【中篇ミステリー】


声の訪問者 第5章




 さらに一週間ほどはなにごともなくすぎて、博子の心の雲もほとんど晴れかけていた日曜日の朝だった。いつものように休日の朝寝を楽しんで、9時をすぎたのでそろそろ起きようかと布団の中でなおもぐずぐずしていたら、博子の携帯電話が鳴った。

「なんだよ、朝っぱらから。もうすこし静かに寝かせてくれよ」

 雄一の眠そうな声を背中に聞いて、博子は布団を抜け出した。携帯電話に手を伸ばすと、着信音が消えた。日曜日の朝に誰からだろうとディスプレーを見ると、忘れもしない、あの無言電話野郎の番号だった。休日の朝のけだるい心地よさはたちまち消し飛んだ。

「あいつよ! あいつからまた電話がかかってきた!」

 信じられない思いで博子は叫んだ。

 雄一も布団から飛び起きた。「嘘だろう!」

「嘘じゃないわよ、ほら」

 ディスプレーを覗きこんだ雄一が唸った。これまでのいやな思いが一気に胸の底から吹き上がってきて、博子は頭の中が真っ白になった。おまえたち、休日の朝寝を楽しんでる場合じゃないんだぞ、と言わぬばかりのタイミングだった。博子たちが休日にはのんびり朝寝をすることまで、あいつには手に取るようにわかっているのだろうか。

「ちくしょう! あいつ、どこから電話してるんだろう」

「いったい私が何をしたっていうの」博子は涙声になっていた。「お願いだからもうやめてよ!」

 ディスプレーを見つめながら、雄一がつぶやいた。「それにしても、どうして博子の携帯の番号があいつにわかったんだろう」

 新しい番号を無言電話野郎が知るなどということがあるはずがなかった。だが現に、こうして電話がかかってきた。まるでお前たちが何をしても無駄だぞと嘲笑うように。博子は何を考えることも、何をすることもできなくなっていた。

 気の重い休日になってしまった。ソファーに崩折れてうなだれてばかりいる博子に代わって、雄一が食事を作った。博子はまったく食欲がわかなかった。今日は二人で映画を観て、買物をする予定だったが、とてもそんな気にならない。家にじっとしていることにした。

 家にいても何もやる気にならない。雄一はパソコンの前に坐り込み、博子はのろのろと洗濯と掃除をした。

 掃除を終えて博子がソファーに坐り込むと、雄一もパソコンの前から立ってきた。

「今インターネットでストーカーの心理や行動を調べていたんだけど、ストーカーがエスカレートすると、なんとか相手と接触したいと尾行したり、家に来たりするらしいんだけど、あいつは影さえ見せない。そのくせゴミを送りつけてくるなんて相手に嫌われるようなことをして、どうもストーカーじゃないかもしれないなんて思えてきたんだけど」

「じゃ、何が目的なの。なんでここまでしつこく私たちにつきまとうの」

「それはわからない。でも、これは博子になんとか自分の方を向いてほしいというより、まさにいやがらせとしか思えない行為だ」

「……あいつ、次は何をしてくるのかしら」

「わからないけど、おい、博子、元気を出せ。負けるな。あいつもまだおそるおそる電話をかけてきただけじゃないか」

 そんな話をしていたら、また博子の携帯電話が鳴った。雄一が電話をとった。

「あいつだ!」

 しかし通話ボタンを押した途端に電話は切れた。

 雄一は携帯電話を握ったまま、足早に玄関に行ってスニーカーを履いた。

「どこへ行くの?」

「ちょっと外を見てくる。あいつ、この近くから電話をしているに違いない。怪しいやつがうろうろしてないかどうか、確かめてくる」

「ねえ、気をつけてよ」

 雄一は足早に廊下の角を曲がっていった。博子はドアに鍵をかけ、居間のカーテンの隙間から外を見ていた。そこから見えるのは紅葉山公園の景色で、道路に出ていった雄一の姿が見えないのはわかっていたが、そうしないではいられなかった。

 雄一はいつまで経っても戻ってこない。壁の時計を見上げながら、何かあったのだろうかと博子はだんだん心配になってくる。あいつと出会って、殴りあいの喧嘩になっているのではないだろうか。刃物で刺されたりしていないだろうか。外に出るのは怖いけど、見にいった方がいいかもしれない……。

 そんな心配をしながら腰の落ち着かない思いで部屋の中をうろうろしてたら、20分ほどで雄一は戻ってきた。

「だめだ、いない。近所をひととおり見てまわったんだけど、あいつらしいやつはいなかった」

 息せき切って歩きまわってきたらしく、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出してひと息に飲んでから、

「それでよ、いま家に戻ってくるときになんで博子の携帯の新しい番号があいつにわかったんだろうって考えてたんだけど」

「なんで? なんであいつにわかったの?」

「博子、新しい番号、誰と誰に教えてる?」

「あなたと両方の実家、それに恵美と雅子だけだけど」

「勤め先には?」

「携帯の番号は言っていない」

「他には?」

「あとは誰にも教えていないはずだけど……」

「ということは、あいつが誰かから新しい電話番号を聞くってことはありえないわけだよ」

「……そう思うけど」

「となるとあいつ、うちの郵便物を盗んでるんじゃないかな」

 ドコモの料金請求書を盗めば博子の新しい電話番号を知ることができる、と雄一はいう。

「今月のドコモの請求書、来ているか?」

 博子は請求書類をしまっておく整理戸棚の小抽斗を調べてみた。いつももうこの日あたりには来ているはずのドコモの請求書は見当たらなかった。

「あなたの言うとおりよ、そうに違いないわ」

「な、それ以外考えられないだろ」

 ということは、あの無言電話野郎は再々このマンションに入ってきているということである。

「ねえ、どうしよう、あなたのいないときにもしあいつがここまで上がってきてチャイムを鳴らしたりしたら」

 博子は鳥肌が立ってきた。

「もしそんなことになったら、怯えてばかりいないで、まず管理人室に電話しろ。管理人がいなければ110番通報だ。それから洗面所の窓からあいつの顔をしっかり見ておけよ」

 あの無言電話野郎がそこまで切羽詰った行動に出るのも心配だが、それ以上に困るのは、やりたい放題に郵便物を盗まれたらこちらの情報がみんなあいつに知られてしまうことだ、と雄一はいう。

「こいつは本気でなんとかしないとまずいな」

「監視カメラにあいつが写ってるんじゃないかしら」

 ドコモの請求書は毎月決まった日にくるわけではない。だから請求書を手に入れようと思ったら、無言電話野郎は毎日のようにポストを覗きにきているはずだ。管理人のいる時間帯を避けたにしても、監視カメラはあいつの姿を捕えているはずだ。

「そうだよな。どうしてそこに気がつかなかったんだろう」と言いながら雄一が立ち上がりかける。「よし、今すぐ監視カメラの映像を見せてもらおう」

「だめよ、今日は管理人さん、お休みだわ」

「そうか、今日は日曜日だったな」と雄一は腕組みしていたが、「博子、管理人の家、知ってるか」

 近くに住んでいるらしいけど、博子ははっきり住所を知らなかった。

「でも、緊急連絡用に家の電話番号を教えてもらっている」

「じゃ、もし家にいたら、悪いけどちょっと来てもらおうか」

 管理人が出てくる明朝まで待つなどという悠長な気持に雄一も博子もなれなくなっていた。

 電話をすると、うまい具合に和久井は家にいた。事情を話すと気持よくマンションに出てきてくれた。

「お休みのところをどうも申し訳ありません」

「いやいや、それはいいんですが、そうですか、また悪さをしてきましたか」

「ええ、今日は朝からもう2回も無言電話をかけてきています。うちのポストからドコモの請求書を盗まないかぎり、新しい電話番号はわかるはずがないんです」

「なるほど。私もあれ以来、人の出入りは神経を使ってチェックしているんですが、おかしな人間は目につかなかったですね。とにかく監視カメラの映像を見てみましょう」

 二人は管理人室に招じ入れられ、モニターの前に坐った。和久井がマニュアルを見ながらコントローラーのスイッチを入れる。彼も監視カメラの映像を再生するのは初めてなのだという。

「このシステム、5秒間隔で過去72時間分の録画がされていますが、初めから見ていきますか」

「はい、お願いします」

 エントランスとそのむこうのエレベーターホールの光景がモニターに映し出された。画質があまりよくない。普段肉眼で見ているよりも、モニターの中の光景はすこし暗かった。

 マニュアルをめくっていた和久井が、「検索機能っていうのがありますね」という。「画面の中に動きがあるとそこから通常のスピードになるようです。それ、使ってみましょうか」

 そうしないと、高速再生をしても3日分の映像をすべて見るのにどのくらいの時間がかかるかわからなかった。

 和久井がコントローラーの操作をしていると、博子の携帯電話がまた鳴った。受信ボタンを押すと、電話は切れた。ディスプレイを見ると、あの番号だった。

「管理人さん、あいつですよ」と雄一は携帯電話のディスプレイを和久井に見せる。「これがうちに生ゴミを送ってきたあの無言電話野郎です。今日これでもう3回目です」

「ほう」と、和久井はディスプレイを覗き込んで、「こんなことを一日に何回もされたんじゃ、気色が悪くて落ち着きませんな」

「主人のいないときにうちに押しかけてくるんじゃないかと思うと、廊下もおちおち歩けないんです」と博子が訴える。

「こいつ、絶対にマンションの中に入ってきてうろついているはずなんです。だから何か事件が起きる前に、どんなやつか早く確かめないと」

「そうですね、また何をしでかすかわからない」

「このマンションの信用問題にもなりかねませんよ」

「ほんとだ。うちのマンションで警察沙汰になるようなことなんか絶対に起きてほしくない」

 和久井も真剣になってきた。

 エレベーターやエントランスで普段あまり人に出会うことのないこのマンションも、監視カメラで時間を追って見ていると意外に人の出入りがあることがわかる。3LDから1Kまで、部屋のパターンも数種類あるから、子供のいる世帯から独身者まで住人もさまざまで、やはり朝と夕方の通勤通学時間帯は人の出入りが頻繁にあり、画像の早送りが止まってさまざまな人物がディスプレイに映しだされる。そうした頻繁に人の出入りがある時間帯にあの無言電話野郎がマンションに入ってくることはまずないと思うが、フロアが違えば誰が住人かさえはっきりわからないのが実情だから、管理人に見咎められないかぎり、外来者がそしらぬ顔で入ってきても住人は誰も不審に思わないということもありうる。雄一と博子は集合ポストの前で人が立ち止まるシーンを特に注意して見た。

 もちろん和久井は、マンションのすべての住人を把握していて、そうしたシーンが映し出されるたびに、これは203号室の押本さん、これは412号室の熊沢さん、などと説明してくれる。住人たちは、午後から夜にかけて、外から帰ってくるときに集合ポストを覗いて、自分の家のポストに何か入っていれば取り出していく。昼間の外来者も意外に多いが、ほとんど集合ポストの前は素通りしていく。集合ポストの前で立ち止まる外来者は、郵便配達とチラシやミニコミ誌のポスティングをする人だけだった。30分ほどかけて1日目の映像を見たかぎり、管理人の知らない人間で、集合ポストの前で不審な行動をする者はいなかった。

 2日目、つまり一昨日の映像に入って、頻繁にエントランスを人が通りすぎる朝の通勤通学時間帯が過ぎた10時16分のタイムスタンプのある映像に、エレベーターホールの方から出てきた若い男が集合ポストの前で立ち止まるシーンが映し出された。男はどことなく落ち着きがなく、管理人室やエントランスの外を見てから、ポストを覗く。一見してうさんくさい人物だが、何もせずにそのままエントランスを出ていった。

「あの人、うちのポストを覗いていたんじゃないかしら」と博子が言う。

「うん、そんなふうにも見えた」

「あれは207号室の小宮さん。自分の家のポストを確認しただけじゃないですか」と和久井はいう。

「マンションの住人ならそうかもしれませんね。でも、念のためにもう一度確認したいな。ちょっと戻してもらえますか」

 和久井はその場面をもう一度再生する。207号室の小宮のポストと310号室の三上家のポストはすぐ近くにあって、監視カメラの離れた映像では彼が310号室のポストを覗いたのかどうかははっきりわからない。それに、なんの気なしに近くのポストに目をやることは誰にでもある。そんな些細な動作だけで彼を疑うわけにはいかない。

 小宮がエントランスを出ていくと、再び映像の早送りがはじまる。だが雄一にはなんとなく引っかかるものがあった。

「いまの小宮さんていう人、どこかで見たような気がするんだけどなあ」

「どこかで見たようなって、どこで?」

「わからない。でもなんとなく見覚えがある気がする」

「そらそうですよ」と和久井が言う。「同じマンションの住人ですから、2階と3階でフロアは違うけど、エレベーターやこのあたりで顔を合わすことはありますよ。三上さん、今までに小宮さんの顔を何回も見ているんですよ」

 そう言われればそうかもしれない。しかし雄一の胸のひっかかりは消えない。

「ウィークデイの10時過ぎに出掛けていくなんて、何をしている人なんですかね」

「会社員だったと思います」

「会社員が10時半に出勤ですか」

「交代勤務かもしれない。いや、たしか勤めを変えたというようなことを聞いた覚えがあるな。もしかするとフリーターかもしれませんね」

「独身、ですか?」

「そうだと思います。207号室は1Kの間取りですから」

「独身で、マンションの独り暮らしで、気楽な重役出勤か。いいご身分だな」

「お父さんがお医者さんだそうです」

「だから羽振りがいいんだ」

 小宮が監視カメラの映像に再び登場したのは夕方の5時18分だった。このときも、エントランスに入ってくると集合ポストの前で立ち止まり、あたりをきょろきょろ窺うような仕種をした。そしてポストから配達物を取り出すとエレベーターホールの先へ消えていった。2階の住人の小宮はどうやらエレベーターは利用せず、階段を使っているようだ。

 しかし1時間としない5時57分に小宮は再び映像に登場する。エレベーターホールの先から出てくると、そのままエントランスを出ていったが、6時3分に外から戻ってきて、まっすぐ集合ポストの前に行き、またあたりを窺うような仕種をしてからポストの配達物を取り出して、それをひとつずつ確かめてから1通だけ抜き取り、他はポストに戻して足早にエレベーターホールの方に戻っていく。

「あれ、変だな」と雄一がつぶやく。「すいません、もう一度今の映像出してもらえますか」

 5時18分からの映像がもう一度再生された。

「そこで止めてください」

 6時3分のところで映像が止められた。

「ほら、この人、うちのポストから郵便物を取り出している」

「どうですかねえ、この映像からははっきりそうとは断定できませんよ」と和久井は慎重だ。

「映像を拡大できないんですか」

 和久井はまたマニュアルをめくる。5倍の拡大機能があることがわかり、さっそくコントローラーで画像を拡大してみた。だがカメラの撮影範囲が広いことにくわえて、207号室の小宮のポストと310号室の三上家のポストがすぐ近くにあるので、拡大画像を見ても雄一が言うとおりかどうかは確認できない。

「でも間違いないですよ」と雄一は主張を変えない。「この人、朝10時の映像を見たときからちょっと変だと思っていたんです。集合ポストの前に来るたびに、辺りの様子を窺うようにきょろきょろするでしょ。ほとんどの人はマンションを出るときはエントランスをすっと通り抜けていきますよ。朝は忙しいし、仕事や学校という目的があるから、一直線に通り抜けていくもんでしょ。ぼくらだってこんなふうにきょろきょろしない。なんであんなふうにまわりの様子を窺うようなことをするんです?」

「小宮さんの癖かもしれませんよ」と和久井はいう。

「そうですかね。僕は管理人さんが自分の方を見ているかどうかを確認してるんだと思うんです」

「もしそうだとすると?」

「うちのポストから郵便物を抜き取りたいという後ろ暗いことを考えているからですよ。疚しいことを考えていなければ、人目なんか気にしないで自分のポストから自分の郵便物を取り出していきますよ」

「いや、あの人もともとすこし落ち着きに欠ける人ですから」

「5時18分のところに映像を戻してもらえますか……ほら、このとき外から帰ってきて、彼は自分のポストを覗いて郵便物を取り出しているでしょう。ところが5時57分にまたエントランスに出てきて、そのまま外に出ていくが、6分後に戻ってきて、ポストの中から郵便を取り出している」

「ああ、そうよ。自分のうちのポストにはもう郵便はないはずよね」と博子もいう。

「何か取り残したものに気づいて部屋を出てきたのなら、そこでポストを覗いて中にまだ何か残っていないかどうか確認するはずなのに、5時57分にエントランスに出てきたときには、ポストの前を素通りして外に出て行った。これは管理人室にまだ管理人さんがいたからですよ」

「ええ、私はきちんと6時までは仕事をしていますからね」

「ところが6分後に戻ってきて、今度は集合ポストの前に直行して、ポストから郵便物を取り出す。たぶん6時になって管理人室の窓口にカーテンがかかったので、安心してうちのポストから郵便物を抜き取りにかかったんです」

「そうよ、そうに違いないわ」

 和久井は腕を組んで唸った。雄一のいうことを認めたくないが、認めるほかはないという表情だ。

「この時点で自分の家のポストから郵便物を取り出すなんてことはありえないですよ。6時3分のところに映像を送ってもらえますか……彼がどのポストから郵便物をとり出したかまでははっきり特定できないけど、ほら、こんなに幾つもの郵便物を手にして、しかもひとつひとつ確認して、その中のひとつだけを取り出してあとはポストに戻している。彼が抜き取ったのが、ドコモの請求書だったんですよ」

「……たぶん、三上さんのおっしゃるとおりなんでしょうな」

「それで博子の携帯電話の新しい番号がわかった。だから彼は今朝から再び無言電話をかけはじめてきた」

 うーん、と和久井はまた唸った。

「あいつね、あいつが犯人なのね」と博子が歯軋りするようにつぶやく。

「たぶん間違いない」

「……しかし、どうしてまた小宮さんは三上さんの奥さんにそんなことをするんだろう」

「ぼくにもそこがよくわからないんです。博子、こいつのこと、何か憶えていないか」

 そう言われても、博子には小宮とどこかで出会っている記憶などまったくない。小宮がこのマンションの住人であることさえ、いま初めて知ったのである。

「とすると、こいつの目的は何なのだろう」

「それがわからないのが気味が悪い」

「1階下の住人があの無言電話野郎だったとはなあ、思いもしなかった。ストーカーなら、これだけしつこくつきまとっているんだから、3階に上がってきてうちの前をうろつくなんてことをしても不思議じゃないのに、そういうことを一切しないで、宅配便を装ってごみを送りつけたりしてくる。郵便物を抜きとって新しい電話番号まで知ろうとする。どう考えても、これはストーカーじゃなくて、悪質な嫌がらせですよ」

「ええ、そうなんでしょうな」

「でも、あいつに恨みを買うようなこと、まったく憶えがないんです、なあ、博子」

 雄一も博子も、いくら考えても小宮との繋がりが思いつかない。

「で、これからどうします?」

「この映像、証拠として残しておいていただきたいんですけど、そういうこと、できます?」

 和久井はまたしばらくマニュアルをめくっていてから、そういうことはどこにも書いてないという。雄一もマニュアルを見てみた。

「外付けのハードユニットをとりつければ記録が取れるみたいですね」

「でも、そういうものはついてませんね」

「ええ、オプションらしい。じゃ、監視カメラを作動させれば、つぎつぎに上書きされていってしまう」

「ということだと思います」

「それじゃしばらく、監視カメラを止めておいていただけますか。とにかく今日これからもう一度警察に相談にいってきます」

 そうしようと和久井は言ってくれた。彼にとっても、マンションの住人がこんな犯罪まがいのことをする映像をまざまざと見て、少なからぬショックだったようだ。

「それから当分のあいだ、うちの郵便物は管理人さんに預かっていただけませんか」

「そうですね、そうしないといけないですね。三上さんのポストに何か配達されたら、私が預かって、夕方まとめて3階のおたくのポストまで持っていきます」

「あいつ、もしかするとうちのポストだけじゃなく、ほかのうちのポストのものも盗んでいるかもしれませんよ」

「少なくとも私がここにいるあいだはそういうことはないはずなんですが……とにかく今まで以上に注意して見ていないといけませんね」

 和久井は溜息をついた。

 気がつくともう12時をすぎていた。二人は和久井に礼を言って管理人室を出た。

 エレベーターホールの前までいくと、また博子の携帯電話が鳴った。あの番号からだった。

「これでもう4回目だ。あいつ、いい気になって電話してやがるな。こっちが発信者を特定しているのも知らないで」

「部屋の中から電話してるのかしら」

「そうかもしれない」

 エレベーターを待っていた雄一が階段に向かう。

「ねえ、どこに行くの?」

「あいつの部屋の前まで行ってみよう」

「やめなさいよ、何かあったら危ないわ」

「ちょっと2階の廊下だけでも見てみよう」

 雄一が階段を昇っていくので、博子もあとを追いかけた。ちょうど昼どきで、廊下は静まりかえって人影はない。雄一はずんずん廊下を進んでいく。博子ははらはらしながら階段の昇り口で夫を見守っていた。207号室の前まで行って、雄一は黙って玄関ドアをじろじろ見ている。今にもチャイムを押すのではないかと博子はどきどきしていたが、雄一はそのまま引き返してきた。

「小宮駿作って名前だ。今の電話、家かららしいぞ。部屋に明かりがついていた」

「日曜日の朝から家にこもったまま、ずっとうちに無言電話をかけつづけている……どうして? どうしてなの? 考えれば考えるほど、気味が悪い」

「とにかく警察にもう一度話をして、あいつに職務質問だか尋問だかをしてもらうのがいちばんいいだろう。それをしてもらえば、なんであいつがこんなことやるのかもわかるだろう」

「警察、今度はちゃんと動いてくれるでしょうね」

「動いてくれるだろう。こっちには今度は証拠があるんだから」

 昼食もそこそこに、二人はまた戸部警察に出掛けた。

 生活安全課の、この前とはちがう婦警が対応してくれたが、前回の調書を取り出してきて、経緯はすぐに理解してくれた。加害者の名前をはっきり言ったためだろう、今回は被害届を書かされた。小宮から話を聞く前にまずマンションの監視カメラの映像を確認することになるだろうが、雄一か博子に立ち会ってもらうことになるかもしれないという。

「警察もようやく重い腰を上げてくれそうだな」

 二人はこれまでにない軽い気持で警察署の建物を出たが、帰り道にまた博子の携帯電話が鳴った。例の番号からだった。

「おい、小宮、いい気になって電話していろ。そのうちお前の顔を真っ青にしてやるからな」

 発信者が誰だかわかったら、無言電話がかかってきても博子の不安感もずっと軽くなった。

 和久井には電話で報告をして、そのうち警察が監視カメラの映像の確認に行くのでよろしくと頼んでおいた。

 その午後から夜にかけても、無言電話は1時間から1時間半ほどの間隔で頻繁にかかってきた。あまりにしつこいので、博子は携帯電話のスイッチを切ってしまいたかったが、こちらが何も気づいていないと相手に思わせておいた方がいいと雄一がいうので、我慢した。

「あいつがいい気になって電話をかけてこられるのもあと1日か2日のことだ。それまで辛抱しよう」

 しかし明くる日も、その翌日も、動きらしい動きはなかった。和久井に問い合わせてみると、警察は来ないし、電話連絡もないという。二人の期待を嘲笑うように、無言電話だけがあいかわらず1時間おきほどにしつこくかかってくる。

「どうなっちゃってるんだろうな、警察ってところは」と雄一は不満そうな顔をした。「被害届まで書いて、すぐにでも動いてくれるようなことを言ってたのに、まさか握りつぶすつもりじゃないだろうな」

「私たちの話だけで警察が真面目に動いてくれないのなら、市会議員か県会議員にでも相談してみようかしら」

「そんな知り合いがいるのか?」

「いないけど、会社の社長ならそういう人知ってるかもしれない。社長なら相談に乗ってくれるから、知ってれば紹介してくれると思うんだけど」

 どうにも手がなければそれも考えてみる価値はあるが、人頼みの、実現するかどうか不確かなアイデアである。

「警察が動いてくれないのなら、直接小宮のところに怒鳴り込んでいくのがいちばん手っ取り早いんだけど」

「やめてよ、短気を起こすの。あなたすぐかっとなる性質だから、相手も興奮して暴力騒ぎにでもなったらたいへんなことになる」

「うん、そうなんだよな。それこそまさに警察沙汰だ」

 とにかく警察がああ言ったのだから、もう一日二日待ってみようということになった。

「そういえば博子、今夜はあいつから電話かかってこないぞ」雄一がふとそうつぶやいた。「俺が帰ってきてから一度もかかってこない」

「そういえばそうね」

 博子は何かのときの証拠のために、無言電話の着信記録をメモしていた。今日は6時すこし前、勤め帰りにバスを待っていたときにかかってきて以来、帰宅してから一度もかかってきていない。新しい電話番号に無言電話がかかってくるようになってから、こんなことは初めてだった。

「めずらしいな」

「でもかかってこない方がいい」

「あいつ、嫌がらせにとうとう疲れたのかな」

「そうならいいんだけど」

「でもよ、もう嫌がらせに飽きましたって勝手にやめて、今までこっちが蒙った迷惑や博子の不安になんにも落とし前つけさせないんじゃ、こっちは治まらないぜ」

「そういう気持はあるけど、もともと関係ない人でしょ。むこうがよけいなことをしなくなれば、それでもういいわ」

「まだ嫌がらせをやめたと決まったわけじゃない。ちょっとひと呼吸おいて、またがんがんかけてくるかもしれない。こっちのダメージを大きくする戦略かもしれないぞ」

 そんな話をして、二人がビデオの映画を観ていたら、11時すぎに博子の携帯電話が鳴った。

「やはりな、あいつがそんなに簡単に諦めるはすはないと思っていたよ」

 雄一が立っていって携帯電話を取る。だが例の発信番号ではなかった。見覚えのない番号だ。あいつがほかの電話を使ってかけてきたのかもしれない。通話ボタンを押しても電話は切れない。雄一が黙ったまま受話口を耳に押し当てていると、

「もしもし、三上さん?」

 横柄な声が自分の名前も名乗らずそう言った。聞き覚えのない男の太い声だ。

「はい、そうですが」

「三上さんですね?」

「はい」

「三上さんに間違いないね」

 男の言葉遣いは乱暴で、そのうえしつこい。

「三上ですが」

「この電話は三上博子さんの持物じゃないですか」

「そうですが、どちらさまですか」

「こちら戸部警察ですが、ご主人?」

「はい、そうですが……」

 雄一は手真似でビデオを止めろと博子に合図した。

「三上雄一さんね」

「そうです」

「私、戸部署の山本といいます。夜分遅くに申し訳ないんですが、じつは今夜、痴漢の犯人を逮捕して、いま取調べをしていたらおたくの名前が出てね、それで電話で確認をさせてもらったんですが」

「はい。……でもこれ、まさかいたずらじゃないでしょうね」

「おたく、ここしばらく無言電話やらなんやらの嫌がらせをされていたでしょう」

「はい、されていました」

「こんな時間に申し訳ないが、できれば署の方に来てもらえないですかね。来てもらえるなら、これからそちらにパトカー差し向けるけど」

「どういうことですか?」

「うん、小宮駿作って男、知ってますか」

「はい。たぶんうちに無言電話をかけてくる犯人だと思います。同じマンションの1階下の住人です」

「うん、お宅からも被害届出てますよね。その小宮駿作が今夜痴漢をして捕まった。小宮は痴漢の常習犯でね、このところ紅葉山公園付近でたびたび起こっていた痴漢事件は全部彼の犯行だと自白したんだけど、そのうちの一件、まだ被害者がわかっていないんだけど、おたくに目撃されて追い掛けられたといこうとがわかったんです。その件について、署の方に来てそのときの話を聞かせてもらえませんか」

 雄一は思わぬことに絶句した。それからようやく、1ヵ月半ほど前の勤め帰りに、紅葉山公園の脇で若い女が痴漢にあったときのことを思い出した。あのとき雄一の目の前で、前を歩いていた男がいきなり若い女に襲いかかったのだった。雄一が声をあげながら二人に駈け寄ると、男はすばやく住宅の路地に逃げた。雄一は女に警察へ行こうと勧めたが、女は動転していたのか、怪我もないし家はすぐ近くだからいいと言って歩み去ってしまった。そしてマンションの前まで来たとき、痴漢の犯人とまたばったり出会い、追いかけたが再び逃げられてしまったのだった。

「もしもし、もしもし」

 黙り込んでしまった雄一に相手が呼びかける。

「はいはい」

「協力してもらえませんかね」

「協力はしますけど、まだよく事情がわからないんです。小宮の痴漢とうちの嫌がらせがどう繋がっているんですか」

「詳しいことは署に来てもらってから話すけど、小宮は同じマンションの住人の三上さんに痴漢現場を目撃されて、いつ自分が犯人だと通報されるか、恐れていたんですな。それでいろいろ嫌がらせを仕掛けて、三上さんがマンションから出て行くように仕向けた。奥さんを標的にした方が効果があるだろうと考えたようで、奥さんの電話に集中攻撃をしたり、生ゴミを送りつけたりしたようです。おたくが届けたプリペイド式の携帯電話を所持してましてね。まあ、そういうわけで、夜分遅くに恐縮だけど、署の方に来て詳しい話を聞かせてもらえないですかね」

「わかりました。すぐそちらに伺います」

「じゃ、申し訳ないがマンションの前で待っていてもらえますか」

 雄一は電話を切ると、怪訝そうな表情で自分を見ている妻に、「博子、これから戸部警察に行くぞ」と興奮した声で言った。

(完)

(2008年5月13日)

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