大円寺
番外
寺名 大円寺(だいえんじ)
山号 松葉山
宗派 天台宗
所在地 東京都目黒区下目黒
SPOT
目黒駅で降りて、目黒雅叙園のほうへと下っていく坂が「行人(ぎょうにん)坂」。
車が一台通れるほどの坂ですが、車が、滑り落ちていかないものだと、感心するような急坂です。その坂の途中に、大円寺があります。小さなお寺です。
境内の石造五百羅漢像が圧倒的存在感です。
寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。
1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。(放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。後に市中引き回しの上、火刑に処された。)
五百羅漢像は、この火事の犠牲者追悼のために作られた、とされている。
死者は1万5千人、行方不明者は4千人を超えた。江戸の町の1/3が焼けたと言われる。
江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。
目黒雅叙園 百段階段は、ここ


Snap shot
本堂 石造五百羅漢像
手水舎
前に立つと、水が出始めます。
本尊 “生身の釈迦如来像”
開扉されていませんでしたが、清涼寺式釈迦如来立像(高さ167センチ)。
山手七福神の「大黒天」 阿弥陀堂

kazu_sanの一言
この寺には、「八百屋お七」の碑があるということを後で知った(笑)。写真撮り漏れです。
お七と吉三(きちざ)の悲しい物語がある。
お七(千葉県八千代市で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となったので八百屋お七と呼ばれている。)は江戸の大火で寺に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、故郷の長妙寺に埋葬された。
お七、15歳であった。
当時の法では、15歳未満なら罪一等減じられた。
「十四と云えば助かるに 十五というたひと言で・・・・・・」
その後、浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用され有名になった。
吉三(きちざ)は、その後、明王院で仏門に入り西運と称した。
明王院は、ここ大円寺と合併したので、吉三の位牌や碑が、ここにある。
「放火未遂」で死刑というのは、当時、江戸の人にとって火事と言うのは大変なことだったということですね。


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