丘の上

 


 

(1)


 空は溶けかかっていた。窓の外いっぱいに広がっている冴えた秋の光の中に、はやくも黄昏の翳がありなしに忍び込んでいた。丘の上に浮いている薄い乳色の雲が、ずっとさっきから身動きもせずに遠くを見つめている正子の視野を、見知らぬ国に向かう船のようにゆっくりと横切っていく。間もなく空は午後のきっぱりした明るさを抜け出し、優しい浅葱色に暮れていくだろう。

 町は夢見心地に静まっていた。横町の路地で自転車遊びをしているにちがいない男の子たちの声が、ときおり聞こえてくるだけである。

 二階の正子の部屋からは、庭をはさんで隣家の屋根の青瓦が真正面に見える。そのまた隣の屋根も見える。思い思いの形を見せた屋根の連なりが明るい陽の下にどこまでも波打っていて、その連なりの途切れたところに小高い丘がある。丘のむこうはもう空である。空は眩しかった。

 丘の上にはひときわ大きな樹が立っていて、正子は机の前に坐ってその樹を見るのが好きだった。傾きかけた陽の光を浴びて、今、丘の上の樹は雄々しい影絵のように際立っている。毎日見ているのに、目のいい正子にも、それが何の木であるか見極めることはできなかった。

 こうして遠い丘の上を見呆けていると、いつしか焦点を失って、大きな樹を見ているのか空の眩しさを見ているのか、自分でもわからなくなってしまう。ひとむれの風が中空を渡っていき、思わぬ近くで百舌が午後の空気を引き裂くように鋭く鳴いた。

 その声に目覚めて正子は我にかえる。見呆けていた空の眩しさが眼に沁みて痛い。百舌はどこだろうと庭の木に目をやっているうちに、正子はふと、自分が今、知らない土地の知らない家にいるような錯覚にまた捕えられた。

 この家に住むことになってから、そういうことが一再ならずあった。幾日経っても正子は新しい家に馴染むことができなかった。

 あの古びた公団住宅の三階の部屋から夥しい家財を運び出したのは、初夏の光が躍るように爆ぜていた日だった。狭い階段をくねるようにして箪笥や鏡台を運び降ろすたびに、コンクリートに照りつける光の白さに正子は眼を細めたものだった。空は熟れきった暑さで、ときおり厚い雲が陽を遮るとほっとした。拭っても拭っても汗で額が濡れ、髪がへばりついて気持悪かった。手伝いに来てくれた新しい父の会社の人だという二人の青年と栄吉叔父は、手ぶらで階段を登っていくたびに腰に吊るしたタオルでぬめぬめと光っている膚をこすっていた。誰もがいち早くやってきた暑さにまいっていた。

 その暑さの中で、手拭を姉様被りにした母だけが、家財を運び去ったあとの白けた部屋の隅々に積もっている埃を涼しげに掃き集めていた。舞い立つ埃に眉をひそめ、黙々と手を動かしている母の俯いた横顔を見て、母さんの心はきっと浮き立っているにちがいないと正子は思った。

 母は自分を見つめている正子の視線に気がつくと、おもねるような微笑みを見せ、

「こうしてもやっぱり埃が立つわね」

 と言った。床や畳いちめんに、濡れた新聞紙を千切ったものが撒いてある。正子が黙っていると、

「こんな狭い部屋によくあれだけの道具が納まっていたこと」

 箒を持つ手を休め、向かい側の棟の行儀よくならんでいる窓の列に目をやった。幾つもの窓が降りそそぐ六月の陽光にめくるめくきらめいていた。四階のバルコニーで、父親が小さな男の子と日曜大工をしていたのを正子は憶えている。

 トラックに荷を積み終わり、管理事務所に行ってきた母のにこやかな顔が忘れられない。まるで湯上りのあとのようなさばさばした顔だった。

「ああ、やっと終ったわね」

 スラックス姿の母は身軽く栄吉叔父の車に乗った。

 数えてみると、あれから4ヶ月以上経っている。この新しい家で一夏をすごしたのかと思うと不思議な気がする。そんなに長い間この家で暮らしていながら、いつまで経っても知らない家にいるような錯覚から抜けられないのはなぜなのだろう。母も弟の俊夫も、もう何年もこの家に住んでいるような馴染みようを見せているのに、自分だけが浮き上がったように新しい家に親しみをもつことができない。この家に引っ越してきてから、すべてのものが正子によそよそしくなってしまった。

「お庭も広いし家も新しいし、母さんは幸せだわ」

 今日と同じように新しい父が出張している日のこと、母がしみじみと充ち足りた口調でそう呟いたことがあった。そのときの母の言葉がひどく罪深く思えて、今思い出しても正子は充ち足りた母の顔に軽い憎しみを覚える。それでは母さんは、お父さんが死んだから幸せになれたと思っているのだろうか。あの古びた公団住宅でお父さんと生活していた毎日は幸せではなかったというのだろうか。ぼんやりとそこまで考えてきて、正子はいきなり頬を打たれたように我にかえり、そんなはずはない、けっしてそんなはずはないと強く自分に言い聞かせた。

 事実、父がまだ生きていた頃、母だって毎日幸せそうだったではないか。重い糖尿病で寝たきりのおじいさんの看病のことや、庭のある一戸建ての家を買う計画のことで父と母がときどき口争いをすることはあったし、その頃の母はどこか所帯やつれがしていたような気もする。しかしけっして不幸ではなかったと思う。誰にも大きな不満などなく、平凡だったが、むしろ今以上に家族4人がしっくりしていた。父は休みの日でも仕事で疲れたといってよく家でごろごろしていたが、ときどき正子と俊夫を釣や映画に連れていってくれた。母だって、大きな麦藁帽子を被ってみんなと一緒に釣に出掛けたことがあった。そういう日の母はいつになく若々しく、父もまた母に優しく、二人の仲のよさに正子は羨みさえ感じたほどだった。父が死ぬまでのそうした日々のどこを探しても、母が不幸せそうだった記憶など正子には思いつかない。

 それでいて、広い庭のある新しい家に引っ越してこれて母さんは幸せだという。そのことが正子にはわからない。わからないだけでなく、母が幸せだなどとしみじみ呟いたり、新しい父の晩酌の相手をしながら睦まじげに語らっているのを見たりすると、理由もなく腹立たしくなる。

 母さんはずいぶん長いこと、こんな狭苦しいアパートを早く抜け出して、隣近所に気兼ねしなくてもいい一戸建の家に住みたいとお父さんを責めていた。やっと今そのとおりになって、母さんはそれで幸せなのだろうか。1年前までお父さんと暮らしていたことなど、もうすっかり忘れてしまっているのだろうか。

 しかし正子には忘れられない。意地でも父のことを忘れてはならないと思う。母の忘れた分だけ、いや、それを償って余りあるほど、父のことを細大もらさずいつまでも憶えていたい。

 実際、正子は今朝見た夢のように父の顔を思い出すことができた。父のことを想っているといつも、記憶があまりにも鮮やかなものだから、1年前にその父が死んでしまったことなどとても信じられなくなってくる。色が浅黒く、額がかすかに剥げあがっていた父。いかにも男らしく、逞しい力瘤をつくることができた腕。その腕に静脈が太く盛りあがって走っていたことまで思い出すことができる。父さんは新しい父のように、あんなに醜くお腹が出ていなかった。

 ぼんやりとそんなもの想いに耽っているうちに、いつしか空は青く暮れはじめていた。衰えていく光の中で、遠い丘の上の樹は、黒く、逞しく、聳え立っている。

 不思議なものだ、と正子は思う。あの樹を見つめているとかならず父のことを想い出すのはなぜなのだろう。父の両腕に俊夫と二人でぶらさがり、何回も吊り上げてもらった幼い日のことまで思い出してしまう。

 毎日、こうして丘の上の大きな樹を見つめながらぼんやり父のことを考えていると、正子はふと、もうじき父が帰ってくるのを待っているような気になってしまう。告別式の日、経帷子を着せられ、血の気のひいた蝋人形のような顔をした柩の中の父に、正子は千切った菊の花を供えてお別れしたことが忘れられないのに、ときどき父が帰ってくるのを待っている自分に気づいて、誰かにそんな自分の心を見透かされているようにまごまごしてしまう。

 空の昏さに眼の奥まで浸されたように、正子はいつしかまた考えはじめる。大きな力瘤をつくれる逞しい腕をもったあの父が、どうしてあんなにあっけなく死んでしまったのだろう。あれから1年ほどしか経っていないのに、母さんはどうして幸せになることができるのか。わからない。考えれば考えるほどわからなくなってくる。母さんだって、お父さんが死んだときにはあんなに激しく哭いていたのに……。


 父が死んだときのことは何もかもはっきりと憶えている。あれは11月24日だった。その前日、正子と俊夫を釣につれていってくれる約束だったのが雨になり、釣をやめて一家揃って上野博物館に行った。そのあくる日のことなので正子は忘れられないのだ。

 その日もやみそうでやまない雨がぐずぐずと降っていた。6時間目の授業が始まって間もなく、教室にやってきた教頭先生に正子は呼ばれ、すぐ家に帰るように言われた。

「お父さんが急病なんだよ」

 秘密めかした先生の囁き声は何か不吉な響きを含んでいた。

 糠雨の中を小走りに家に帰ったが、父も母もいなかった。栄吉叔父が駈けつけてくれていて、俊夫と二人でしょんぼりと部屋の隅に坐っていた。六畳間の真中に乱れたままの布団が虚しく延べられており、枕元に洗面器が置いてあった。その洗面器の中におよそ半分ほど、腐った沼の水のように小さな泡をいくつも浮かせた赤黒いどろりとした液体が入っていた。めくれかけたシーツにも、黒ずんだ斑点が大きなインクのシミのようにいくつか落ちていた。正子は栄吉叔父の顔を見た。叔父はこわばった顔で頷き、

「母さんから電話があるまでもうすこしここで待っていよう」と言った。

 叔父の車で家を出たのはもうすっかり外が暗くなってからだった。病院は真夜中のように静まりかえり、ホールにも陰気な長い廊下にも人の姿はなかった。薄暗い蛍光灯の光が白い壁とプラスタイルの床を冷たく照らしていた。廊下を大股に進んで行く叔父の後ろを、正子も俊夫も置き去りにされまいと急ぎ足でついて歩いた。

 病室に入ると、精気を抜かれたような頼りなさで母が佇んでいた。部屋には医師も看護婦もいなかった。正子たちを見ると、母は泣き腫らした眼にハンカチをあて、

「栄吉、急に、急に……」

 とまた子供のように哭いた。

 そして正子は物になってしまった父をベッドの上に見たのである。ひどく血を吐いた父の顔は気味の悪い白さだった。いや、それはたしかに父にちがいなかったが、すでに父ではないなにものかになってしまっていた。父によく似せて作った蝋人形だと正子には思えてならなかった。昨日博物館に連れていってくれたばかりの父が、こんなぎこちない顔でベッドに横たわっているはずはなかった。正子は不思議な気持でいつまでもじっと見つめていた。物になってしまった父は瞼を半ばほどしか閉じていなかった。天井の明りを受けて、睫の下にわずかに見える瞳が表情のない光を湛えていた。父の眼の上を叔父の指先が優しく撫でる。すると父は眼を閉じた。白い父の顔の上に置かれた叔父の手の、温かみをもった皮膚の色が奇妙なほどいつまでも正子の眼の奥に残った。いつまで見ていても正子には目の前のことが合点がいかなくて、悲しみも怯えも涌いてはこなかった。

 むしろ正子を怯えさせたのは、狭い病室の中に濃密にこもっている静けさと、母の嗚咽だった。自分の前でそのように泣き崩れている母に、正子は初めて出会ったのである。

「正子、父さん死んじゃったんだよ。私たち母子3人、いったいどうしたらいいんだろうね。正子、どうしたらいいんだろうね」

 とりとめのない繰り言を呟いている母の顔を見ることができず、正子は窓のむこうに目をやった。濃い闇の底に濡れた中庭が横たわっていた。こぼれ燈の中に、音もたてずに透きとおった糠雨がまだ降りつづいているのが見えた。

 そして通夜。アパートの二間の部屋に入りきれぬほどの多くの人がやってきた。正子の知らぬ人ばかりだった。どの人もどの人も黒い背広や黒い着物でやってきて、「まあいいじゃありませんか」とひきとめられても、部屋の中にいるとまるで死病に感染するとでもいうように、仏前に手を合わせるとそそくさと帰っていった。それでもまだ家の中は立錐の余地もないほどの人で、大人たちは酒を飲み、料理をつまみ、父とは関係のない話題に笑い興じていた。

「ええ、そうなんです。ほんとうに突然で、前の日まではなんでもなかったんですが……」

「すごく血を吐きましてね……ええ、救急車で……手のほどこしようがなかったらしいです」

「はあ、御心配かけまして……なにしろあとに遺されたものが……」

 誰彼を相手に何回も同じことを話している栄吉叔父の低い声は、人々の笑いさざめきに消されがちだった。部屋の隅で正子は大人たちがこんなに楽しそうにしているところを見ると、父はやはり死んだのではなく、いつかまた帰ってくるのだろうと思えてならなかった。病院の白い壁に囲われたあの部屋で、物になってしまった父を瞬きもせずに見つめていたときの、凍ってしまったようなしじまの重さなど考えられようもないほど、この一夜は華やいでいた。

 宴会のようだった、と思い出すたびに正子は考える。通夜を思うとなぜだか正子は、ずっと以前、父につれられて会社のお花見に行ったときのことを連想してしまう。

 しかし葬儀の終った日の夕方は、家の中はみじめなほど静まりかえっていた。親しい人もみな帰ってしまったあとの祭壇を取り払った六畳間は、しらじらしいほど広く感じられ、向かい側の棟の家々の窓のきらめきが遥か遠いものに見えた。

 その宵、電灯をつけぬ暗い台所で母が声を殺して泣いていたのを正子は知っている。そのとき初めて、お父さんはもうけっして私たちのところに帰ってこないのだな、と強く思った。そう感じると、前の夜、酒の酔いに顔を赤らめて笑い興じていた大人たちの、父の死に無神経だった会話のやりとりと煙草の煙にけぶった人いきれの華やかさに、正子は初めて強い憎しみを感じた。

 あれからもう1年近く経ってしまった。また11月24日がやってくる。お父さんが死んでいったい何が変わったのだろう。たしかにすべてのものが大きく変わってしまっているのに、さてそれを数えようとしてみると、変わったことなど何もなかったような気もする。父が生きていた日々と同じように、正子も俊夫もあいかわらず毎朝母に急かされて布団を離れ、あわてて朝ご飯を食べて学校に出掛ける。あの古びた公団住宅からこの新しい家に引っ越し、正子は内田正子から駒井正子になったのに、やはり何も変化などなかったかのように毎日がつづけられている。葬儀の終った夜、暗い台所でとどめようもなく泣いていた母も、今ではその悲しみなど忘れてしまったようで、父が生きていた頃よりもむしろ華やいでいる。俊夫だって、と横丁から聞こえてくる少年たちの鋭い声を聞きながら、変わったのはお父さんが死んでしまったということだけで、そのほかの誰にも今ではなんの変化もなくなってしまった、と正子はあらためて強く感じた。

 陽はいつしか沈み、西の空だけがまだ仄紅い。淡い明るさの中に、家々の連なりの彼方に広がる丘が巨大な影絵のように盛りあがっていた。あの大きな樹は、太い幹と千々に伸ばした梢を黒々と力強く見せていた。


「正子さん、正子さん」

 誰かが遠くで呼んでいる。

「正子さん、もうじきお父さんが帰ってくるわよ」

 ああ、母さんの声だな。まどろみの底から呼び戻されて正子はゆっくりと顔を上げる。机に突っ伏してもの想いに耽っているうちにいつかとろとろと眠ってしまったらしい。空はすっかり暮れ尽きて、彼方の丘もその上の大きな樹も奥深い闇に塗りこめられて今は見えない。西の空に黄色くうるんだ星がまたたいており、部屋に忍びこんできた秋の風が正子のほつれ髪を微かになぶった。

「正子さん、何してるの、ちょっと降りてきてよ」

 母の弾んだ声に、はあいとけだるく返事をしたけれども、しかし正子はいっこうに立ち上がらない。母さんがあんなに嬉しそうなのは、もうじき新しい父が出張から帰ってくるからだ。母さんは変わった。この家に引っ越してきてからすっかり他人のようになってしまった。母さんはなぜ私を「正子」と呼んでくれないのだろう。以前は「正子さん」などと呼ばれたことはなかったのに。母からそんな他人行儀に呼ばれると、学校でいきなり「駒井さん」と呼ばれたときに感じる戸惑いの混じった苛立たしさを思い出す。私はほんとうは駒井じゃなくて内田なのよ。

「正子さん、正子さん、何してるの」

 仕方なしに正子は食堂に降りていった。

「もうじきお父さんが帰ってくるわ。あなた、バス停まで迎えにいってやってよ。お父さんきっと喜ぶわ」

 またか、と正子は心の中で舌打ちする。公団アパートにいた頃は、お父さんを迎えにいってやれなどと一度も言わなかったくせに。なぜ母さんはいつも新しい父のご機嫌ばかりとっているのだろう。薄化粧をした母を上目遣いに見て、正子はぐずぐずと言った。

「でも、まだ宿題が終ってないんだけど」

「勉強はまたあとでやればいいでしょ」

「いつも勉強は早くすませなさいって母さんうるさく言うくせに」

 すると母はたちまちきつい顔になって、

「なぜあんたは口返答ばかりするんだろうね。いいよ、お父さんを迎えに行くのがいやなら頼まない」

 俊夫、俊夫、と母はこれ見よがしの大声で弟を呼び、おまえ、一人でお父さんを迎えにいってやってよね。お父さん喜ぶわよ。またお土産買ってきてくれるはずだから。いい子だから、ね。母の声に背を向け、正子はまたのろのろと階段を上がっていった。

 こういうとき、前の家だったら気まずい雰囲気から逃れるには外に出ていかねばならなかったが、この家は二階が正子と俊夫の部屋になっているので、外に出ていってまた家に帰ってくるときのなんともみじめな気持を味わわなくてもすむ。だが自分だけの部屋があることが、このときの正子にはひどくもの悲しかった。めいめいが自分の部屋をもっていて、9時になると、新しい父におやすみなさいを言って正子も俊夫も二階に引き上げねばならない。まだテレビが見たくても、新しい父がいる日には母はけっして許してくれない。だからみんなの心が次第にばらばらになってしまうのだ。

 じっとしていると、食器の触れ合う音や炒めもののじゅっという音が階下から聞こえてくる。それはひどく遠い音のように思えた。

 初めてこの家に来た日のことを正子はぼんやりと思い起こしていた。母が変わったのは、おそらくあの日からにちがいない。

 それはよく晴れた暖かい春の午後だった。向かい側の棟に燃え立つ陽光が降り注ぎ、その反射光が水底の縞模様のように天井に揺らめいているため、かえって薄暗く感じられる六畳間で、母はしゅるしゅると帯を鳴らしながら滅多に着ないきれいな着物を身につけていた。部屋に漂っている微かな白粉の匂いが父が死んで以来久方の華やぎを感じさせた。髪をセットし、化粧をした顔で媚びるように正子に微笑みかけた母は、それまでのうち沈んで涙もろくなっていた母とはまるで別人のようだった。美しくなった母を不思議そうに見つめながら、数日前、秘密をうちあけるように語られた言葉を正子は胸の中に甦らせていた。

「今度の日曜日にね、駒井さんという人の家にみんなで行くのよ。もしかするとその人があなたたちの新しいお父さんになるかもしれない」

 駒井という名を聞いたのはそれが初めてではない。1ヶ月ほど前、横須賀の伯母がいい話があるんだけどねと上機嫌でやって来て以来、正子はしばしばその名を耳にしていた。そのときの母と伯母の、隣の部屋にいる正子を憚るようなひそやかな話しぶりに、彼女はいたって気をひかれたものだった。

「その人も3年前に奥さんに先立たれて困っているんだよ」

「だって姉さん、内田が死んでまだ四月しか経っていないのに……このあいだ百箇日をすませたばかりですよ」

「だからさ、今すぐじゃなくてもいいのさ。そのことは駒井さんも承知している」

「でもあんまり急な話で……」

「馬鹿だね、しりごみしてるときじゃないだろ。この先の生活ひとつにしたって、女独りでやっていくのはたいへんだよ。今はまだ内田さんの退職金やら保険やらがあるからのんびりしていられるけど、先へいったらいつまでもそんな呑気なことは言っていられなくなるよ」

「でも昨日の今日では内田にすまないし、世間もなんていうか……」

「いまは亡夫に操を立てるって時代じゃないよ。世間の目なんて、そうなったらあんた、どうせ横須賀へ引っ越すんじゃないか」

「子供たちがなんていうか……」 

 すると伯母はますます声をひそめ、あの子たちはまだそういうことがわかる齢じゃないだろ、それに子供たちのためにもやはり父親は必要だよ、生きている父親が、と言った。

 それからも2、3度伯母はやってきて、そのたびに母を口説いた。電話もたびたびかかってきて、駒井さんという名が大人たちの間で秘密めかして語られるのを正子は聞いている。

「先様はとても穏やかないい人でね、とにかく一度会うだけは会ってみなよ。内田さんには悪いけど、死んだ人のことをいつまでも思っていたってどうにもなりはしないんだよ」

「それはそうだけど……」

「とにかくこんな願ってもない話はもうこれきりかもしれないよ」

 横須賀の伯母だけでなく、栄吉叔父も、ほとんど家に来たことのない目黒の伯母までもがいれかわりたちかわりやってきて、同じように母を説得した。正子が家にいるとき、その話はいつでもひそやかに語られる。あるとき、正子が学校から帰ってきたら、横須賀の伯母が来ていてやはり駒井という人の話をしていたらしいのに、彼女の顔を見ると2人の大人は間が悪そうに口をつぐんでしまった。

 母さんの兄弟はみんななぜお父さんに悪意をもっているのだろう。父が生きていた頃はあんなに仲良くしていたのに……。そういう場面に行き当たるたびに、正子は当惑し、不機嫌に考える。どの人もみんな父が死ぬのを待っていたようではないか。大好きな栄吉叔父まで正子の期待を裏切って駒井という名を口にするので悲しかった。だから駒井という名は、父の突然の死によってすっかり変わってしまった正子たち一家の生活を、さらに黒く隈取る不吉なもののようにしか思えなかった。

 その不吉な名前を母の口からいきなり聞かされたとき、正子は何も言わずにただ俯いていただけだった。

「その駒井さんという人、どんな人? 駒井さんの家ってどこなのさ」

 弟のように無邪気に訊ねることはできなかった。今までの大人たちのひそやかな話から、駒井という人が正子たちにどういう意味をもつ人か、すべて理解できていた。母さんは横須賀の伯母に負けたのだ。お父さんに申し訳ないとあれほど言っていたくせに、とうとうその人に会いに行く。もしかするとその人が私たちの新しいお父さんになる? そう、なるだろう。母さんはもう決めてしまっているのだから。

 だけど新しい父など欲しくない。死んだあのお父さん一人で満足だ。そう思いながらも正子は母の顔を見返すことができず、ただ俯いてしまっていた。駒井という人に会いに行くと独り決めしてしまった母に不快を感じながら、一方で、久しぶりに若やいだ母をそっとしておいてもやりたかった。

「へえ、新しいお父さん! そうだよね、古いお父さんはもう死んじゃったんだものね」

 弾んだ声で俊夫が言っていた。

 着付けを終えた母は正子がいままでに見たこともないほど若々しかった。美しく化粧した母の姿をそのとき正子はよほど怪訝な顔でまじまじと見つめていたらしい。そんなに見ないでよ。母さん恥ずかしいじゃないの、と言われた。

 正子と俊夫もよそ行きの服を着せられ、正月のお参りに行くような晴れやかさで家を出た。そして郊外電車に乗ってこの家にやってきたのである。

 初めて見た駒井は、正子が予想していたよりはるかに老けていた。道々、母がまるでこれから行く楽しい行楽地のことでも話すように、何回も新しいお父さんになる人のことを話していたので、正子もなんとなく、駒井という名の上に死んだ父の面影をおぼろに重ねて想い描いていたのだけれども、しかし期待は見事にはずれた。この人は死んだお父さんよりも十ぐらい上だろうか。それとももっとだろうか。きちっと膝をそろえてかしこまった姿勢をくずさず、正子はしばらくただそのことばかりを考えていた。

 駒井は象のような顔をしていた。こころもちたるんだ頬と、笑うとなくなってしまいそうな小さな眼がそう思わせたのかもしれない。母とは旧知の人のようになごやかに話をしていた。

「先日は失礼しました」と母が挨拶したのを正子は聞き逃さなかった。「長井の姉もよろしくと言っておりました」

 すると私たちに内緒で母は横須賀の伯母と一緒にこの人に会っていたのか。いつだったのだろう。日曜日ではないはずだ。自分たちが学校に行っている隙に、誰もいない静まりかえった家の中で今日と同じように美しく化粧し、きれいな着物を身につけ、若やいだ姿を愉しげに姿見に映していた母が疎ましく脳裡に浮かんだ。

 子供好みの甘い和菓子や飲物は俊夫を喜ばせた。誰が整えたのか、簡単な手料理もあった。しかし正子はあいかわらずきちっと膝をそろえたまま、そのどれにも手をつけなかった。そうしたら最後、母が年とった目の前の男と結婚するのを自分が認めることになるような気がして、頑なに意地を張りつづけていたのである。足がしびれてきたが、その苦痛にもじっと耐え、駒井が微笑みながら何かを問うたびに、「はいっ」「はいっ」とまるで授業参観の日に思わぬ質問をされたように答えた。

「正子ちゃん、いいのよ、もっと楽になさい」

 母にそう言われるたびに正子は余計頑なになった。駒井は母よりもむしろ正子や俊夫によく語りかけ、俊夫はなれなれしく小父さん、小父さん、と言って母を戸惑わせた。

「小父さんちの庭、ずいぶん広いんだねえ」

「ああ、相撲だってキャッチボールだってできるぞ」

「相撲やろうか」

「うん、今度来たときな」

 母は家の立派さを褒め、駒井は子供たちのことを褒めた。しかし、和やかな語らいがふと途切れたときなど、正子は自分の張りつづけている意地が大人たちに明らかに困惑を与えているのを知り、自虐的な喜びに似たものを感じるのだった。誰が笑ってやるものか。こんなお菓子、誰が食べてやるものか。怒りに似た火照ったものが心の底にあり、正子がそれを意識すると火照りはますます強まるのだった。正子は首筋をこわばらせ、いつまでも身じろぎせずに坐りつづけていた。

 だから正子には、その午後はひどく退屈で不愉快だったとしか記憶がない。

「今日は晴れてよかったわねえ」

 帰路、母はほっとしたように言った。

「あなたたち、駒井さんどう思った? ね、優しそうないい人でしょ」

 母が変わったのはあの日からにちがいない。たしかに母はあれ以来若々しくなったけれども、なんだかよその人みたいになってしまった。机に頬杖を突き、秋の闇を渡ってくる冷やかな風に頬を曝しながら、正子はいつまでもそのことを考えていた。


 玄関の戸が開き、俊夫のはしゃいだ声がする。新しい父が出張先から買ってきた土産物が弟を喜ばせているにちがいない。弟はいたずら半分に重い旅行鞄を持ってやり、新しい父をうれしがらせたことだろう。暗い路を睦まじげに語らいながら歩いてきた二人の姿を正子はぼんやりと想い描いていた。弟のように無邪気に振舞えたらどれほどいいだろう。そう思うと、新しい父が帰ってきたのを知りながら階下に降りていくこともせず、電灯をつけないままの暗い部屋でじっとしている自分の片意地に、ふと気弱い亀裂が走る。正子はうろたえ、その気弱さを塗り込めるために急いで姿勢を固める。新しい父が帰ってきたからって、すぐに降りていってなどやるものか。

 しかし正子は耳を澄ませていた。正子さん、正子さん。もうじき母が他人行儀に呼ぶだろう。お父さんが帰ってきたのよ。お帰りなさいぐらい言うものよ。

 だが正子を呼ぶ声はいっこうにしない。ときどき食器の触れあう音が微かに聞こえ、一度だけ、俊夫が廊下を走る騒々しい音がしただけである。そうなると階下の様子がよけい気になる。新しい父は正子はどうしているのだと訊ねもせず、もう風呂に入ってしまったのだろうか。母もまた自分のことなど一言も語らず、配膳をしているのだろうか。そして俊夫は土産物の包みを一人で解いているのだろうか。

 そんなことを思っていると、自分だけがこの暗い静寂の中に取り残されてしまったような淋しさに捕えられ、正子は涙をこぼすまいとあわてて眼をしばたたいた。蒼黒い闇の向う、丘の上の大きなあの樹のちょうど真上あたりにうるんだ黄色い星がまたたいている。父が生きていた頃、あの古びた公団アパートの三階の部屋で毎日知らずに愉しんでいた晩餐のくつろぎが、今では懐かしくてならない。

 そのまま片意地を張りつづけていることができず、正子がとうとう階下に降りていったとき、新しい父は風呂をあがって部屋着に着替えたところだった。

「ただいま、正子、よく勉強しているね」

 湯上りの上気した顔にいつもの穏やかな微笑を浮かべて新しい父は言った。

「おかえりなさい」

 二階にいたときにはあれほど言うまいとしていたのに、正子は恥ずかしそうに俯き、消え入るような声で言っていた。

(つづく)



[初出:『横浜文学第66号』1974年3月]

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