清水から駿府城
日本平ホテル 将軍池
本当は、この向こうに富士山が見える予定であったが、残念ながら天気に恵まれなかった。
「八人会」という20年も続いているグループの今回の旅行は清水から駿府城である。
2008.11.15〜16
「華麗なる一族」の黄金の鯉が出てくるロケ地がここ。日本平ホテルの庭園。
今は、あの鯉の名前を取って、将軍池と名付けられています。
天気が良ければ、この向こうには富士山が見えるはず。残念!!
テレビでは神戸が舞台なので富士山はCG処理したそうです。この写真のように(笑)見えた。
華麗な一族の夢の跡  万俵家のモデルの岡崎家の元庭園
八人会のページ
前回の清水往訪記
駿府城

SPOT
メキシコの「トトナカ族」の少女の像
宮城島 隆夫 作
清水駅からは無料バス
エスパルスドリームプラザの観覧車 エスパルスドリームプラザに、いざ入場
清水港 ヨットハーバー 清水マリンパーク
一同で記念写真。後方のマンションがペトマサさんの住居です テルファークレーン(木材積込み用クレーン)
右側の黒いのです。
日本で現存する唯一のテルファーとして登録有形文化財です。
エスパルスドリームプラザ
左のオブジェは、The Sailing Bell
新静岡市誕生を記念。角度によりハート型に見える
清水マリンパークからのエスパルスドリームプラザ
オーシャンプリンセス
観光船です。
渡船「フェルケル」。エスパルスドリームフェリーが"水上バス”の名称で運行する渡船
静岡県警の巡視船 次郎長宅跡 「末廣」の記念碑
石碑には「ここより50メートル東」とあったような気がする。(笑)
上の写真の、渡船乗り場辺り?-確認必要です。
こんなのもありました。日中友好の碑。 フェルケール博物館
前身は「清水港湾資料館」
「フェルケール」とは「交通」、「交際」を意味するドイツ語。
フェルケール博物館
「人・海・未来がふれあう――”みなと”」をテーマに、単なる資料の展示から脱皮して、人と海のより深いふれあいの場を目指すとのこと。
第七代鈴木与平像
この町では有名な「鈴与」の第七代社長。この博物館の創立者。
フェルケール博物館の館内 西尾太加二 展 (立体) ―アルファベットな森―
日本のわざと美 −重要無形文化財とそれを支える人々−展も開催されてました。
単なる博物館でない意気込みですね
フェルケール博物館の館内
「樽廻船」ですね。すごい迫力です。
フェルケール博物館の館内
ロープワークと言います。
船乗りの基本技術です。アートです。
缶詰記念館
わが国で初めてまぐろ油漬缶詰を製造し、アメリカに輸出した清水食品株式会社の創立当時の本社社屋が移転されて来てます。
清水市の缶詰産業がスタートを切った建物です。
ここは、サッカーの清水エスパルスのホームタウンです。みんなが見てるのは、選手の足型のプレート
元GKの中原幸司の手形プレート 「末廣」 清水次郎長宅
ここに移転されています。
末廣を上から見た写真。
ペトマサさんのベランダから撮影
成りきってます、蜂谷さんと福伝さん
みんなの声援についにやってしまいました(笑)
左は人形。右は蜂谷さん。拍手、拍手。
次郎長三国志 今、清水で封切り中の2008年の映画です。
マキノ雅弘の甥の津川雅彦が、「マキノ雅彦」名義で監督。清水次郎長:中井貴一 、お蝶:鈴木京香
津川雅彦の色紙がありました。
清水次郎長のご自宅
英語の勉強中
ペトマサさんのご自宅
宴会中
次郎長生家 次郎長生家の中
次郎長生家のお土産 ジャンボドラ焼き 風月堂 写真はお店。
ペトマサさんからみんなへの手土産。大きいですよ。
梅陰寺
臨済寺妙心寺派に属し、開山は足利時代
次郎長一家の菩提寺です。お墓が並んでいます
旅姿三人男の歌碑 次郎長石碑
石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表している。
蜂谷さんも、このポーズで写真撮りました(非公開です)
次郎長関係の博物館もあります 本日の宿、日本平ホテルの庭
おっ、「将軍」だ。 冬桜
記念写真です 2次会には、ペトマサさん差し入れの「清水港次郎長」が。宴会の写真は非公開です(笑)。
翌朝の散歩 天気は悪いが茶畑は綺麗 日本平美術館
日本武尊(やまとたけるのみこと)像 日本平の石碑
富士山が見えるはず.....
山頂は秋でした。
右はデジタル放送の塔
赤い靴の母子像
何故、ここにと思う人は、ここ
日本平山頂 富士山は見えず 本当は、ここからは、こう見えるはず(笑)
皇帝ダリア
「ツリーダリア(木立ダリア)」の別名がある。
野あざみ
この後、久能山東照宮に行きました。
こちら
駿府城 駿府浪漫バス 「家康公」
駿府城に着いた。徳川家康の築城
東御門橋の前にホテルの送迎バスが着いた
東御門(櫓門)
二の丸巽櫓 本丸堀
ここは3重の堀で囲まれているという特有な形式の城です。これがもっとも内側の堀
左の巽櫓のところが2番目の堀。
城内は秋 二の丸水路
本丸堀と二の丸堀を結ぶ水路
紅葉山庭園 築山は富士山を模している
富士山の前は、茶畑?、美しい砂浜は三保の松原? ここには駿河が凝縮されています これは築山からの景色
どこから見ても素晴らしい庭園です
ドウダンツツジ 家康公の鷹狩りの像の前
お手植えのミカンも近くで一杯なってました。
わさび漬け発祥の地の碑
お土産に、わさび漬けを買いました
静岡駅までの長い帰り道にありました。
消火栓にも富士山が。右は登呂遺跡でしょう。川は安倍川かも。お疲れ様でした。

【次郎長のお勉強の結果】
「旅姿三人男」
清水みなとの名物は お茶の香りと男伊達 見たか聞いたかあの啖呵 粋な小政の粋な小政の旅姿

幕末、明治維新にわたり、全国にその名を轟かせた世紀の大親分。
その前半生は「博徒の親分」森の石松や、大政、小政、法印大五郎等々、1000人とも言われる多彩な部下を抱えた「義理の人」だった。そして、後半生はまさに「人情の人」。
明治元年(1868)9月18日、徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。次郎長は傷ついた徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬った。それに感銘したのが山岡鉄舟。
山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を得た次郎長は大きく変わる。
有度山(清水市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋、などの地元事業のほかに、明治8年には山岡鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。
自らも鍬を握り十年にわたって開墾に励んだ。
明治9年に清水に英語教師を招いて若者の英語教育を始め、蒸気船の必要を力説し、自らも所有して清水港と、その発展に尽力した。 晩年、次郎長67才の時、波止場に汽船宿『末廣』を経営。
明治26年6月12日、74才で大往生をとげた。遺骸は、妻のお蝶(三代目)、大政、小政らの子分らの墓に守られて梅蔭寺に眠っている。
【赤い靴のお勉強の結果】
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

歌詞は、実話を題材にして書かれたという。
静岡県清水市出身の岩崎かよの娘・きみがその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。
岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、結婚する。きみが満3歳の時、北海道の開拓農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。
やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられてしまう。
きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。
野口雨情は、この話を聞いて作詞したと言う。
像は、ここ清水、横浜、北海道、東京の孤児院跡、等々にあります。
赤い靴をはいてた女の子 ブログ


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