鉄砲伝来について

はじめに

 現在、授業で山崎正和氏(劇作家・評論家)の「国際化の流れの中で」という文章にとりくんでいる。(使用教科書は東京書籍「新編国語U」)その授業を進めながら、いろいろな疑問がわいてきて勉強中である。

 「日本人の技術革新好きは、ほとんど国民的な体質のようなもので、めざましい実例がいくつも見られます。鉄砲が二丁、種子島に伝来した時には・・・それ(鉄砲)を日本で製造しようということになり、すぐに模倣を始めます。」

 以上の下線部の内容を授業で説明する際に、鉄砲伝来について学習を深める機会を得たので、拙いながらもまとめておくことにした。



1、「鉄炮記」の記述

 1543年種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲を、領主種子島時堯(ときたか)に伝えたといわれている。その当時の記録「鉄炮記」(慶長12年(1607年)、南浦文之(なんぽぶんし・玄昌ともいう)という禅僧が、種子島久時の命をうけ、久時にかわって鉄砲伝来の歴史を記録するという形で作成したもの)によると、以下のとおりである。

 天文12年8月25日、種子島の西村小浦に1隻の大船が漂着した。どこの国から来たかわからないが、船客は100余人、その服装は異様でことばも通じない。さいわいにそのなかに明の儒生五峰(じゅせいごほう)という者(これが王直だという説もある)がいて、西村の主宰織部丞(おりべのじょう)と砂上筆談し、これが「西南蛮種之賈胡(ここ=商人)」であるとわかった。(中略)領主時堯はこれらの人々を引見したが、その長たる者は2人で、1人は牟良叔舎、他の1人は喜利志多侘孟太といい、手に一物をたずさえていた。長さは2、3尺、まっすぐで中空であった。しかしその底は密閉され、その傍には火の通る穴がある。用うるときには妙薬を入れ、小さい鉛の丸をそえる。穴から火を点じて発すれば雷のとどろくような音をだし、耳を覆わざるをえないが、小さな標的でもかならずあたる。 時堯はこの稀世の珍品の名も用途も知らなかったが、感嘆おくあたわず、万金をもってその2挺を買いあげ、火薬の調合法を家臣の篠川小四郎に学ばせ、みずから射撃術を習い、百発百中の技量に達した。このとき、紀州根来寺の人が千里を遠しとせず、鉄砲 をゆずってくれるよう懇望してきたので、時堯は津田監物丞を遣わして一挺を杉坊に贈り、使用法も伝授した。一方時堯は鉄匠数人に命じ、そっくりの模造品をつくらせた。しかしその底の塞ぎかたがわからなかった。ところが、翌年またこの「蛮種賈胡」がやってきたとき、そのなかに一人の鉄匠がいたので、時堯はよろこび、金兵衛尉清定に命じて、底の塞ぎかたを学ばせた。そこで1年あまりのうちに数10挺の鉄砲ができあがった。その後和泉国堺へ橘屋又三郎なる商人が、たまたま種子島に1、2年滞在し、鉄砲を学んだ。彼は帰ってから鉄砲又とよばれるほどで、畿内近国の者はみなかれから学んだ。また故老のいうところでは、天文の壬寅揆卯(天文11、2年)のころ新造の入貢船三隻が種子島から、明にむかおうとしたとき嵐にあい 1隻は座標沈没、1隻はからくも寧波に着き、他の1隻は運航不能となった。その種子島にとどまった一隻は翌年首尾よく明にわたったが、帰路台風にあって伊豆に漂流した。伊豆の人々はこの難破船の搭載品をうばったが、船中にあった時堯の家来松下五郎三郎は、鉄砲を手にたずさえ、射撃してみせた。その百発百中ぶりに驚いた伊豆の人々は、驚嘆して彼から学んだ。そのため鉄砲は関八州にもたちまちひろまった。わずか数年の間に2挺の鉄砲がたちまち66カ国にひろまり、諸国の鉄匠はその製法を身につけるにいたったことを思えば、わが種子島はまことに鉄砲の発祥地というべきだ。(「鉄炮記」より)


 こうして、戦国時代という時代背景もあわさって、鉄砲の大量生産がはじまった。生産の中心は和泉(大阪)の堺、紀伊(和歌山)の雑賀・根来、近江(滋賀)の国友などであった。この大量生産を可能にしたのは、当時の製鉄技術や鍛造(金属を加熱し、鍛えて各種の器物に作ること)・鋳造(金属を溶かし、鋳型に入れて器物を作ること)技術の水準の高さにあった。
 そして、鉄砲は戦争でも使われるようになり、有名な1575年の三河(愛知)の長篠合戦で、織田信長は鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝した。この時に織田信長が用意した鉄砲は3,000丁と伝えられている。もちろん、他の戦国大名・武将もそれぞれに所持していたはずだから、短期間のうちにかなりの大量生産に成功していたと考えられる。

2、鉄砲製作とネジ

 鉄砲を愛玩した種子島時堯は、数人の鍛冶匠に命じて鉄砲を模造させようとした。しかし、筒の部分は板状の鉄を巻いてできても、銃底を塞ぐ方法が分からなかった。ネジを作る技術も発想もなかったのである。時堯に模索を命じられた刀鍛冶八板金兵衛は、自分の娘をポルトガル船の船長に与えて製法を聞き出そうとしたが、果たせないまま船は娘を連れて出帆した。翌年、再び来航した南蛮船に乗っていた娘の導きでようやく製法を聞き出すことができたと、「八板氏系図」は伝えている。
 この伝来銃の銃底をふさぐための"尾栓"及びそれがねじ込まれる銃底の雌ネジが、日本人が見た最初のネジであるとされている。金兵衛にとって尾栓の雄ネジの加工は比較的容易であり、例えば糸をコイル状に巻き付けて、その線に沿ってヤスリで切り込んでいくといった方法が考えられます。しかし、金属加工用工具として"やすり"と"たがね"しかなかった当時の刀鍛冶の技術からすれば、銃底の雌ネジの加工は難題でした。種々の苦心があった末、尾栓の雄ネジを鋳型として熱間鍛造法(金属を再結晶温度以上に加熱して、板・棒などにする加工法)で製作したのではないかと推定されている。


3、鉄砲の威力

 当時の戦国大名は、6匁(もんめ)筒(口径15.8ミリ)あるいは10匁筒(口径18.7ミリ)を多く使用したそうである。この銃は、最大射程(しゃてい)が1000メートルにも達するといわれているが、有効(ゆうこう)射程はせいぜい100メートル前後で、命中精度になると人馬を標的として50メートルが限度で厚さ60ミリの洋材を貫通(かんつう)、30メートルの距離で鉄2枚胴具足(どうぐそく)を射貫(いぬ)いたという。右の写真は、10匁筒で、30メートルから射撃したと伝えられているものである。


4、合戦での鉄砲の実用例

 鉄砲が合戦に使われ、偉力を発揮した最初のケースとしては、先述した長篠合戦が知られている。しかし、これは鉄砲伝来の年から30年あまりののちになる。実際には、もっと早くから実用化していた(表1参照)と考えられ、それについては十分な史料もある。種子島への鉄砲伝来から10年前後の頃、すでに各地の実戦で使用されていることから、九州・畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津=京都・奈良・大阪・兵庫)などから製造のはじまった鉄砲がたちまちのうちに全国にひろまるとともに、実用されだしたことは明らかであり、鉄砲のもたらした衝撃がいかに大きかったかが分かる。


長篠の合戦以前の鉄砲の実用例(表1)
年代 実 用 例
1555 武田信玄、信濃旭山城の合戦に300丁を用いる。
1562 和泉国久米田寺合戦で三好実休、根来衆の鉄砲に撃たれて戦死。
1563 出雲国白鹿要害・熊野表合戦で、吉川元春の手兵多く鉄砲に撃たれ、戦死・負傷する。
1565 尼子義久の臣、鉢屋掃部等毛利軍を鉄砲で撃つ。
1570 織田信長、姉川合戦の時、殿(しんがり)軍に鉄砲500丁を備え、退却する。



5、「種子島」以前の鉄砲

 日本人は、この時(1543年)まで本当に鉄砲と火薬について無知だったかといえば、そうではないらしい。13世紀後半の「蒙古襲来絵詞」のなかには、元軍が発射して炸裂している「てつはう」が描かれている。しかし、これは鉄砲ではなく、火薬をつめた鉄球だったらしい。中国では火薬は古くから知られており、硝石・硫黄・木炭の合成による火薬の作製は、すでに唐代(618〜907)に成功しているといわれている。そして、火薬と石弾を鉄の筒から発射する素朴な大砲のようなものも宗代(960〜1279)には使われだし、14世紀から15世紀になると神機火槍(しんきかそう)という鏃(やじり)のような一種の弾丸を発射する火器もつくられている。
 このような種子島銃以前、中国系火器は、しだいに日本にも知られるようになった。しかし、この1510年頃日本に伝わったとされる中国系火器は、性質からいうと大砲を小型にして携帯用にしたもので、性能が低かったようである。そこで、これが武器として日本で広く活用される以前に種子島銃が伝えられ、これが急速に普及したために、中国系のものはそれなりになってしまったと考えられる。西洋の火薬・鉄砲の使用は、中国にくらべるとおそくはじまったが、16世紀にはいったころのムスケット銃(?)は、命中率・飛弾距離・破壊力など、どの点をとっても中国系のものよりだんぜん優秀だったということである。


6、火薬製法の広がり

 つぎに鉄砲と切りはなすことのできない火薬の問題である。火薬の主要成分である硝石は日本には産出しないが、中国はその多産国であった。日本で使用される火薬がすべて南蛮貿易による輸入品であったと考えるのは無理があり、中国の硝石も多く輸入され、国内での火薬の製法が急速に広まったと思われる。
 「鉄炮記」には、種子島時堯が、火薬調合の技術を篠川小四郎に学ばせたと記してある。また、「種子島家譜」の天文18年(1549)の部分によれば、将軍足利義輝が、時堯に、南蛮人直伝の火薬調合の秘伝を伝えてくれるよう、近衛植家(たねいえ)を介してたのみこみ、時堯も、これを他にもらさないという約束で義輝に伝えることとしたことがはっきりしている。
 その後、鉄砲の急速な普及にともなって、火薬も急速に普及していくことになる。火薬製造の技術は、のちに平和な時代になると花火を作り出した。


7、おわりに

 久しぶりに満足している。知らないことを知ることは、すごく楽しいことであることをあらためて知った気がする。自分でもった興味や疑問を、好きな仲間と一緒に勉強していくのは楽しいものである。疑問が解けたと思ったら、また疑問が浮かぶ。これを次々と調べていくのが面白い。今後もテーマを見つけて、やっていきたいという気にさせられた。
 さて、調べていく中で、小説「リスボアを見た女」(阿刀田 高著/新潮社/平成7年10月刊)が、この鉄砲伝来をモチーフにした展開であるという話を聞いた。今度、読んでみたいと思う。次回は、どんなテーマでやろうかな?

2000年1月19日 加藤 誠一

☆主な参考文献☆

  1975年 小学館刊/永原 慶二 著/「日本の歴史 第14巻 戦国の動乱」
  1990年 日本規格協会刊/山本 晃 著/「ねじのおはなし」
  1997年 山川出版刊/石井 進・笠原一男ほか13名著/「詳説 日本史」

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