【ムックと共に】 第66話


白内障




 ムックの目がやや白っぽいのがすこし前から気になっていた。明るいところで瞳を見ると、気のせいかこころもち白く濁っているような気がする。春から夏にかけては私が白っぽい服を着ることが多いから、服の白さが瞳に映るのかもしれないなどと思っていた。

 それでもやはり、ときどき瞳の白さが気になる。

 そうこうしているうちに、家内が同じことを言い出した。それでようやく、ムックの目に白内障の症状が出てきたのかもしれないと私も考えざるをえなくなった。

 ムックも間もなく9歳になる。犬と人間の年齢の比較のしかたには諸説があり、犬の1年は人間の7年に相当する、あるいは最初の1年は人間の20歳、それ以後1年につき人間の4歳分年をとっていくなどという説があるが、ついこのあいだ一緒に暮らし始めたように思っているムックもとにかくもう初老にさしかかっている。

 身体能力の高い犬だから、公園で仲良しと走りまわっても、まだまだ若い犬より足が早い。障害物を飛び越えるときのフォームもあいかわらず惚れ惚れするほどきれいだ。しかし老化の兆しはいたるところに出ていて、あれほど散歩が大好きだったのに、雨の日には夜の散歩に行こうとしなくなった。山を一緒に歩いていて、私が写真を撮っていて遅れたりすると、もう気が気ではなく、昔は急な斜面もなんのその、息を弾ませて何回も家内と私のあいだを行ったり来たりしたものだったが、今は省エネを覚えて、家内のそばで私が登っていくのを待っている。ドッグフードも2、3年前から高齢犬用に切り替えた。

 我が身に引きつければ、長年つづけてきた山歩きのためのトレーニングで膝の関節を傷めて、もうトレーニングまがいのことはかえって逆効果になる年齢なのを痛感せざるをえなくなった。バランス能力の衰えも顕著で、以前は怖くもなんともなかったちょっとした岩場や痩せ尾根、クサリ場などの通過が怖くなってきた。寒さにも弱くなって、ピッケルを持っていくような冬の高山などとても出掛ける気にならない。私の目にも飛蚊症の症状が出てきて、これは老化現象で薬も治療法もないというから、最近症状の進行を抑えるためのサプリメントを使いはじめた。

 自分の加齢とムックの加齢を重ね合わせると、ムックに生理的な老化現象が出てきてもおかしくないのがよくわかる。

 人間も犬も、白内障は放置すると進行して、やがて視力が失われていく。そんな老犬を何頭も知っている。

 ムックの目の症状がもし白内障で、なんらかの治療方法があるなら、手遅れにならないうちにできることはしておかねばならない。そう思って、とりあえず調べてみた。

 犬の白内障は三つに大きく分けられる。第一が先天性白内障で、出生時に水晶体が濁ったまま生まれてくる。狆(チン)やパグにしばしばみられるそうだ。

 第二が若年性白内障で、これは生後6ヵ月から2歳半頃までにあらわれるという。シベリアン・ハスキーなどに多いという。

 第三が老齢性白内障である。これは老化現象によるもので、ムックの場合はまちがいなくこれだろう。このほか糖尿病などの病気による白内障もあるということだが、ムックの場合はこういった原因はまず考えられない。

 犬の白内障も早期発見、早期治療が大事だという。治療方法には外科手術と内科的治療があり、調べたウェブサイトによっては内科治療には点眼薬だけでなく内服薬の服用もあると書いてあるものもある。今のところムックに物が見えにくい症状は出ていないから、たぶん白内障だとしても初期段階だろう。外科手術を受ける気にはとてもならないが、内科的な処置で進行を送らせることができるなら、早くやったほうがいい。

 家内と意見が一致して、善は急げとその日のうちにかかりつけの動物病院につれていった。

 検査器具を目の前に突きつけられて、ムックはめずらしく怖がってすこし抵抗した。検査結果は、白内障の前段症状の角膜硬化症だという。念のために血液検査もしてもらったが、何も異常はなかった。

 とりあえず早期発見ができて、ついでに健康チェックもしてもらえてよかったが、さて、治療をどうするかだ。

 獣医先生は治療にはあまり乗り気ではなかった。手術はリスクも大きく、効果もはっきりしない場合があるという。私も勧められても手術など受けさせるつもりはない。となると、内科的な治療で目薬の投与ということになるが、これも獣医さんは乗り気ではない。点眼薬で悪い症状がよくなるわけではなく、白内障の進行を遅らせるだけだから、効果が実感できない。おまけに毎日、朝昼晩と寝る前の4回点眼しなければならないという。人間でもなかなか長続きがしないが、犬は目薬などいやがるからよけいにたいへんだ。なかにはしっかり続けている飼主もいるが、まず大半の人が途中でやめてしまうという。わかる気がする。

 そもそも老犬になればあちこちに悪いところが出てくる。飼主は手厚い治療をしてすこしでも長生きをと願うが、犬の身になってみれば苦痛が長引くだけかもしれない。昔の犬は外で飼われていて、年をとれば自然に死んでいった。今の犬と昔の犬と比べたら、昔の犬のほうが幸せだったかもしれないと、獣医さんは獣医さんらしからぬこともいうが、そのとおりだ。

 これも我が身に引きつければよくわかるが、私は癌になっても外科手術は苦痛を減じるためのもの以外は受けないつもりでいる。延命処置も辞退したい。人にはそれぞれ寿命というものがある。医療技術が発達した現代ではかぎりなく不可能かもしれないが、天から授かった寿命にできるだけ忠実に人生の幕引きができればいいと思っている。

 ムックの白内障もまだ白内障ではなく、前段症状だというが、たとえそうでなくても、ムックの身体を傷めつけてまで治そうとは思わない。

 目薬の指し方を指導してくれて、とりあえず目薬を出すからやってみて、続くようならまた薬をとりにいらっしゃいという。獣医さんに目薬をさされてムックはかなりいやがっていた。それを見て、これは我が家では続かないだろうと思った。獣医さんもそう思っている。

 私は内服薬があるかと期待していたのだが、どうもそういうものはないようだった。人間用の白内障の内服薬がないのだから、犬にあるはずがなかった。

 せっかく目薬をもらってきたのだから、翌日さっそく試してみた。案の定、ムックはいやがって逃げ出し、目薬はうまくムックの目に入らない。歯磨きは、私が指先にガーゼを巻いて、歯を食いしばって抵抗するムックの口に指を入れて上下左右内側外側をしっかり磨くが、目薬はまたく受けつけない。これを毎日朝昼晩、寝る前にやるなど、とても無理だった。ムックのストレスもそうとう昂じるだろう。こうして白内障の点眼薬は獣医さんが見通したとおり、一日で挫折した。

 目薬がだめならサプリメントはどうだろうとウェブサイトを調べてみると、あるわあるわ、犬用のサプリメントのサイトが迷うくらいたくさんある。しかしみんな業者のもので、いかに効果があるかが書かれているが、半分宣伝のつもりで読んだほうがよさそうだ。

 人間用のサプリメントだって、効果が判然としないもののほうが多いのではないか。前述したように私は飛蚊症の進行を抑えるためのサプリメントを用いているが、これだっていろいろの情報を調べて、中立的な研究者がまとめたサプリメント・ガイドを読んだうえで使用を開始したのだが、ほんとうに効くかどうか確信がもてない。ましてや効くかどうかわからないムックのサプリメントをこれから何年にもわたって買い続ける気にはならなかった。

 と、いろいろ試行錯誤の末に、当面はなるがままにまかせることにした。この先ムックの白内障がどのように進行して、どの時点でどんな支障が出てくるかわからない。見えないことが見えてくるまで、あれこれ無用に心を悩ませないというのが私の主義だ。

 ただ、白内障のことを調べていて、強い紫外線が目によくないという指摘が気になっている。目だけでなく、強い紫外線は人間にも犬にも有害だが、白内障の目にはよけい害があるだろう。山の紫外線は強い。これからは強烈な紫外線の射すような山はできるだけ避けたほうがいいかもしれない。

 ところで我が家は昨年、4WDのワゴン車からFFのミニバンに車を買い替えた。これで雪道を走るのがすっかり怖くなって、もちろんタイヤチェーンは持っているのだが、雪山遊びに出掛けなくなった。せっかく買ったスノーシューも宝の持ち腐れ状態になっている。

 まだムックの白内障騒ぎがもちあがる前に、今年はスタッドレスタイヤを買って、スノーシュー遊びにあちこち出掛けようと考えていた。ところがムックの白内障がわかって、昨冬清里にスノーシュー遊びに出掛けたとき、ムックが途中からいっとき片目をつぶったまま歩いていたのをふと思い出した。あのときすでに、ムックの目の異常がすこし出はじめていて、雪の反射が眩しかったのかもしれないとあらためて気がついた。

 ムックはわれわれにひたすら忠実で、われわれが行く所ならどこへでも喜んでついてくる。いまだに山も楽しそうに歩く。しかし彼は我が家の大切な家族の一員で、その家族の体に悪いことをやるわけにはいかない。これからの雪山遊びはほどほどに、ゲレンデのような反射光の強いところは避けて、森の中の霧氷見物程度にしなければならないのかな、などと考えはじめている。

 人間にとってもムックにとっても、年をとればできることとできないこと、やってはいけないことがだんだん判然としてくる。残念ながらこれが現実だ。加齢現象に怯えてまだまだ長いこの先を縮んで暮らしたくはない。限られた時間と限られた条件の中で、自分の現状とやりたいことを目いっぱいどうバランスをとってやりとおしていくかがこれからはいっそう大事になってくる。

 ムックも飼主も、難しい年頃になってきた。

(2006年10月1日)

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