんてまずない。仕方なしに求職条件を緩めれば、収入は半分になるような仕事しかない。今はまだあれこれ贅沢を言って職を選んでいるけど、いつまでも再就職口が見つからなければそんな贅沢も言っていられなくなるのかなと不安ばかりが募ります」 収入が半減してしまったら、子供を大学にやることもできなくなってしまうと寺島は深刻な顔をする。小倉はなんと言っていいやらわからなかった。ほんとうなら、できればこの小屋でこういう俗世間の話はしたくない。山の話や花、鳥などの話をして、浮世離れのした時間を過ごしたい。しかし彼の気持も大事にしてやりたい。寺島の不安と焦りはよくわかる。片道切符で転籍前提の出向をさせられている自分には割増退職金などというものもないだろう。 「まあ、焦っても仕方がないさ」と小倉は慰めにもならない言葉を口にする。「ここにやってこれるということはまだ気持に余裕があるからだよ。たまにはここにやってきて、歯車が狂いそうな感情や思考をちょっとリセットするのも大事だよ」 「そうなんですよ。これをやっているから心がもっているという面もたしかにある。これをやらなければ、仕事が見つからない焦りと家族への責任で俺はつぶれてしまうかもしれない」 小倉が寺島のカップにウィスキーを注ぎ足してやると、 「いけねえ、話がしめっぽくなってきた」と寺島は頭を掻いた。「もうすこし楽しい話をしましょう」 「楽しい話ねえ……」 「いつだか昔の山仲間から聞いたんだけど、六方山の避難小屋には近頃幽霊が出るって話です」 六方山とは、西側に谷二つ隔てた隣の山域の主峰で、そこにも古い避難小屋がある。 「へえ、どんな幽霊?」 「若い女の登山者の幽霊」 「ふうん、なんとなくなまめかしいね。一度六方山の避難小屋に泊まりにいってみようかな」 「数年前にあの小屋の近くで道に迷った女の単独行者が沢に落ちて死んだ事故があったらしいんです。その幽霊が出るって話なんです」 「必ず出るって保証があれば泊まりにいってもいいんだけど」 「小倉さんも案外物好きなんですね」 「幽霊に会えるなんて楽しいじゃないか。それも若い女性の幽霊ならぜひ会いたい」 「俺なんか絶対にいやだな。一人でこの小屋に泊まっていて、もし夜遅くに誰かが入ってきたらきっと恐ろしさでぞっとするな」 「そりゃそうだよ。単独で山に入っていていちばん恐ろしいのは、お化けや幽霊じゃない。イノシシやカモシカでもない。自分以外の人間だ。どこの誰ともわからない他人と出合うのがいちばん気味が悪い」 「ほんとですね。いつだったか、裂石から大菩薩に登って小菅に降りたことがあるんですよ。最終の普通電車に乗って、夜中に塩山から登山口までタクシー飛ばして、ランプをつけて歩きはじめたんですけど、途中まで行ったら暗闇の中からいきなり登山者が現れて、ぞっとしたことがあります。むこうはただ登山道の脇でひと休みしていただけなんですが、人がいるはすのない夜道に人がいた。それだけで、心臓が縮む思いがしたな」 「ぼくも同じような体験をしたことがある。土樽から平標に登ろうと夜中の道を歩いていたら、ずっと後ろの方に明かりみたいなものがちかちかしはじめた。ちょっと気味が悪くて後ろばかり気にして歩いていたら、だんだんこっちに近づいてくる。やがて暗闇の中から人影が追いついてきた。追い剥ぎじゃないかと緊張していたら、一人じゃ怖いからご一緒させてください、と声をかけられた。話を聞いてみたら釣り人だったんだけど、僕なんか、山の夜道は一人がいちばん安心できるけどね」 「ほんとうですね。でも、この小屋に夜遅く可愛い女性のハイカーが現れる、なんてことが一度くらいあってもいいのに、ないですね」 「あるはずないさ。もしそんなことがあったら要注意だぜ。六方山の小屋じゃないけど、幽霊や妖怪かもしれないぞ。たぶらかされて、こっちがとんだ目に遭うかもしれない」 「まあ、六方山の幽霊は真偽のほどはわからない噂ですけどね。でも遭難死した登山者が幽霊になって出るとしたら、あちこちの山がそれこそ幽霊だらけになりますよ」 「たしかにね。中高年のにわか登山者が増えて、近頃はこんな所でと思うような場所で簡単に遭難してるものね」 「来るときに下の駐車場の掲示板で見たんですけど、行方不明者のポスターが貼り出されていました」 「へえ、気がつかなかった。どんな人?」 「60歳代の男性でした」 「このあたりの山でどうして行方不明になっちゃうんだろう。行先を家族に言って出てこないのかな」 「簡単な日帰りハイクならまず登山計画書なんか作らないだろうし、踏み跡にでも迷い込んで人の入らない沢にでも落ちちゃったら、なかなか発見されないですからね」 「初老の男の幽霊なんかに出られたら、ぞっとしないね」 「いや、それこそぞっとしますよ」 2時間ばかり他愛のない話に興じて、ウィスキーもかなり減ってきた。腹がいっぱいになり、眠くもなってきた。食器や食べ残しのつまみを簡単に片付けて、二人は気持よく横になった。 戸が開く音で目が覚めた。 「あっ、人がいる」と声がした。小屋の外でもがやがやと話し声がする。 小倉は身を起こした。 「すみません、ちょっと休ませてもらっていいですか」と戸口の男が小倉に声をかける。 「どうぞ」 どかどかと10人ばかりが入ってきた。みんな軽装の老人ばかりだった。なかに一人、頭にタオルを巻き、ぐったりと両脇を支えられている男がいる。男は床に坐らされると力なく板壁に凭れた。一団はみんなおろおろして落ち着かない。 「どうしたんですか」と小倉は声をかけてみた。時計を見ると、3時を過ぎている。 「ええ、そこの下り道でこの人が転んじゃって、額を打って怪我をしてしまいました」と最初に入ってきた男が答える。 「怪我の程度はひどいんですか?」 「かなり血が出て、ショックで貧血を起こして歩けないんです」 「すこし休めば気分も落ち着くでしょう。でも、応急手当はした方がいいですね。薬や包帯、ありますか?」 「……こんなことになるとは思わないから、誰も持っていないんです」 「じゃあ私のを使って下さい」 小倉はザックから救急用の薬品キッドを取り出す。 「足りなければ僕も持ってますよ」と寺島も言う。 しかし老人たちの誰も、どうしていいやらわからずおろおろするばかりだ。見ていられなくなって、小倉は怪我人の頭部のタオルを外させた。運悪く岩角にでもぶつけたのか、左前頭部がぱっくり割れている。傷はさほど大きくはないが、タオルを取ったらまた血が流れ出してきた。 血に染まったタオルを傷口に当てさせておいて、ガーゼを幾重かに折って消毒液を沁み込ませ、それを傷口に当てて包帯を巻いた。頭部だから思った以上に包帯が要り、寺島のも使わねばならなかった。 老人たちは口々に礼を言う。 「リーダーはどなたですか」 「いちおう私、ということになってますが」と最初に小屋に入ってきた老人が頼りなさそうに言う。 「これからどうされますか」 「救急車を呼びたいんですが」 「救急車はここまでは来ませんよ」と寺島が呆れた顔をする。 「いや、下の駐車場まで来てもらえないかと。頭を打っているから、念のために精密検査を受けた方がいいと思うんです」 「気持が悪いとか吐き気がするとかしますか」と怪我人に訊いてみる。 「そんな気もするし……めまいがします」 「めまいはたぶん、ショックで貧血を起こしているからでしょう。傷はたいしたことはないから、気持をしっかりもってください。とにかく早く病院に行ってきちんと治療をしてもらわないといけないですね」 「救急車に来てもらいたいんですが、携帯電話が通じなくて」 「ここは携帯電話は通じません。山頂か下の駐車場なら通じると思いますが」 メンバーの誰かが一足早く下山して、駐車場の事務所に事故を報告し、救急車の手配をするしかない。そうアドバイスすると、「じゃあ、私が行きましょう」と中の一人がいう。 「いや、もう一人誰か一緒に下山された方がいいですよ」 メンバーの誰もが仲間の怪我に動揺している。沢沿いの道を一人で慌てて下山して、転倒してまた怪我をする、などということもありえないわけではない。大人数のパーティーだから、最低二人は一緒に降りた方が安心できる。 小倉たちのアドバイスどおりに二人が一足早く下山し、残りのメンバーはさらに30分ほど休んで怪我人の動揺が治まるのを待って出発していった。 「やれやれ、とんだ騒ぎだったね」 「あの人たち、5時半までに駐車場に降りられるかな」 「無理かもしれないな。でも先遣隊が降りていれば、事務所でなんとか対応してくれるだろう」 「しかし危うい一団ですねえ」と寺島は苦笑する。「人数だけはごちゃごちゃいるけど、パーティーの態をなしていませんね」 「ほんとうにね。リーダーがもうすこししっかりしていればともかく、名ばかりリーダーだかから、何か不測の事態が起きるとまったく対処できない。一人がこければ、最悪、みんながこけてしまう」 「あれだけの人数のパーティーで、救急キッド一つ持っていないんですからねえ」 「そもそも登山で事故が起きるなんて思ってもいないんだよ。だから救急キッドはおろか、ランプや雨具も持っていないんじゃないかな」 「あの小さなザックじゃね。われわれがいなかったら、どうしたんだろう」 「われわれも避難小屋のお邪魔虫じゃなくて、ときには人の役に立つこともあるってことを管理事務所の人にわかってもらえたいい機会だったのかもしれないよ」 「コーヒーでも沸かしましょうか」と寺島がいう。 「いいね」 老人たちが持ち込んできたざわざわした空気がまだ残っていて、なんとなく落ち着かなかった。寺島がレギュラーコーヒーを淹れてくれて、小屋の中にいい香りが漂い、ようやくあるべき雰囲気が戻ってきた。 「浅間峠あたりまで行ってちょっと本を読んでくる」 コーヒーを飲み終わると、寺島にそう言い置いて、小倉はゴム草履をつっかけて文庫本を持ち、小屋を出た。寺島が小屋に到着してから、ずっと一緒に時間を過ごしている。寺島だって独りの時間をすごすためにこの小屋にやってきたのだし、小倉も同じである。気心の知れた相手だとはいえ、パーティーを組んで一緒にやってきた仲間ではない。そろそろ間を開けて、互いに独りの時間を味わえるようにした方がいい。そうしてやれば、寺島だってほっとするだろう。 浅間峠は人気がなく、静まりかえっていた。もう5時近い。そろそろ駐車場が閉門する時刻だから、下山する登山者はみんな下山してしまっている。山が山らしい姿を取り戻し、小倉が最も落ち着ける時間がようやくまたやってきた。 ベンチに腰掛けてしばらくぼんやりしていた。西の空に落ちかけた陽射しに霞んで、富士山はまったく見えない。すこし風が出てきて、梢のさやぐ音が耳に心地いい。昼間から夜へと移っていくこの不安定な時間の中でじっとしていると、自分が自分ですらなくなって、自然の中に融解していくようなリラックスした気持になる。家族も仕事も、人生も、なにもかもが瑣末なことのように思えてくる。自分が人生の幕を閉じるとき、もしこんな空気に包まれていたら何も恐ろしいことはない、などという突飛な考えが胸に浮かんだ。 文庫本を開いてしばらく行を追った。 1時間ほど本を読んでいたら、まだ空は明るいのにさすがに森の中に夕闇が張り出してきて、文庫本の小さな文字が読みずらくなってきた。本を閉じると、小倉はベンチに仰向けになって、暮れはじめた空を見上げた。そろそろ宵の明星が見える頃だったが、空のどこにもまだ明るい光は見えない。 足音が聞こえたような気がして小倉は身を起こした。山頂方向からの登山道を誰かが降りてくる。こんな時刻にいったい誰だろうか。マニアックな登山者が避難小屋を今夜の宿泊場所に六方山方面から遠路はるばる縦走してきたのだろうか。そんなことを思いながら目を凝らしていたら、林の向こうから空身同然の登山者が姿をあらわした。初老の女性だった。なんだか様子がおかしい。 「こんにちは」と小倉の方から声をかけた。 「ああっ」と女は驚いたように一瞬足を止め、すぐに駈け寄ってきた。 「こんな時間にどうしました。道に迷ったんですか?」 「はい、下山口を間違ってしまったらしくて、ちょっと道に迷ってしまって無理をしたのがいけなかったんです。なんとか道を見つけて頂上に戻ることができたんですけど、主人が疲れ切って、足がつって動けないんです」と早口に言う。びっしょり汗をかいている。「いつまで待っても動けるようにならないので、私ひとりで下山して登山口で救助を要請しようと思いまして」 「もうこの時刻には駐車場の事務所には誰もいませんよ」 「ああ」と女は泣きそうな顔をした。「あなたは……」 「すぐそこの避難小屋に泊まっている者です」 「あの、すみませんが懐中電灯を貸していただけないでしょうか」 「それよりも、ご主人を迎えに行きましょう。ちょっとここで待っていてください。支度をしてすぐに戻ってきますから」 避難小屋まで小走りに戻ると、寺島はガスコンロを取り出して夕飯の支度にとりかかるところだった。 「寺島さん、また事件勃発だ」 簡単に事の顛末を話して、寺島にも山頂まで一緒に行ってもらうことにした。山頂にいる登山者がどんな状態かわからない。一人よりも二人のほうが心強かった。 「やれやれ、今日は千客万来ですね」 登山靴に履き変え、女性と3人で山頂に急いだ。林に囲まれた山頂の広場はもう真っ暗だった。女性の連れ合いは七十近い老人で、ベンチの脇に広げた小さなシートに蹲っていた。 「心細かったでしょう。もう安心していいですよ。歩けますか?」 「はい、なんとか……」 下山の途中でまた足がつってはいけないので、寺島が救急用のマッサージを施し、暗い道をゆっくりゆっくり、どうにか避難小屋まで連れてきた。 「こんなに立派な小屋があったんですか」 「はい、ただし無人小屋です。今日はたまたまわれわれが泊まっていたからよかったですが」 「ほんとうに助かりました。一時は遭難するかと思いました」 話を聞いてみると、夫婦は反対方向の六方山方面に下ってしまい、しかも途中で枝道に迷い込んでしまったらしい。その道を歩く登山者は少なく、途中道の分かりにくいところもある。 「どうしますか」と、ひと落ち着きしたところで訊いてみた。「この時刻ではもう駐車場まで降りても門が閉まっていて出られませんよ。今日はここに泊まるほかはないと思うんですが」 二人はしばらく小声で相談していてから、それではそういうことにさせてくださいと言う。 「食糧はわれわれに少し持ち合わせがあるから、なんとかなります」 さいわい寒い時期ではない。持っている衣類をあるだけ着込んで、なんとか一晩しのいでもらうほかはない。 そう話が決まると、妻が携帯電話を取り出した。家に連絡をとろうとしているらしいが、電話は通じない。 「ここは圏外で携帯は通じません。下の駐車場なら通じるんですが」 小倉がそういうと、それでは駐車場まで降りたいという。 「家の者には日帰りで山に行くと言って出てきています。今日中に帰らない、連絡もないとなると、遭難したんじゃないかと大騒ぎになると思うんです」 言われてみればそういう可能性はたしかにある。夜の8時9時になっても連絡ひとつなければ、家族が警察に遭難届を出して大騒ぎになる、ということも充分考えられる。 「駐車場まで降りて、家に連絡して、車の中で一晩過ごします。それでお世話になりついでに懐中電灯を貸していただけないでしょうか」 だがこの夫婦だけで夜の山道を歩かせるのはどうにも心配である。結局小倉と寺島が観瀑台の東屋のある園地までついていくことにした。 「やれやれ、今日は遭難救助隊みたいにして一日が終っちゃいましたね」 夜の山道を避難小屋に戻りながら寺島が言った。 「ほんとうだ。避難小屋を使わせてもらっているんだから、たまには人助けもいいけど、一日に2件も続くとね。かりそめの隠遁生活がめちゃくちゃになっちゃった。なんだか疲れたね」 気分直しに一杯やって、遅い夕食を摂ったらもう9時半だった。 「今夜もいい天気だね。寺島さん、どうする? 僕は留守番しているから、上の岩まで行ってきたら。素晴らしい星空が見えるぜ。ムササビも歓迎して出てくるかもしれないぜ」 「僕はなんだか疲れちゃったから、小屋でのんびりCDでも聴いてるよ。君一人で行ってきたらいい。ただし、ブッポウソウが鳴いていたら呼んでほしいんだけど」 「じゃ、夜の森をちょっとさまよってきますか」 寺島は身支度を整えると一人で出掛けていった。これでいい、と小倉は考える。時間をつくって久しぶりに避難小屋に泊まりにきた寺島に、夜の山を一人で楽しむ時間を与えてやりたかった。男の隠れ家の、一人の夜の時間を束の間楽しむといい。せいぜいリフレッシュして、明日はまた俗世間に戻って、奮闘しなければならない。 そうだ、明日は朝飯を食べたらいちばんに下山しよう、と小倉は考えた。そうすれば寺島は、ハイカーが上がって来る昼近くまで、もうすこし一人の避難小屋暮らしを楽しむことができるだろう。早めに家に帰って、妻の悩み事にもしっかり向き合ってやらねばならない。 |
| (2008年12月17日) |
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