奥嵯峨野3景 |
番外 祇王寺(ぎおうじ) 落柿舎(らくししゃ) 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
二尊院から少し歩けば、そこは奥嵯峨野の名所が一杯。
その中から、3ケ所。
SPOT 祇王寺 嵯峨野の奥まった所にある、この寺には華美さはない。
小さな庵があるだけながら、いつもいい写真が撮れる。
晩秋の頃は、一面に散った紅葉が美しい。
それ以外の時は、苔むす庭が最高。日差しの加減でいろんな雰囲気が出る。
庵内には、大日如来を中心に祇王.祇王の母(刀自−とじ).妹(祇女)と仏御前の4人の女性と平清盛の木像が祀られている。いずれも鎌倉時代の作。控えの間の吉野窓
何とも言えない優しい雰囲気です。
祇王寺の悲しい物語
平家物語では、清盛は、当時都で評判の高い白拍子の名手、祇王を寵愛し、西八条の邸に抱え、祇王の妹祇女や母とじも庇護され一家は大いに栄えた。
その後、都で人気の高い白拍子の仏御前が清盛に自分を売り込みに来た。
仏御前は、五重塔の塔守の娘として生まれ、幼い時から仏法を信じ、仏と呼ばれた。14歳の春に京に上り、白拍子となる。天性の美貌に加え、舞や歌に秀でていた。
しかし、清盛は仏御前と会おうとしない。仏御前が淋しく邸を退出しようとしたとき、祇王がとりなし、会うことになった。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおいた。
その時の祇王の歌
萌え出づるも 枯るも同じ 野辺の草 いずれか秋に あはではつべき
傷心の祇王は、21歳の若さで尼となり、嵯峨野の奥の山里、往生院(現 祇王寺)に庵をあんで、同じく尼となった母とじ(45歳)、妹祇女(17歳)とともに念仏三昧の日々を送る。
そんなある日、仏御前が突然尼姿となって庵を訪ねてくる。
仏御前はいずれ我が身も捨てられる身である、今までのことは許してほしい、許そうと言われるならば、一緒に念仏を唱えて極楽浄土の同じ蓮の上に生まれたいと申し入れる。
仏御前はこのとき17歳であった。
翌年身篭っていることが分かった仏御前は、故郷に帰る途中、白山麓木滑の里で清盛の子を出産、子は亡くなった。その後、現在の、小松市原町に住むが、21歳の若さでなくなる。
諸行無常の平家物語らしいお話し。祇王寺には仏御前の木像はあるが墓はない。
SPOT 落柿舎
芭蕉の門人、向井去来の遺跡。
芭蕉は、ここに三度訪れている。
ここは、何と言っても「柿」がないと絵にならない。幸い適当な量が残っていた。いつ来ても雰囲気のいいところ。少なくとも、芭蕉よりは来た回数が多い。
母娘の二人連れが、観光用の人力車に乗って来ていたが、それも不思議と風景になじむ。
去来の名前については、五木寛之さんの推測が面白い。
真の世界から来た人のことを「如来」と呼ぶ、向こうを向いて去っていく仏のことを「如去(にょこ)」という。この二つを合わせて、「去来」と付けたのでは..二尊院の後に、訪れるのには、最高の場所のようだ。ここには、俳句みくじというのがある。
早速やって見た。
第一番大吉
蓬莱に 聞かばや伊勢の 初便り
正月気分一杯
家内も引いて見た。
第十二番
四方より 花吹入れて にほの波
にほのうみは琵琶湖の別名。
早春の琵琶湖を歌ったもの。
いずれも芭蕉の句。
全部大吉ですか?と聞いたら、どうやらそうではないらしい。
SPOT 常寂光寺
仁王門
南北朝時代の藁葺きの門なのが珍しい。本圀寺から移設されたもの。
多宝塔 重要文化財
京都町衆の個人が寄進したもの。
秀麗さは、石山寺多宝塔と比肩される。