山形県天童温泉へ(旅日記…その4)

 さて、旧東村山郡役所へ向かうせいちゃんである。ところが、ここでも大ピンチ。せいちゃんの暑がりと体力不足は恐ろしい…。舞鶴公園からの下りの道でもハァハァ…言っているのだ。やれやれである。旧東村山郡役所に到着した時には、汗がべっとりであった。

 旧東村山郡役所は、『明治11年に郡制が布かれたことに伴い、東村山郡役所として明治12年10月に落成したものである。山形県下に残る明治時代の洋風建築としては、もっとも古い時期のものに属している。明治14年には、明治天皇御巡幸の際に行在所として使用されしました。創立期の郡役所建築、明治初期の洋風建築を知ることができる貴重な文化財です。また、天童の歴史・文化・有名人などに関する資料なども展示されている。この資料は、すべて市民の寄贈・寄託、そして市蔵によるもので、市民の手作りによる資料館。』である。

 というような場所が、旧東村山郡役所であるのだが、せいちゃんは観光マップだけを頼りに、「舞鶴公園から近いし、将棋博物館にも近いから、ついでに見に行こう!」と思いたったのである。さて、行ってみると古きよき時代をしのばせる洋風建築の建物が、石段の上に堂々と建っている。もちろん、復元された建物ではあるが、古めかしい良い感じがした。

 観覧料(200円)を払おうと受付へ行くと、受付の方が親切に休憩室へ案内してくれた。そこにはクーラーがかかっており、さらに冷たい飲み物も用意されていた。しばらく休んでいる間に、外は雨が降り始めた。もちろん傘は持っていなかったが、館内に入ってから雨が降るとは、せいちゃんの日頃の行いが良いおかげであろう。行いが悪かったら、舞鶴公園の頂上で降っているはずである。勝手にそんなことを思いながら、郡役所を出る頃には雨が上がっていることを確信しているせいちゃんであった。
 いよいよ観覧である。あまり広い館内ではなかったが、館内も静かな落ち着いた雰囲気で、様々な資料が所狭しと並んでいた。実は…せいちゃんは、こういった郷土の歴史・文化・人物などの資料館・博物館は嫌いではないが、この後に行く予定にしていた将棋資料館に心が飛んでいた…やれやれである…。せいちゃんは、将棋・花火などの品物(?)の歴史には興味が強くなる場合があるのだ。

 さて、郡役所を出発した当初は、行いがよかった…と思わせるように雨は上がっていた。しかし、これは罠だった。It’s a Trap!である。少し歩くと雨が降り始め、罠にはまったせいちゃんを天は笑っているようであった…。自分の行いを振り返りながら、神様もせいちゃんの才能に嫉妬しているんだなぁ…などと不届きなことを考えていたのだった。

 天童市将棋資料館は、JR天童駅と併設されている。だから、JR天童駅から歩いて0分。JRで天童市に降り立ったと同時に楽しむことができたのである。知っていたら、到着した日に行っていたのに…。少し悔やまれる…。しかし、来れたのだから、どちらでもいいことだ。胸をワクワクさせながら、入館した。ちなみに入館料は300円であった。

 天童市将棋資料館は、『将棋の発生と日本への伝来・世界の将棋・駒の制作工程など、将棋と将棋駒に関する資料を分かりやすく展示している。』のである。

 日本では将棋は既に平安時代から遊ばれていたらしい。将棋駒が、その時代の遺跡から出土しているのだそうだ。清少納言や紫式部の時代から将棋があったとはなぁ…。せいちゃんは、はじめて知ったのである。しかも、その時は将棋駒の動き方も今とは違うし、将棋駒の種類も多い。将棋盤も8×8マスではなくて、とんでもなく広いものがいっぱいあった。

 他国の将棋も紹介されていた。チェス程度しか知らなかったせいちゃんだが、世界に将棋に似ているものが、こんなにたくさんあるとは知らなかった。古代インドの「チャトランガ」、中国の「シャンチイ(中国象棋)」、韓国の「チャンギ(韓国将棋)」、タイの「マーク・ルック(タイ将棋)」…これらが展示されていたが、それぞれの将棋駒にも特徴があって面白かった。他国の将棋と日本の将棋の最大の違いは、日本の将棋は「とった相手の駒を、再び自分の駒として利用できる」ということだそうだ。これは日本の将棋だけのルールである。これによって戦略が広がり、難しさと同時に面白さも増したのは当然である。

 将棋駒の制作工程も丁寧に展示してあった。将棋駒にも様々な種類がある。大きく分けると、スタンプ駒・書き駒・彫り駒・彫り埋め駒・盛り上げ駒の5種類があるのだそうだ。更に、書体には楷書体・草書体があったり、黒色・朱色などで表裏を書き分けたりするので、細かく分ければ、かなりの種類になるようだ。

 ちなみに、天童伝統の将棋駒は草書体の書き駒である。天童で将棋駒が作られるようになったのは、天保2年(1831年)織田藩が高畠から天童へ移館するに伴って、将棋駒の制作技術も一緒に導入されたのがはじまりだと考えられているのだ。将棋駒制作は、織田藩では武士の手内職として奨励されており、これによって現在の天童将棋の基礎が築かれたということらしい…。将棋駒の歴史も非常に面白いものである。

 将棋駒生産量日本一の天童市ならではだと思うのだが、歩道のアスファルトには詰め将棋らしきものが描かれてある部分が所々に見ることができた。また、ポストの上の将棋駒の飾り(旅日記その1参照)などをはじめ、街のいろいろな場所に将棋駒をかたどったものを見ることができる。分科会会場となっていたホテルのロビーでは、画像のような椅子と机(?)を発見もした。せいちゃんは、当たり前のことなんだろうけど、「将棋の街だなぁ…」と感じずにはいられなかったのである。こんな感じで、とにかく「○○の街!」という感じでインパクトの強い場所って結構好きだなぁ…。

 こうして天童での最後の夜を迎えるのであった。最後の夜…「最後」というのは、それだけで飲む量が…。おかげで、ぐっすり眠れたのを覚えている。いよいよ翌日には天童ともお別れである。松山へ向かう前に…もちろん、東京自由行動が楽しみなのである。えへへ。


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