【世相百断 第72話】


平和憲法と専守防衛





 日本は二度と為政者に軍事独裁国家を造らせないし、侵略戦争もおこなわせない、国家間の紛争の解決に武力を用いさせない――60年前の侵略戦争の悲惨な体験の深い反省をもとに、絶対平和の理念を謳った前文、戦争放棄の9条、基本的人権や種々の自由の保障を盛り込んだ現行憲法は誕生し、この60年、一字一句の改正もせずに憲法を国の指針にして社会造りを行なってきた。この憲法があるからこそ、さいわいにも日本は戦後一度も国家間の武力紛争に直接巻き込まれず、戦後復興に社会の力を集中し、結果についての異論はさまざまにあるものの、高度経済成長と民主主義を実現してきた。

 絶対平和の理念と基本的人権の保障を中心に据えたこの憲法をもし戦後いち早くわれわれが持たなかったら、朝鮮戦争にもなんらかの形で――例えば志願兵の形で、あるいは国連軍という名の米軍の兵站部隊や軍属として、日本は戦争に参画していたかもしれないし、ベトナム戦争ではまちがいなく米国側について派兵をしていただろう。国民の知恵も労力も国家財政も軍備の再建・拡大に投入され、今とは違う国になっていたかもしれないし、アジアの国々との関係も今よりもっと険しいものになっていたにちがいない。

 片や、日本の戦後復興は日米安保体制と一体となった米国との友好関係の樹立と多方面にわたる支援なくしては実現しなかった。つまり戦後日本の復興と経済成長は、日米軍事同盟の上に乗ったものだった。

 憲法の理念と戦後の日本を取り巻く政治情勢の不幸な関係が、絶対平和の理念と戦争放棄の条項をもつ憲法のもとで、世界有数の軍事費を投入する巨大な軍備をもつという、埋めがたいほどの乖離を現出させてしまった。

 この乖離の拡大は、まだ止まらない。自民党政権のとどまるところを知らない憲法9条の拡大解釈と自衛隊の運用実績によって、いまや日本の軍隊は米軍と一体になって遠いインド洋やアラビア海で作戦展開を行なうまでになったし、戦闘地域のイラクに陸軍が駐屯するまでになった。足早の軍事法制の整備を果たした今、それはやがて後方支援や民生支援のレベルを超えて、治安活動という名の直接的な武力行使にまで進んでいくだろう。まさに平和憲法の下で日本の自衛隊は、定向進化というほかはない足取りで海外で戦争のできる軍隊に変貌しつつある。

 そしていま、この巨大な乖離を一挙に埋めるために、憲法を軍備の現実に合わせようという憲法改正運動までが目前の政治課題になりつつある。日本の政治がひたすら米国の世界戦略につき従い、自衛隊をフリーハンドで運用できることのみに目を奪われ、世界の秩序を維持するために、あるいは国家の枠を越えて人々の命と暮らしを守るために、どうすべきかという理念と方向性を見失ったというほかはない状況が生じている。

 この60年間、憲法改正が現実に政治課題にならなかったということは、まがりなりにも絶対平和の理念を日本の国の指針として維持できてきたということだが、反面、武力紛争とは無縁の戦後の平和ボケの中でこの国の人々に憲法など自分には関係ないという意識を植え付けてしまった。憲法制定当時は、この国の人々はその理念に全面の同感と支持を寄せ、この憲法に記されているような平和国家を造るのだという熱意をもって憲法を読んだ。悲惨な戦争体験の中で肉親や財産を失い、命からがら生き残った人々にとって、憲法はまさに未来を示す光だった。

 憲法前文と9条の形骸化、この国の人々の憲法に対する近親感の喪失は、まさに平和憲法危うしというほかはない状況だ。

 しかし危機は、状況を転回させるチャンスにもなる。憲法改正絶対反対という受身の姿勢ではなく、憲法改正の季節風が吹きはじめた今こそ、いまや軍備の増強が"自衛"の枠を大きく踏み外し、われわれの命と暮らしを守ることとは相容れない状況になってしまったことを冷静に直視し、絶対平和の理念をもった憲法と巨大な軍事組織に成長してしまった自衛隊の乖離をどう埋めるのかを考え、人々が主権者として判断・行動する好機でもある。

 この巨大な乖離を埋めるための現実的なプロセスは、『憲法9条――軍拡から軍縮へ』で述べたように、軍拡に向かっている定向進化を軍縮に転換させることだろう。

 より具体的にいえば、一挙に軍備を廃止することなど現実的には不可能だし、また世界政治の現実を見れば非現実的な発想にすぎないから、軍備の歯止めなき拡大を軍縮に方向転換させ、憲法の理念と軍備の乖離を縮小させ、日本の軍備が文民の命と暮らしを守るためのものであり、したがって他国の脅威となるようなものでなくなるようにするために、自衛隊を専守防衛のための軍隊にどう改変していくかということが当面の課題になる。

「専守防衛」のための自衛隊改変を検討する上で、まず二点を押さえておきたい。

 数十年先の世界が、国家・民族・地域間の紛争を解決するためのどのようなシステムをもつことになるかは神のみぞ知るだが、すくなくともここ10年や20年は紛争解決の手段として非武装中立の思想は非現実的な理想論の域を出ないだろう。だから専守防衛であろうとも、当面は軍備が必要という状況認識に立たなければ、憲法と自衛隊の乖離は埋められない。

 では非武装を捨てるから「平和主義」や「中立主義」の理念までをも放棄することになるかといえば、そんなことはない。東西冷戦が消滅し、核戦争の危機が小さくなったかわりに、世界各地で武力紛争が頻発しているこの現実世界では、武力によるテロや危機対応のためにも、そうした武力紛争をわれわれの近くで発生させない抑止のためにも、専守防衛という一定限度の枠をはめた武力の保持は現段階では不可欠である。

 「軍備」そのものが悪なのではない。ピストルや刀がそれ自体悪でないのと同じだ。要はそれを人々の命と暮らしを守るために使えるか、人々を危機に陥れるために使うかの問題だ。「軍備」とはこの現実世界での壮大な一種の保険、必要悪と考えればいい。使わないで済ませられればいちばんだし、保持していることによって危機が生じた場合のリスクヘッジにもなる。ただし武器をもつものはそれを使って勢力を拡大したい誘惑に絶えず駆られるから、間違っても国外で他国民を傷つけるために使わないという歯止めをかけて、「専守防衛」とする。

 この「専守防衛」と、いかなる国をも敵視しない「中立主義」を進めて、戦後すっかり無力化してしまった平和主義思想を現実世界の中で再構築していく。

 これが専守防衛検討のための第一点。

 第二点は、「国防」を前回述べた「人間の安全保障」の観点から再構築していくということだ。われわれが守るものは何なのか。国家や国土ではなく、国家を越えた人々の命と暮らしである。そのためには、我が国の軍隊は国土の外に出ていかない。武装勢力の領土侵入を許さない。人々の生命財産に無用の犠牲を出さないという観点からの装備であり、運用でなければならない。

 平和憲法を掲げる我が国政府も、防衛の基本政策をもちろん専守防衛に置いている。最新の「平成16年版防衛白書」の「第2章・わが国の防衛政策」の「憲法と自衛権」では以下のように述べている。

 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきた。恒久の平和は、日本国民の念願である。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いている。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではない。

 政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解している。このような考えに立ち、わが国は、日本国憲法の下、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきている。

 










 
 ただし繰り返すが、軍備と運用の現実は専守防衛とはとてもいえないレベルに膨張している。専守防衛を望んでいる国民も近年の軍事法制の整備やイラクへの自衛隊派遣、憲法改正論議などを見て、懸念を強めつつあるあるようだ。

 たとえば、自衛隊発足50周年を前にして行なわれた昨年6月の日本世論調査会の自衛隊に関する世論調査では、「憲法九条に基づいて国の守りに徹する「専守防衛」という自衛隊方針について「不明確になったと思う」との回答が38%、「どちらかといえばそう思う」が36%で、計75%が「不明確」との認識」を示している。(西日本新聞 2004.6.13 )

 また「自衛隊に今後、最も期待する役割」については「日本の安全の確保」が 42%と最も多く、次いで「災害の救助・復旧」29%、「国内の治安維持」14%の順で、「多国籍軍への参加」は1%にとどまっている。

 さらに「自衛隊をいつでも海外派遣できるようにする恒久法制定に関しては、賛成が昨年十二月の調査と比べ9ポイント増の46%、逆に反対が12ポイント減って47%と、賛否が二分」しているが、これは自衛隊を他国の復興支援に運用するとの前提であり、海外で武力行使をし、自衛隊員に戦死者が出るような状況を想定してのことではあるまい。

 国民は自衛隊に国内の安全確保や、警察や自治体では手に負えない災害復旧や治安維持を望んでいるが、現実の運用で専守防衛の基本がなし崩しに崩れていくことに不安感をもっている。

 国内では政府は本音と建前を使い分け、国民も懸念を抱きつつも政府説明にかなりの程度引きずられてあいかわらず消極的な事後承認を与えているが、近隣国の目からは、日本の国防政策はいっそう危険なものに映っている。一例を挙げよう。

1999年11月、訪韓したDRC研究チーム(第52回海外研究調査、DRCT-52)の1人長谷川孝一研究委員が、DRC会誌に次のように体験を記している。

『国防研究院におけるガイドラインの討論の中で、某元中将から激しい日本軍事大国化論が飛び出し、驚嘆した。その概要次のとおり。ガイドラインは周辺事態法によりいよいよ外征の糸口となろうとしている。憲法で軍隊を持たない筈の日本が、PKOのうちは未だしも、以下の動きを見ていると軍事大国化への脈絡の中にあると言わざるを得ない。即ち日本は、情報衛星及びTMDの装備を決め、空中給油機、大型補給艦の保有、有事立法へと走っている。既にAWACSや最新鋭攻撃戦闘機を装備し、極東随一の通常型兵備を持つ日本は、この調子で行くと2015年までに間違いなく攻撃型空母を持つだろう。場合によっては核装備もあり得る。国会では憲法改正の準備も始められており、日本は極東における軍事大国として君臨する積りとしか考えられない』
「日本は周辺諸国に対して脅威であるか」
















 内外のこうした懸念を現実化させないためにも、もし憲法改正が現実の政治課題になったら、これを機に、日本の軍備を名実ともに専守防衛といえるにふさわしいものに改変していかねばならない。

 では、専守防衛とは何か、ここであらためて確認しておこう。以下の定義がシンプルで誤解の入る余地のないものだろう。

「他へ攻撃をしかけることなく、他から自己の領域が攻撃を受けたときに初めて、その領域周辺において自己を守るためにのみ武力を用いること。」
(三省堂「大辞林 第二版」)





 具体的に、専守防衛のための戦略や装備とはどのようなものだろうか。

 上記の辞書の定義を遵守するとすれば、たとえ軍事合理性上必要とされても、相手国の基地を攻撃するような攻撃行動はとらない。したがってこのような目的に使用されるB-52のような戦略爆撃機、戦略ミサイル、攻撃型空母などの他国に侵略的・攻撃的脅威を与える戦略兵器は保持しない。前述の「平成16年版防衛白書」の中の「第2章 わが国の防衛政策(1)保持し得る自衛力」で政府も同様な見解を表明している。

 また、相手からの侵略が予想されても、相手国に対する先制攻撃は絶対に行なわない。武力侵略者に対しては、攻撃の都度これを防除することになる。

 こうした専守防衛のための軍備は、侵略者の意図や動静を少しでも早く察知して非軍事的な方法でこれを回避する努力をつくすとともに、的確な防衛体制を速やかに整えられる、予防・予知・防衛態勢の充実と、現実に軍事侵略が行われた場合の迎撃能力の充実による侵略者の攻撃意図の抑止機能が主となるだろう。

 つまり専守防衛のための戦略とは、もし軍事侵略を企てるものがいれば、相手も手痛い損害を蒙るぞということを知らしめる、攻撃抑止機能が主目的になる。

 現実に自衛隊も、以下のような「周辺海域における警戒監視」と「領空侵犯に備えた警戒と緊急発進(スクランブル)」活動を行なっている。

 海上自衛隊(海自)は、1日に1回を基準として哨戒(しょうかい)機(P-3C)により、北海道の周辺海域、日本海と東シナ海を航行する船舶などの状況を監視している。また、ミサイル発射に対する監視など必要に応じて、随時、護衛艦・航空機による監視活動を行っている。

 さらに、主要な海峡では、陸上自衛隊(陸自)の沿岸監視隊や海自の警備所などが、24時間態勢で監視活動を行っている。また、対馬海峡と宗谷海峡(結氷期を除く。)では、護衛艦などにより24時間態勢で監視活動を行っている。

 航空自衛隊(空自)は、全国のレーダーサイトと早期警戒機(E-2C)、早期警戒管制機(E-767)などにより、わが国とその周辺の上空を24時間態勢で監視している。また、戦闘機が直ちに発進できるよう、その一部を常に待機させている。領空侵犯のおそれのある航空機を発見した場合、緊急発進した空自の要撃戦闘機などがその航空機に接近して状況を確認し、必要に応じてその行動の監視を行う。実際に領空侵犯が発生した場合には、退去の警告などを発する

















 さらにいうなら、「専守防衛」においては、いかなる理由であろうとも自衛隊の「海外派兵」はありえない。

 軍事合理性で「国防」を考える人たちからは、専守防衛なんてナンセンスな机上の空論だという意見が出されることは当然予想できる。いくら専守防衛のための装備を充実させても、侵略は防げない、と。
 
 彼らの言うとおりなのだ。現代戦において攻撃は、まずミサイルや爆撃機で行なわれる。古典的な宣戦布告など行なわない奇襲攻撃の可能性も大きい。だから侵略の意図をもった敵のミサイル基地や出撃基地を未然にたたいて攻撃を不可能にするレベルの打撃を与えないかぎり、侵略者の先制攻撃を止めることはできない。こうしたミサイルや爆撃機による先制攻撃が日本の領土内に到達すれば、完全な防御などありえないから、かなりの被害が発生することも防げない。

 仮に先制攻撃を軽微な損害で防いだにしても、侵略者側の損害も攻撃継続が可能なレベルであれば、敵は態勢を整えて繰り返し攻撃してくるだろう。侵略者側のミサイル基地や出撃基地をたたかないことには、いくら迎撃しても敵は態勢を立て直して繰り返し攻撃を仕掛けてくる。

 軍事合理性のみで国防を考えれば、専守防衛にはこうした軍事的限界があるのはまぎれもない事実だ。
 
 しかし相手側を自暴自棄の状況に追い込まないかぎり、つまり相手側にも軍事合理性で行動するだけの判断力が保持されていれば、そもそも自国の損害を大幅に上回る損害を初期攻撃で敵に与え、敵の反撃を不可能にする結果予測がもてないかぎり、侵略者は攻撃には踏み切れない。米国はアフガニスタンやイラクを先制攻撃できるが、その反対は絶対にありえない。

 どこかの国や武装勢力に日本に対する攻撃意図をもたせるかどうか、あるいは自暴自棄の攻撃に踏み切らせるかどうかは、軍事合理性の問題ではなく、まさに政治の問題だ。軍事合理性のみで武力紛争は防げない。

 また、世界世論の支持を得られない不当な軍事侵略は、国際規模での政治・経済的な「制裁」という形の強い圧力を覚悟しなければならない。そもそも軍事侵略はそれ自体が目的ではない。日本を軍事的にたたきのめすことによって、領土的な野心を実現するか、なんらかの外交的な成果を得ることが目的のはずだ。政治・経済的な互恵ネットワークが世界的に張り巡らされている現在の世界で、中国やロシアのような近隣の大国ですら、自国を巻き込むような軍事紛争が現出すれば、政治・経済的に甚大なマイナスが生じる。初期作戦でそれなりの軍事的成果を挙げても、現在の世界では戦争で利得をあげることなどほとんど不可能になっている。つまり狭い視野の軍事合理性だけでは戦争にも勝てない。

 こうした状況に軍事合理性で対応すると、どういうことになるか。もし、敵の武力侵略を完璧に防ごうと思ったら、それこそ先制攻撃をして敵に壊滅的な打撃を与えるしかない。それは相互不信と恐怖を高め、こちらもいつ先制攻撃を仕掛けられるかわからない状況をつくるということにほかならない。つまり軍事合理性上完全な防御を実現しようとすれば、それは敵を先制攻撃するという論理矛盾に陥り、この論理は相手側の先制攻撃意図も高め、結果として軍事紛争の可能性を高めるという悪循環に陥る。

 もうひとつ、『日本国憲法と人間の安全保障』でも述べたが、大規模テロには軍事合理性では対応できない。軍備を巨大化させ、そのことによって自国の利益を拡大・保持しようと国際的な政治・経済的不平等や矛盾を放置しつづければ、やがていつこうした強大なテロ攻撃を招くかもしれない。そうしたテロ攻撃を大規模武力紛争に対応するための通常の軍備で防ぐことができないのは、強大な軍事力を誇る米国ですら、9・11のテロ攻撃を防げなかった事実を直視すればあきらかだろう。大規模テロはいくら軍事合理制理論で先制攻撃をしても、そもそも根絶やしにすることなど不可能だ。

 ということは、軍事合理性のみで防衛戦略を考えること自体がそもそも間違っているということだ。

 さらにもうひとつ、軍事合理性の最大の欠点は、実際に戦闘状態に突入した場合、戦闘行動に勝利することのみが最大価値になり、文民の被害や民生上の損害をまったく考慮しなくなってしまうことだ。守るべきは国土であり、軍隊の戦闘力であり、人々の命や暮らしではなくなってしまう。繰り返すが、守るべきは国家や国土ではなく、国家を越えた人々の命と暮らし、「人間の安全保障」であることを押さえれば、軍事合理性のみで国防を考えてはいけないということになる。

 たしかに専守防衛では敵を完全に撃退できない。しかし人工稠密なこの日本のどこかで戦闘状態に陥ること自体、そもそも国防の失敗といえるであろう。そんな事態になれば、国土を守ることができても、人々の命と暮らしに甚大な被害が発生する。

 目的が人間の安全保障なら、敵を一兵たりとも上陸させないことが肝要なのではない。国民の犠牲を最小にすることこそが国防の基本でなければならない。

 それでもなお、中途半端な防衛態勢では、容易に敵の軍事侵略を許してしまうという懸念や非難は軍事合理性信奉者の頭の中から消えないだろう。

 しかし、そもそも自衛隊を縮小したことを好機に、この国への軍事侵略を企てる国家や勢力がほんとうに存在するのか。

 仮にもしそういった勢力が存在し、現実に軍事侵略がなされるような事態になったら、われわれはどうすればいいのか。この点も考えておかねばならないだろう。

(2005年5月17日)

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