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文字鏡契冲と國語問題              

 

文字鏡研究會會報(合本)(平成十二年十二月)所載

今昔文字鏡フォントの利用例


歴史的假名遣入力ソフト「契冲」への

正漢字フォント「文字鏡契冲」の導入

                                市 川      


かつて「漢字はタイプライターなる文明の利器に適してゐない、日本は早く漢字を廢止しないと文明に後れてしまふ」と大學者から庶民に至るまでがさう信じたのがつい半世紀程前のことであつた。

それが今や今昔文字鏡の登場によつて、ウィンドウズといふ「文明の利器」の上で八萬字の漢字を自由に扱へるやうになつたのである。技術の進歩を考慮しない議論が如何に見通しを誤らせるかを示す好例である。

但し、字種の面からの不便は解消したものの、JIS環境では依然として正漢字(謂はゆる康煕字典體または舊漢字)が出力できないといふ問題が殘されてゐる。

JIS環境下では、例へば「学」に對する正漢字「學」は第二水準に登録されてゐるので簡單に出力できる。しかし、「状」や「歴」などは、常用漢字字體の「状」や「歴」が第一水準に登録されてゐるのみで、それらの正漢字は第二水準にも登録されてをらず、出力は原則として不可能である。

どうしても出力するには、個人的に外字を作成するより手段が無く、しかも個人的な外字であるため、通信などでは文字化けを惹き起すなどの問題がある。

今昔文字鏡では、「状」でも「歴」でも、その正漢字が「基本字」として登録されてゐるので、これを貼附けることにより出力が可能となつた。しかし、それでも通信上の問題はなほ開發を要し、また手動での貼附は、手間が掛るだけでなく、切替漏れの防止も大きな問題として殘つてゐる。


此の問題を解決する方法として筆者は、JISの文字番號とその文字の正字體を、一つのシステム的なプラットフォーム上で結合するといふアイディアを考案し、「宣長」といふソフトに纏めた(『國語國字』第百五十七號 平成四年十一月一日)。この時のプラットフォームは組版システムSMIEDIANであり、此の基本概念はコロンブスの卵に過ぎないが、特許として成立した(平成十年八月)。


その後、パソコンのアプリケーションの中でのフォント切替機能が充實し、且つ今昔文字鏡の登場があり、上記のプラットフォームとして「フォント」の利用が可能となつたことを承けて、今昔文字鏡の中からJIS登録漢字に對應する正漢字を輯録したフォントを開發し、「文字鏡契冲」と名附けて平成十二年十月發賣となつた。


一口に「正漢字」と言つても、正漢字とは何かとなると議論紛糾してとても結論が出せるものではない。しかし一方、一つの字種に文字番號は一つしかないから、どの文字形を選擇するかは、開發者の責任に於ての決斷が必要であり且つせざるを得ない。

「文字鏡契冲」では正漢字として、先づ常用漢字表の括弧内文字を最優先とし、その他は原田種成先生の御指導を基本に、殆ど今昔文字鏡の基本字を採用した。從來の明朝體はデザインを重視する餘り、畫數を正確に表してゐない憾みがあつたのを、今昔文字鏡の字形がこの難點を克服してゐるのも好都合であつた。

細いデザイン差の問題では、例へば、「辛」はどの文字に使はれる場合でも起筆は「丶」でなく「一」とするなど、整合性を優先させることとした。


ウィンドウズのアプリケーションでこの「文字鏡契冲」をフォントとして指定すると、例へば「れきし」「いらいじょう」と入力すれば、直ちに「歴史」「依頼状」と變換される。此の例で「歴」「頼」「状」などの漢字は從來JIS環境下では出力できなかつたものである。この場合通信の受信側に「文字鏡契冲」がなくとも、常用漢字字體での出力は可能なので文字化けすることも無くなつたのである。


それにしても、當用漢字字體表の及ぼした影響は計り識れないものがある。「學」に對する略字の「学」を簡略慣用と認める程度はまだしも、點畫の整理と稱して、無意味な字體の改變を行つて、徒に異體字を増殖した。

それだけでなく、例へば、別説もあるが、「突」の點を省いたために、穴から犬が飛出す樣が「突」といつた文字の成立ちに兒童や初學者が興味を持つことを妨げ、漢字嫌ひを助長する弊害を齎した。

これは、漢字全廢の前段階施策としては意味があつたかもしれないが、漢字假名交り文を標準表記とする以上早急に見直すべきであらう。

今般常用漢字表外字の字體に關して、國語審議會が正漢字を標準とし、若干の略字體を簡略慣用と認めるとしたのは、その一歩であり、近い將來常用漢字表に於ても正字體、謂はゆる括弧内文字が標準となることを期待したい。


同じことが假名遣に就いても言へるのではないか。これも戰後、「表音文字こそが最も進化した表記手段である」と漢字廢止と符節を合せるやうな議論に從つて、假名が表音文字として位置附けられ、これに對應するものとして「現代かなづかい」が制定された。

しかし、鎌倉時代、藤原定家が初めて假名遣といふ形で意識したのは、漢字から發明された假名の表記法の統一性と連續性であつて、江戸時代、僧契冲の理論構成もこれを受け繼ぎ、更にこれが明治以降の研究を踏へてやうやく歴史的假名遣として定着したと見るべきであらう。

このやうな歴史的經緯からすれば、「現代かなづかい」はこれまでの假名遣の概念とは全く異質であることは明らかであり、その異質性の故に古典文語と現代口語とに大きな斷絶が生じ、一般國民は民族の文化遺産に接することが出來なくなつてしまつた。

祖先の文化傳統を單なる博物館の死藏物としか認識しない時代が半世紀近く續いた後に到來したコンピューター時代に、歴史的假名遣を對應させようとする試みなどあらう筈も無かつたのである。


そんな時代の趨勢の中で、筆者は偶々パソコンワープロと出會つた。假名漢字變換といふ素晴らしい技術は、日本語が情報技術に適應できないとする通説を破るだけでなく、パソコンが文字媒體の主流となることを十分に豫感させるものであつた。

コンピューター時代へ向けて花々しく出帆しようとするこの船にはしかし、正字・正假名と呼ばれる表記體系を積み込む豫定も場所も無かつた。筆者の開發したもう一つのソフト「契冲」(平成五年)はコンピューター上で歴史的假名遣に對應するもので、その意味でぎりぎり積み込みに間に合つたと言へようか。


假名遣に就いても諸説があるが、偶々山田孝雄監修・小島好治編の「假名遣ちかみち」の覆刻に携はり、山田忠雄先生の最近の研究を踏へた訂補を頂いたので、これに準據することとした。

管理工學研究所の「松茸」の進化と共に、最初はMS-DOSから、DOS/V、ウィンドウズ3・1を經て、同95,98、2000對應と進むに從つて、内容が少しづつ改良され、媒體もフロッピーディスクからコンパクトディスクになつて、正漢字及び常用漢字の別に加へ、「おもう」と入力して「思ふ」と變換される學習版を含めて合計四種の變換方式を一括搭載することで切替使用が可能となり、ウィンドウズ上であれば、どのアプリケーションでも歴史的假名遣の變換を自由に行ふことができるやうになつた。

これは複雜不合理といはれた歴史的假名遣が、實は文語、延いて口語の文法體系を正確に反映したものであり、いざシステムに組んでみると、それら文法規則がものの見事に假名漢字變換システムと整合し、論理的に明快なソフトとして利用可能になつたからに他ならない。

歴史的假名遣がこんなにもコンピューターと馴染が良いのかと驚くと共に、先人の業績の偉大さに深い感銘を覺えるのである。


今囘この「契冲」に「文字鏡契冲」が同梱され、これを上記四種の内二種ある正漢字變換方式に適用することにより、正書法、謂はゆる正字・正假名の文書をパソコンで完璧に入力、編輯そして出力することができる。

戰後、正字・正假名の印刷には校正も困難を極めた上に、特別に活字の鑄造を必要とし、その活字も活版印刷の衰頽と共に手に入らなくなり、一方急速に進歩しつつあるコンピューター組版では、上述のやうに「現代假名遣い」とJISの文字以外、殆ど對應不可能といつた數々の惡條件に惱まされてきた。

その正字・正假名がやうやく今日主流の文字媒體上に生存可能となつたと言へよう。今昔文字鏡と共に「契冲」と「文字鏡契冲」がその契機となつたとすれば幸ひこれに過ぐるものはなく、博く江湖の御活用をお願ひしたい。「契冲」の御購入方法


最後に、此の開發に當つて懇切な御教示を賜つた上記の故原田種成先生、故山田忠雄先生、また、本ソフトに不可缺な「松茸」及び「今昔文字鏡フォント」の利用を御快諾、御協力頂いた管理工學研究所竝びに古家時雄エーアイ・ネット代表取締役に心からの感謝を捧げる者である。更に本稿に關聯して、假名遣に就いての玉稿を賜つた國語問題協議會副會長 林 巨樹先生には漢字、假名遣のみならず國語全般に亙つての御指導を頂き誠に有難い仕合せであり、そして掲載に當つて御援助下さつた谷田貝常夫先生に厚く御禮を申上げます。


平成十二年十一月