works

季節を感じたり
涙が出るほど笑ったり
ちょっぴり淋しい夜
ほんの少しでいいから
誰かに話を聞いてもらいたい。
日記のような
手紙のような
エッセイです。
ラテ1杯分の幸せ
平成20年11月17日
降りたことのない駅での待ち合わせは
約束の30分前に着くようにして
見知らぬ街を1人ふらふら。
スタバあたりで時間までお茶をするのが
私のお得意のパターンである。


待つことは・・・あまり苦にならないし、嫌いじゃない。


誰かが自分のために逢いにきてくれるなんて
異性でも同性でも素敵なことだし
私は待たせることの方がよっぽどイヤぢゃ~。


遠い昔・・・デートのときに
人込みの中から手を振る姿を見つける
その瞬間が切なくて好きだった。
とにかく早く逢いたくて
いつだって何分も前から約束の場所に行った。

待ちぼうけの最高記録は
車の中で3時間も待ち続けて夜10時。
腹ペコに負けて(またかッ!)
ハンバーガーなんぞガッツリ食べてるところに
待ち人が息を切らしながらやってきて
大口あけてたもんだから
思わず焦って二カッと笑ったら
「何で怒らないんだよ」って
その人の方が泣き出しそうな顔をしてたことがあった。
あああああ・・・青春やな~。


これまた、遠い遠い昔・・・
落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」という本が
流行ったことがあったけれど。

服を選び、髪をととのえ、ハミガキをして家を出る。
iPodで好きな曲なんぞ聴きながら
スタバにてラテ1杯分の幸せ。
その人に逢うためだけの時間をゆっくりまったり味わい
窓の外の木枯らしの街を
ぼんやりと眺めるのが好きだったりする。




自分の時間はいくら無駄に使ってもかまわないけれど
人の時間は、絶対に、絶対に
無駄にしちゃいけないと私は思ってます。
そこんとこ、とっても大事ですよ~ん♪
泣く日
平成17年8月10日
今夜は泣く。
私はそんな時間をときどき作る。
一人の夜・・・
それが静かな雨の夜であればなおさらいい。
懐かしいバラードと
シャンパン1本分の力を借りて
私は知らず知らずのうちに
降り積もった哀しみを涙とともに洗い流す。
何があったわけでもなく
降り積もった哀しみを
わざと溢れさせてみる。

生きるのがしんどくてしんどくて
仕方なかった日々のことを
ゆっくりと辿れば・・・
私は本当にたやすく泣くことができる。
まるで、哀しみという飴玉をじっくりと味わって
口の中で転がしているような
・・・そんな感覚。

ただ、浸っているだけなのかもしれない。
過去を振り返ることで
今の自分を確かめているのかもしれない。
あの・・・自分にしか分からない心模様。
私の経験が今の私をつくったのだと
あらためて想い出させてみる。

すると・・・静かに降りしきる雨は
渇いた土に、緑に、そして心に
スーッと染み込み
私は泣くことで癒されてゆく。
涙のあとに訪れる心地よい疲れは心を鎮め
まるで浄化されたように
深い深い眠りに落ちることができる。

どんなに時が流れても
どんなに幸せでも
私はときどき泣く日をつくるだろう。
心の中でなら何処へでも行ける。
心の中でなら誰とでも逢える。
心の中でなら・・・泣き虫で弱虫な少女を
抱きしめてやることができる。

泣く日・・・
それは私にとって心を癒すための
大切な大切な夜のこと。
kEIKOよ!NOVAへ行け!
平成19年3月29日
わたくしが人生最後のナンパをされたのは
そう・・・33歳の11月。

渋谷のHMVで
マドンナのCDをながめていたところ
黒人のお兄ちゃんがしつこく話しかけてくる。
「オー! マドンナ! ノー!ノー!」
「ユア ビュ~チフル~♪」
とか何とか言って
どうやら茶でも飲みに行こうと
口説いているらしかった。

カバヤロー。
私は、結婚記念日デートの帰りだったので
ダンナマンの姿を必死に捜したが
どこにもいや~しない。
ニコニコと腕をひっぱる黒人のお兄ちゃんに
私は左手の薬指の指輪をかざして
「ハズバンド!ハズバンド!ハズバンド~ッ!!!」と
HMV中に響きわたるような大声で
ダンナマンを呼んだのであ~る。
もちろん・・・まわりの客はひたすら失笑。
ダンナマンの姿を見つけるなり
黒人のお兄ちゃんは
「オーケー♪ オーケー♪」と肩をすくめて
その場を立ち去っていった。

高校生のときも
切符を買えずに困っているらしい
黒人のおじさんに話しかけられたことがある。
「%&#○☆▼・・・シナガ~ワ・・・@●%△$★」
どうにか「シナガ~ワ」だけは
聞き取ることができたので
「オーケー! オーケー! シナガ~ワね~♪」と
切符を買ってあげることができた。

この間のサイパン旅行では
タクシーを呼ぶときに
ルームナンバーを聞かれたので
「イッチ・ゼロ・ゼロ・ヨーン♪」と
素晴らしく、お上手な日本語で答えてしまったら
ものすんごい困った顔をされて
ダンナマンはとなりで腹を抱えて笑っていた。

サイパン発のノースウエストのスッチーには
ジーンズの刺繍を指さされて
「ヴィダルサスーン?」と聞かれたので
「ノー!ノー!セイユー♪」と笑顔で答えてみたら
「プ・・・プリティ」とスッチーは苦笑い。

カバヤロー。
私はスッチーに「SAY YOU」と言ったわけではない。
私のジーンズは「西友」と言いたかっただけだ。
大体、ヴィダルサスーンといえばシャンプーだろ。
少しは日本語を勉強したまえ。

ちなみに・・・
私をナンパしてきた黒人のお兄ちゃんは
ウィル・スミスのようなイカした黒人ではなく
映画のチョイ役で客引きをしているような
開演5分後の死体役のような
とってもイカシテない
小さな小さな黒人のお兄ちゃんでありました。



ふッ・・・KEIKOよ!NOVAへ行け!
ウサギとカメ
平成18年12月13日
「○○ちゃんは、中学受験しないの?」

そんな質問を
今までに何度も何度もされてきた。
中学受験をする子供たちは
早い子だと3~4年生から進学塾へ通う。
春休みも、夏休みも、冬休みもなく
毎日毎日、勉強をしなければならないというのに
娘の小学校では8割の子供たちが
中学受験をしている。

何も中学受験が悪いとは思っていない。
本人に意欲があって
勉強が好きな子ならば大賛成である。
ほとんどのお母さんたちは
「本人がやる気で」と口をそろえて言うけれど
それは・・・本当に、本当に、子供たちの本心なんだろうか?
小学生が夜中の1時過ぎまで勉強したり
夏休みがたったの2日しかなかったり
学校の授業は塾より遅れているからといって
授業中に眠っていたり
そんな毎日・・・楽しいわけがない。
中学受験をしない子供たちを
「アリとキリギリス」の
キリギリスにたとえた親がいたらしいけれど
そんなにいい学校へ行かせることが
大事なことなんだろうか?
子供は、よく食べ、よく遊び、よく眠ることが大切で
一生懸命、勉強をさせるのは
中学に入ってからでも
十分に間に合うのではないだろうか?
自分が子供だったとき
何が一番楽しかったか
何が一番イヤだったか
親になると忘れてしまうんだろうか?

私は子供は遊ぶのが仕事だと思っている。
泣いたり笑ったりしながら
日が暮れるまで遊ぶべきだと思っている。
春の風にウキウキしたり
プールのあとの冷たいカルピスが
超ウマかったり
枯れ葉色の公園で駆けまわって遊んだり
雪だるまを作った手が
かじかんでジンジン痛かったり
そんな想い出たちが
心を豊かにする最大の栄養源だと
私は信じている。

私は・・・娘に中学受験をさせる気はない。
学校の授業をきちんと受けて
宿題をちゃんとやって
好き嫌いをせずにたくさん食べて
早寝早起きをして
小学生のうちは思いっきり遊べばいい。
高校受験、大学受験、就職試験
ほっといたって試練は必ずやってくるのだから
そのときは必死になって
頑張っていただこうではあ~りませんか!

素晴らしき子供時代。
まわりの人と同じでなくてもいい。
ゆっくり、ゆっく~り、大人になればいい。
キリギリスなんかじゃない。
我が家は「ウサギとカメ」のカメで行くべ~♪
DEAR FRIENDS
平成18年10月17日
笑顔だからといって
決して、心が笑っているとは限らない。
涙を流していないからといって
決して、心が泣いていないとは限らない。

私は・・・心がくちゃくちゃだったときも
ガハガハと笑えていたし
いろんな人から「悩みなんてないでしょ~」と言われてきた。
本当の気持ちなんて・・・本人にしか分からないし
本人ですら気づかないときもある。
だからこそ、一人で抱えていた心の痛みに
ふッ・・・と気づいてくれる人に出逢えたときの
あの救われたような気持ちは
とても、言葉で表現することはできない。

この間、三島由紀夫氏が美輪明宏さんに宛てて書いた
古いコラムが雑誌に掲載されていた。

「不遇のときに人よりも厚く
得意のときには遠くから見守るというのが
本当の友人である」

まさに・・・同感だった。
人の痛みに敏感でありたいと思ってきたし
声に出せないシグナルを感じ取りたいと思ってきた。
友達であれば、なおさらのことで
不遇のときにこそ、厚く、熱く、暑苦しいくらい
まとわりついてやりたい。
得意のときは「よしよし」と微笑みながら見守ってあげたい。
いつも、いつも、そう思いながら生きてきた。

人と浅く付き合うことができずに
深い場所で語り合いたがることが
私の長所であり、悲しいかな大きな短所でもある。
そんなかかわりあい方しかできないから
扉をピシャリと閉められたこともあるし
誤解されたこともあるけれど
まッ・・・性分だから仕方がないと思っております。

そんなことをあれこれと考える夜。
友達の顔を一人一人思い浮かべてみると
アイツもあの子も彼女もヤツも
私の心の中で「ニカーッ」と笑ってくれます。
人間、変わることも大切だし
変わらずにいることも両方大切だけど
今も昔もこれから先も、ずっと、ずっと、ず~っと
変わらずにいたいと思っていることが一つ。



「駆け込み寺・keiko」・・・24時間年中無休でっす♪
懺悔
平成17年10月31日
私には三人兄妹の幼なじみがいます。
私より3つ年上の兄のMちゃんと
1つ下の弟のMちゃん。
そして、2つ下の妹のNちゃん。
特に、下の二人とは大の仲良しで
公園で基地づくりをしたり
虫捕りにプールにプラモデル。
日が暮れるまで毎日のように遊びまわりました。
父親同士が友人で、母親同士も親交が深く
私が赤ん坊の時からの付き合いで
週末の度に、家族ぐるみで食事に行ったり
釣りやバーベキューに行きました。

彼らの家はとてもとても裕福で
祖父母の家なんか大豪邸。
何十坪もある芝生の庭には川が流れ
銅像やお茶室までもがあり
一緒に遊びに連れてってもらう度に
エンゼルパイを食べるような感覚で
虎屋の羊羹を食べさせてもらったものです。
けれど・・・私が小学生の頃までは
景気のよかった我が家も
父の会社が倒産しドン底の生活に。
元々、幼なじみと生活レベルの差は
天と地ほどにあったものの
倒産後、無収入になった我が家と
彼らの暮らしぶりとでは
天と地獄ほどにかけ離れてしまったのです。

そんな私は中学2年生・・・思春期真っ只中。
クラスに好きな人もでき
親友がキューピッド役になって
男女四人で後楽園へ行こうという計画を
立ててもらったことがありました。
しかし・・・我が家は無収入。
当然、おこづかいなどというものは存在しない。
大好きな人と遊園地。
ジェットコースターにオバケ屋敷。
もしかしたら、もしかしたら・・・恋に発展するかもぉ~!
な~んて、淡い期待で胸がはちきれんばかりの私は
幼なじみの祖父母宅の広い広い庭の
草むしりのアルバイトをすることになりました。

それは、それは・・・暑い暑い夏の日でした。
軍手をはめて帽子をかぶり
雑草と格闘する私。
バヤリースのオレンジジュースを
ストローでチューチューチューと飲みながら
クーラーのきいた部屋から顔を出し
「ねぇ、ま~だ?」と声をかけてきたのは
無邪気なMちゃんとNちゃん。
私は・・・生まれてはじめて
顔からカッと火が出るような思いを味わいました。
兄妹みたいに育った私たち。
彼らには悪気なんて微塵もない。
けれど・・・私は彼らの無邪気さに苛立ち
今、自分の置かれている立場を
身に沁みるほど痛感し
「二度とここへは来るもんか!」と
一人勝手に傷ついていたのでありました。
(5千円はしっかりもらったくせに)

その後、弟のMちゃんが私の親友を好きになり
私は彼をはやし立てては
面白がっていたことがありました。
もう・・・ひねくれまくりの13才。
私はMちゃんの家に親友を連れて行き
親友の飲み残しのジュースを
「間接キスしちゃえ~!」などと言って
無理やり飲ませてしまったのです。
Mちゃんは真っ赤な顔をして
飲み干したジュースの缶を
乱暴にゴミ箱へ投げ捨てました。
妹のNちゃんが哀しそうに、そして、怒ったように
私の顔をジッと見つめていました。

私・・・基本的に意地悪は大嫌いです。
どちらかといえば
いじめっ子には立ち向かってきたつもり。
小学5年生の時なんか
友達をいじめる男子と取っ組み合いの大ゲンカになり
その子がロッカーの角で額を切り
救急車で運ばれるという流血騒ぎを起こしました。
クラス全員の圧倒的な支持により
先生からも父兄からも
何のお叱りもなく終わったのですが
その年の運動会のフォークダンスでは
その子が思いっきり手をつねってきたので
私も負けじとつねり返し
二人して青アザができるほど
つねり合いの「マイムマイム」を踊ったこともありました。
中学3年生の時も
友達二人を殴って泣かせた男子に
思いっきり往復ビンタをかまして
泣かせてしまったことも。

自分の中にある正義や
良いことと悪いことの線引きが
きっちりできていると思っていたつもりが
私はMちゃんに対して
とってもとっても酷いことをしてしまったのです。
悲惨な家庭環境の中で
普通の顔をして暮らすのが精一杯だった私は
知らず知らずのうちに
Mちゃんたちを妬んでいたんだと思う。
意地悪なことをしてしまったと
いつか謝らなければと
ず~っとず~っと後悔していた私。
それなのに・・・それなのにである。
私は歯医者になった兄のMちゃんの所で
タダで歯を治してもらっている上に
技工士である弟のMちゃんが作る歯に
「オイオイ、ちゃんと作れよ~」などとのたまい
技工室で無駄話をしながら
Mちゃんの仕事を中断させ
いまだに、姉さん風を吹かしているのであります。



Mちゃん・・・あの時はごめんなさい。
遠い遠い昔の話ですが
ひねくれまくりだった私をお許しください。
本当に、本当に、ごめんなさい。



あ~ッ!すっきりした!
ポキッ!ポキッ!(首を鳴らす)
さ~てと・・・またMちゃんの神聖な技工室に
仕事の邪魔でもしにいくか~♪
手紙
平成17年3月2日
友達から手紙が届いた。
彼女とは時々、手紙のやり取りをする。
他愛もない日常のことだったり
私への応援歌だったり
ちょっとした愚痴だったり。
この間、届いた手紙には
ミスタードーナッツの割引券まで入っていた。
彼女の書く文章は面白く
ほどよくスパイスが効いているので
読んでいて「プッ!」と吹き出してしまうことも多い。
作詞家としての私を支え続け
私の作品を誰よりも愛してくれている彼女。
そんな彼女からの手紙に
私はいつも、心を温めてもらっています。

叔母さんからは、節分に絵手紙が届いた。
決して上手とは言えないけれど
豪快な福豆の絵と
「いいことがある いいことがある きっと、いいことがあるよ」と
これまた、豪快な筆づかいの文字。
叔母さんは私の母の妹なのだけれど
時に、母親のようにたしなめてくれたり
勇気づけてくれたり
よき相談相手でもある。
自分の娘と一緒に某有名短大に40代で合格。
オールAで卒業して
新聞やテレビで紹介されたことが自慢の
尊敬すべき叔母である。

年賀状も暑中見舞いも
やや遅れ気味で届くけれど
毎年、手作りの葉書を送ってくれる
中学時代の男友達がいる。
個性的な彼らしい
絵も文章も独特な味わいを持つ葉書。
いつだったか、年賀状で
「太り方を教えてください」と書いてあった時は
殴ってやろうかと思ったけど~。
机に向かって一生懸命
葉書を作っている姿を思い浮かべれば
微笑ましい気持ちになれる。
手先の器用だった彼の美術室での姿を
ふと・・・想い出したりして。

手紙というものは
ゆったりとした時間の中で
相手のことを思い浮かべながら
心を込めて書くものだと思う。
携帯電話のメールとは違う
その人の文字から伝わってくる温かみ。
手紙を読む時も、書いている時も
とても贅沢な時間を過ごせたような気持ちになる。
心が・・・静まっていく感じ。
私は手紙をもらうと嬉しくて
何度も何度も繰り返し読んでしまいます。
3人に共通点があるとしたら
たぶん・・・そんな贅沢な時間の使い方を
知っている人たちなんだろう。
カチャカチャ携帯電話をいじくるのも
手っ取り早くていいのだけれど
ゆっくり机に向かって
相手のことを思い浮かべながら
心静かに手紙を書く。
とっても、とっても、大切なことだと思います。
東京タワー
平成17年1月18日
「世の中でいちばんかなしい景色は
雨に濡れた東京タワーだ」

江國香織さんの「東京タワー」は
こんな一行からはじまる。
最初の一行目に引力のある作品は
物語の世界へすんなりと導いてくれるから
私は本を買う時は必ず
最初の一行を読むようにしている。
けれど・・・今回の江國さんの作品は
私にとって、特別な引力を持ち合わせている作品だった。

私の父は、東京タワーに住んでいる。
首都高を走りながら、高層ビルの上から、テレビの画面から
東京タワーを見ると
私は必ず父のことを想い出す。
娘たちにも「ほら、ほら、あそこだよ」と
今でも指を差してしまうほど。

東京タワーが目の前にあるマンションに
父は住んでいた。
父と離れて暮らすようになったのは
いつだったか・・・
幼すぎて、はっきりとは覚えていないけれど
父は東京タワーと私と母と兄の住む家を
行ったり来たりしていた。
父の住むマンションは
いつも綺麗に整理整頓されていて
ベランダには花が植えられ
冷蔵庫には食べ物もきちんと入っていた。

父は、私を溺愛しているようなところがあって
たまに帰ってくると
私の寝顔に熱烈なキスの雨を降らせた。
真夜中に起こされて不機嫌な私に
「お土産だよ」と寿司折りを揺らしてみせる父。
私は眠い目をこすって
無理やり、お寿司を食べさせられた。
そんな時、酔った父の顔はとても嬉しそうで
タクアンをポリポリとかじりながら
お茶漬けをすすっていたのを覚えている。

父の財布の中には
私の写真が何枚か入っていて
会社の人やクラブのママさんに
「可愛いだろ?可愛いだろ?」と
財布から写真を出しては見せびらかしていた。
銀座、赤坂、六本木。
父は何軒ものクラブに私を連れまわした。
「あら~、大きくなったわね~」と
逢ったこともないホステスさんたちに
なぜか頭を撫でられた。
「フルーツ食べる?チョコがいい?」
女の人たちは皆
華やかで優しくて美しかったけれど
香水のキツイ匂いだけは
どうしても好きになれなかった。

私はその後・・・父の不在の本当の理由を知り
中学へ行かなくなった。
不登校は半年ほど続いた。
久し振りに帰ってきた父に
「学校へ行け!」と頬をひっぱたかれ
私は家を飛び出し
公園のベンチで一日を過ごした。
たくさんのことを吐きそうなくらい考えた夕暮れ。
誰が悪くて、何に怒っていて、なぜ哀しいのか
さっぱり分からなくなってしまった。
「このままでは、自分がダメになる」
そう気づいた私は
翌日から学校へ通いはじめた。

父と逢わない日々が何年か続いた時期
父は私に手紙をよこした。
「何でもいいから、お前のことを教えてください」
そう書かれた手紙は、ひどく淋しそうで
オフコースと友達が大好きだということや
部活が楽しいということを
私は手紙に書いて送った。
父からの返事はすぐに届いて
父の手紙が3通届く間に
私がやっと1通返事を書くというような
そんなやりとりをしていた。
「ラジオでオフコースの歌を聴きました。
小田さんという人は
とても美しい声をしていますね」
中学生の私にとって
一番嬉しかった言葉だった。

そんな私も・・・
大人になり、結婚をし、子供を産んだ。
父は私の写真と共に
孫の写真も財布に入れて持ち歩くようになった。
結婚式の時でさえ泣かなかった父が
私が離婚をした時には
受話器の向こうで嗚咽をもらしながら
「俺が・・・お前たちを守る」
そう言ってくれた。
けれど・・・離婚して半年も経たないうちに
父は脳梗塞であっさりと逝ってしまった。
父の死を受け入れられなかった私は
東京タワーの見えるマンションへ
車を走らせたことが何度も何度もあった。
ハンドルに寄りかかって
見上げたマンションのベランダには
いつものように花が揺れていて
インターホンを押してしまいそうな
そんな衝動に駆られた。

私は父に対して
いつも、いつも、思っていたことがある。
「そんなにも、私を愛しているなら
何で帰って来ないの?
本当は・・・愛してなんかいないくせに」
両親の愛を疑って
両親は嘘つきだと思っていた思春期。
大人の都合を理解できるようになるには
それなりに時間がかかって
大人になってはじめて
子供を産んでみてはじめて
父と母の苦しみを知ったんだと思う。

父が亡くなってから半年後。
父と一緒に暮らしていた女性から
ダンボールで8箱もの遺品が届いた。
父のスーツやネクタイ。
アドレス帳や文房具などが入っていた。
その中の真新しいノートを
パラパラとめくってみると・・・

「佳子、元気でいますか?」
「佳子、元気でいますか?」
「佳子、元気でいますか?」
「佳子、元気でいますか?」
「佳子、元気でいますか?」

ノート一面にびっしりと書かれていた父の文字。
涙があとからあとからこぼれ落ちた。
心から愛されていたことに
その時、はじめて気がついた。
母は遺品のほとんどを庭で燃やしてしまい
そのノートも焚き火の細い煙と共に
空へ消えて行ってしまったけれど
私は・・・あの時はじめて
父の愛を確かに受け止めることができたんだと思う。

「世の中でいちばんかなしい景色は
雨に濡れた東京タワーだ」
私の父は・・・今も東京タワーに住んでいます。
水色ルール
平成15年12月11日
「聞いてよ~!もう、我慢できない!」
何度、そんな言葉を
受話器の向こうの友達に叫んだことだろう。
友達も心得たもので
「ハイハイ、そうだねぇ」と
とりあえず、相づちを打ってくれる。
ひとしきり訴え終わると
いつの間にか、落ち着きを取り戻しているから
「女って、不思議な生き物だな~」
・・・とつくづく思う。

夫と結婚して丸8年。
私と夫の間には「水色ルール」というものがある。
(私が一人勝手に呼んでいるだけだが)
結婚生活とは
育った環境の全く違う二人が
共に生活を始めることで
愛情という地盤なしには築けないものだと
私は思っている。
赤の他人同士が紙切れ一枚で
夫婦になり、家族になり
顔も知らない人たちと親戚になるのだから
(それも、ある日、突然にだ)
二人のルールを作っていくには
深い思いやりと忍耐と時間が必要なのだと思う。

例えば・・・彼が青ルールの家に育ったとして
私が白ルールの家に育ったとしよう。
そこには、その家のルールというものがあり
洗濯物のたたみ方の違いから
味噌汁の濃さの違い
日曜日の過ごし方、テレビの音量
子育てにいたるまで
例をあげたらキリがないくらい
違っていることが多い。
似たもの同士と思っていたはずの私たちでさえ
結婚当初、お互いの色がぶつかり合って
ケンカになってしまうことが何度もあった。
彼は青ルールを当然のように主張し
私も負けじと
白ルールを押し通していたからだ。

私は子供と遊ぶ時、自分も子供に戻ってしまう。
ドッジボールではしゃぎまくるのも
水風船合戦でずぶ濡れになるのも
大人を忘れるための絶好のチャンスだと思っているので
子供と一緒に自分も楽しんでいる。
けれど・・・彼は子供たちと上手く遊べない。
キャッチボールも、バトミントンも、遊ぶのではなく
ボールの投げ方やラケットの振り方を指導して
スパルタ特訓を始めてしまうから
結局、子供たちは泣きべそをかいて家に戻ってくる。
当然、私は「大人気ない!」と批判して
子供と遊ぶということは
一緒に楽しむということだと訴えた。
けれど「俺は、こう育ったんだ!」と言い張る彼。
何度、説明しても理解してもらえなかった。

ふと・・・自分の父親を想い出してみる。
父は私と相撲を取ると
私を何度も畳の上に転がした。
けれど「オッ!強いぞ!強いぞ!」と
自分もわざと、それも、大げさに転がってくれた。
私は強くなったような気がして
鼻の穴をふくらませて喜んでいた記憶がある。
どうやら、彼にはそんな記憶がないらしい。
田んぼや牛の世話に追われていた彼の両親。
もちろん、子供に対して愛情が無かったわけではない。
むしろ、愛情深い両親のもとで育ったと
羨ましく思っていたくらいだ。
けれど、彼は両親と遊んだ覚えも
旅行した記憶もないらしい。
躾に厳しく、厳格な祖父母に育てられた彼は
「子供だからといって、負けてやる必要はない」
「父親は厳しく威厳がなければならない」と言ってのけてしまう。
今時にしては、珍しく、古くさ~い親父なのだ。
最近になって、やっと
理解できるようになってきたのだけれど
彼は、ただ、ただ、愛情表現が下手なだけだったのだ。
そして、私と彼との子育ての違いは
育った環境の違いと受け継いだ意思の違いが
大きく関係しているらしい。

それから・・・煙草を吸わない私と
チェーン・スモーカーの彼。
彼は多い時、一日に4箱も煙草を吸う。
まるで、機関車モクモク・ポッポーッ状態。
いくら、体に悪いと言っても減らそうとしない。
「♪~煙草の匂いのシャツに~、そっと寄り添うから~♪」
な~んて、聖子ちゃんの歌のように
彼のチェーン・スモーカーを許せたのは
二人がSWEETな頃だけで(汗)
結婚生活も長くなってくると
私は露骨に彼の煙草を嫌がるようになっていった。
もともと喉と気管の弱い私は
嫌煙家と言っていいほど煙草が嫌いだったので
ある日を境に、煙が我慢できなくなった。
私が気管支炎になっていようが
赤ん坊が生まれようが
スパスパスィーッと吸っている姿が
無性に腹立たしく
思いやりの欠けた行為に思えたからだ。
それ以来、私は新鮮な空気を吸う空気権があるかのごとく
窓を全開にして
部屋の空気を入れかえてみたり
大げさに咳込んでみたりするようになった。
もちろん、彼は不機嫌な顔をして
「公害扱いかよ!」とブツブツ文句を言う。
どうしても歩み寄れない時期が
二人にもあったのだ。

こんなふうに・・・
子育ての違いや空気権だけではなく
他人同士が一緒に暮らしていくのだから
誰だって、一度や二度、ぶつかることがあるはず。
ただ、激しい口論になってしまったとしても
お互いが二人のルールを作ろうとする
理解し合おうとする気持ちが一番大切なんだと思う。
どちらが正しいのか決めようとするから
話がややこしくなるんであって
別々のルールで暮らしていた頃は
それぞれのルールが正論であったり、正義だったり
愛情だったりしていたのだから。
お互いがここまでは譲れるというところで
譲歩し合い、折り合いをつける。
悪い意味ではなく
相手をコントロールする術を知る。
そして、家族全員で居心地のいい場所を作る。
それが「水色ルール」だと思うのです。
いつしか、青と白が自然に混ざり合い
水色ルールが生まれるのです。

日曜日、ゴロゴロ怪獣の彼を無理やり外へ引っ張り出し
子供たちとドッジボールをする。
彼に思い切り強いボールを当てて
指を差してゲラゲラ笑うと
イヤイヤ参加していたはずの彼も
ムキになって、鬼の形相でボールを投げ返してくる。
彼を少年に戻すには
大人のプライドを引っぺがすことなんだと
最近になって、その方法が分かってきたように思う。
そんな時は「しめしめ・・・ウヒヒ♪」と
お腹の中で高笑い。
しばし、少年と少女を楽しむのです。
煙草の煙にしたって同じ。
去年の冬、彼は空気清浄機を購入し
自分の指定席近くに置いた。
煙草は止められない、しかし、妻は煙草が嫌い。
そこで、彼の思いついた方法が
空気清浄機なんだと思う。
「俺は煙草好きなんだから我慢しろ」と言われれば
反発してしまっただろうけど
「申し訳ない」という気持ちを意思表示されれば
こちらも「仕方がないな~」と
不思議に我慢が出来るものなのです。
今では、私の咳払いを合図に
空気清浄機は最強レベルで
ブンブンと音を立てて回っております。

ある日・・・「最近、ケンカしなくなったね」と友達が呟いた。
そう言われてみれば
「聞いてよ~!」と叫んでいた
愚痴愚痴コールの回数が確実に減っていた。
いつの間にか水色に染まった
穏やかな日々が過ぎていたようです。
けれど、女とはやはり不思議な生き物のようで
ケンカした後、生まれ変わる新鮮な二人に
ツルンと脱皮するような感覚に
久し振りに出逢ってみたい気もするのです。
ふむふむ・・・
激辛スパイスも時には必要なのかもしれない。
もう少し、男と女でいるために♪
帰省
平成15年8月28日
私の主人は秋田県出身です。
彼の実家は、田んぼと山に囲まれた
大自然のど真ん中にあります。

初めて、彼の家に連れて帰ってもらった時
彼のお母さんは三つ指をつき
「遠い所へ、よく来てくださいました」と
初対面の私に深く深く頭を下げて
お辞儀をしてくれました。
驚いた私は慌てて頭を下げ直し
玄関先で女2人
まるで、ネジ回しの人形みたいに
ピョコピョコと頭を上げたり下げたりしていました。

その日・・・彼のお父さんは、とても無口で
反対されるのを覚悟していた私の膝は
少しだけカタカタと震えていました。
そして、お父さんはお銚子を1本あけた後
こう・・・呟いたのです。

「息子が選んだ人なんだから
今日から、わしらの娘になるんだなぁ。
そんでもって・・・娘さんは、わしらの孫になるんだなぁ。
さてさて、爺ちゃん、婆ちゃんになってしまったぞ。
来年の夏休みは一緒に帰って来なさいよ。」

私は堰を切ったように泣き出してしまいました。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」と
何度も、何度も、頭を下げて
彼も、彼の両親も、泣き出してしまいました。
もう・・・8年も前のことです。

それから、毎年、夏になると秋田へ帰ります。
娘には、お父さんができ
お爺ちゃん、お婆ちゃん、妹ができ
新しい家族ができました。
そして、大自然に囲まれた田舎ができたのです。
お父さん、お母さんは
私たちが帰るのを毎年心待ちにしていて
「ただいま~!」と玄関を開けると
「お帰りなさ~い!」と
最高の笑顔で迎えてくれます。

今年の夏、お父さんは酔っ払って
下の娘のオルガンに合わせ
「ドレミの歌」を熱唱していました。
「ソ~はソラシドファ~、ラ~はライトのラ~」と
ムチャクチャな歌詞で歌っていたと思ったら
「明日、帰る~、明日、帰る~、明日、帰るんだなぁ~」と
これまた、ムチャクチャな歌を作り
目をつぶったまま歌っていました。
その隣では・・・大人になった息子が
鼻を真っ赤にしながら涙をこらえていました。

毎年毎年、私たちは年に一度の帰省を
楽しみにしています。
娘たちは庭の畑でトマトやキュウリをもいで
そのまま、ガブリとかじりつき
あぜ道を犬のタローと駆けまわり
セミやトンボで虫カゴをいっぱいにし
満天の星空を見上げ、流れ星に歓声を上げます。
短いけれど、最高の夏を過ごします。
そして、孫たちと遊ぶ両親の姿は
私にとって「幸せの象徴」とも言えるのです。
もっと、帰ってあげられたら・・・。
もっと、もっと、笑顔を与えてあげられたら・・・。

別れ際、バック・ミラーの中で手を振る両親の姿が
何だか、とっても小さく見えて・・・。
泣き出す娘の背中をさすりながら
どうしようもなく
胸が切なくてなってしまうのです。
I LOVE SHELL
平成15年5月13日
唐突ですが・・・私は、貝殻が大好きです。
部屋のあちらこちらに
いろんな貝殻が置いてあるのです。
貝殻のライトに、写真立てに、壁飾りに、モビール。
ほとんどが海で拾った貝殻を使って
自分で作ったものばかりです。
玄関にも、トイレにも、金魚鉢の中にも
貝殻が置いてあります。

海好きの私は「泳ぐ」と言うよりも
「ひたすら潜る」と言った方がいいかもしれません。
海の底にキラリと光るサンゴや貝殻を見つけては
嬉々として潜りまくるのです。
昔、友達と行ったハワイのハナウマベイで
一人、沖の方へ泳ぎに行って
真っ青なヒトデを捕って戻ったら
「お前・・・気持ち悪い」と
バッサリ斬り捨てられたことがありましたが・・・
とにかく、一度、海に入ったら
なっかなか出てきません。
「ダイビングをやればいいのに」と
何度も言われたことがありますが
シュノーケリングの方が身軽で楽しいし
太陽の光がキラキラと届くぐらいの
海の深さが大好きなのです。

そうそう、魚と泳ぎながら歌も歌います。
ブクブクと泡を立てながら水中ハミング。
波が作った海の底の砂模様をボンヤリと見つめたり
海の中から太陽の光を見上げたり
そんな時、私は心から癒しを感じるのです。
パラソルの下で日焼け止めヌリヌリ
「お化粧が落ちちゃうわ~」とか
「髪の毛は濡らしたくないわ~」なんて
もったいな~い!!!
そんなことは言ってられません。
たとえ、眉毛が落ちて
麻呂様のようになってしまおうが
欧米人並みに、背中や肩にシミが出来てしまおうが
「素敵な豹柄でしょう」とか
「桜吹雪よ」と笑ってごまかして
潜らずにはいられないのであ~ります。
最近でこそ、日焼け止めをぬってはいますが
そうですね・・・
若い頃は、はっきり言ってガングロ女でした。

この間の日曜日。
今まで、ためつづけた貝殻すべてに
小さな小さな穴を開けました。
今度の手作り作品は・・・貝殻のれんに挑戦!
今年の夏は、シャラシャラと風に揺れる貝殻のれんに
涼を感じながら、癒してもらうんだも~ん。
日当たり良好
平成15年3月1日
我が家のマンションは南向き。
冬でも日中はポカポカしていて
ひなたぼっこができる。
2匹の猫たちはお腹を上に向け
だらしのない格好で昼寝をしている。
私は自宅で仕事をしているので
ひだまりの中で眠っている猫たちを横目に
「生まれ変わったら、絶対、猫になってやる」と一人ブツブツ。
レースのカーテンがふわりと揺れるたびに
まったりとしてしまうのです。

この日当たりのいい部屋に住むようになって
・・・もうすぐ8年。
子供たちも大きくなってきたし
そろそろ引越しも考えなければいけないと思いつつ
あまりにも居心地が良くて
なかなか、その気になれないでいる。
「都会に住む人たちは、隣の人の顔すら知らない」とよく言うけれど
私がこのマンションを離れがたい大きな理由は
そう・・・ここの住人たちなのである。

お隣のMちゃんちには6年生の女の子がいる。
娘同士が仲良しだったので
母親同士も自然と親しくなっていった。
彼女とは価値観や考え方が似ていたせいか
ほどよい関係が続き
いつのまにか、大きな信頼関係が生まれていった。
お隣にも猫が1匹いて
帰省する時などは鍵を預け合い
猫たちの世話を頼んだり
「ご飯1杯分もらえる?」とまで言い合えるほど
まるで、家族のような付き合いをさせてもらっている。
けれど「親しき仲にも礼儀あり」の精神を
お互いに忘れているわけではない。
暗黙の了解というか共通のルールみたいなものが
しっかり生まれているから不思議。
彼女が小さなシャクトリムシを
踏まれないような場所へ逃がしてやっていたり
鉢植えで芽を出したスミレに話しかけている姿は
言葉もなく、ただただ、微笑ましい。

下の階のHちゃんちには5歳の女の子がいる。
娘同士が同じ英会話に通っていて
授業が終わるのを待ちながら
45分間のティー・タイムを楽しんでいる。
どちらかと言えば、聞き役に徹する彼女が
ポツリポツリと自分の話をする時
「人間関係は時間をかけて創り上げるものなんだなぁ」
・・・とつくづく思った。
人と性急に親しくなりたがる私だったけれど
悲しいかな、大人になるにつれ
なかなか、丸裸の心には出逢えないことが分かった。
コートを1枚1枚脱ぎ捨てるように
少しずつ本当の姿を見せることができるのだと
今さらながら理解しはじめた。
ある日、娘が「外でヒキガエルが死んでるよ!」と
大声で叫びながら帰ってきた時のこと。
私は「ふ~ん」と聞き流してしまったのに
買い物に行く時に外へ出てみたら
ヒキガエルの姿はすでになくなっていた。
彼女が恐る恐るゴム手袋をつけて
片付けてくれたらしい。
(ちなみに、ゴム手袋はゴミ箱行き)

人が見ていない場所での行動。
花や木や動物への優しさ。
彼女たちのごく当たり前の自然な行動に
私は励まされたり
反省したり
感動したりしてしまうのです。

毎年のように、三家族でやるバーベキューも
近所のどこよりも早く雪かきをして綺麗になる道も
郵便ポストの切手のない手紙も
ベランダを行き交う猫たちも
私にとっては、何よりも捨てがたい
日当たり良好の日々なのです。
ひとかけらのピース
平成14年8月13日
中学2年の夏休みだったと思う。
あの頃の私は部活が楽しくて楽しくて
テニスコートを駆け回り
汗とホコリまみれの毎日を送っていた。

その日は朝から曇り空。
近づいてくる台風のせいで
部活は中止になってしまった。

風がだんだんと強くなり
雨戸がガタガタと音を立てる。
庭で飼っていた犬のポピーも
尻尾を丸めて物置に隠れてしまった。
母も兄も外出中。
本当なら、まだまだ明るいはずの空が真っ暗な夜に変わる。
心細さでテレビのボリュームを
わざと大きくした途端
大きな落雷で停電になってしまった。

突然、電話のベルが響いた。
私は思わずビクッと震えた。
深呼吸してから受話器を持ち上げると
「怖いよぉ・・・」と泣きじゃくる友達の声。
私が抱えている心細さ以上のものを感じた。
「大丈夫・・・大丈夫だよ。電気がつくまで話そうよ」
彼女は電気がついてからも
泣き止むまでにかなりの時間を要した。

あの日から「電話」というものは
私達の孤独を救ってくれる術となった。
そして、私は・・・穴の開いたパズルを埋められる
たった一つのピースを見つけた気がしてならなかった。
「友情」という名のピースで完成したパズル。
一人の夜は淋しくて、どちらからともなく電話をかけた。
2時間、3時間は当たり前だった。
それほど・・・私達には一人の夜が多かった。
たまに家族のいる夜は
電話のコードを思いっきり引っ張って
階段に座って長電話をした。
好きな男の子の話、嫌いな先生の話
家庭科で作るエプロンの柄、生意気な下級生の悪口
プールをサボる口実、お祭りに着ていく浴衣の色・・・。
毎日、部活で顔を会わせてるというのに
話がつきることはなかった。
お互いが出逢えたことを感謝した。
「親友」という言葉はくすぐったいけれど
あの頃の私達にとって
お互いが力強さを与えてくれる源だった。

今では・・・ほとんどの友達が結婚し
守るべき家庭を持った。
彼女もバリバリと働き
マンションで独身生活を送っている。
それぞれが仕事や育児で忙しい日々を送り
それぞれの人生を送っている。
「近いうちに逢おうよ」
決して、社交辞令ではないはずの言葉も・・・宙ぶらりんのまま。
あの頃の一体感は・・・どこへ消えてしまったんだろう?

大人は抱えなければならないものが多すぎて
思っていたよりも不自由だった。
大人になると大切なものを
どこかへ置き忘れてしまったような気がしてならない。
失くしてしまったわけではない。
そんなふうに言い聞かせてみるのだけれど・・・。
人生に交差点があるのならば
その時々に出逢った人々や、すれ違った人々を
出来ることなら・・・誰一人、置き忘れたくはない。

電話の子機を持ち
ベランダに出てペチャクチャと
夏祭りの話をしている娘の背中を見ながら思う。
台風の夜の電話線みたいな強いつながりを
恋しく、懐かしく思う。
私は「友情」という名のピースを
ギュッと握りしめて台所に立った。
サイパンの想い出
平成14年7月3日
雨が降りつづく毎日。
グレイの空の向こうにある青空が恋しくなる。
夏色の空はもうすぐそこ。
そこで、今さらながらサイパンの話をしようと思う。

去年の暮れ・・・私はとても疲れていて
何もかもが、自分の許容範囲を超えていると感じていた。
訳もなくイライラしたり、落ち込んだり
心と体のバランスが大きく崩れてしまっていた。
そして・・・突然「南の島へ行きたい」と言い出した私の言葉を
家族はすんなりと受け入れてくれた。
「少し休めばいいよ」
家族の優しさに背中を押され
学校も、仕事も、猫の世話でさえも人に任せて
私達はサイパンへ飛び立ったのです。

サイパンでのはじめての朝。
カーテンを開けはなつと
コバルトブルーの海に大きな虹が架かっていた。
バルコニーの椅子に座り
「疲れてたんだなぁ・・・」とつぶやいたとたん
涙が滝のように流れてしまった。

ビーチへ散歩に行った時
ルディというおじさんに出逢った。
サイパンにいる褐色の人々は皆
チャモロ人だと思っていたら
ルディは出稼ぎに来ているフィリピン人で
「もう15年も国に帰っていない」と私達に話してくれた。
「ボーイ アナタ イクツナノ~?」と
下の娘に話しかけていたので
「ガールです・・・」と言うと
「オー ゴメンナサ~イ!」と笑った。
その笑顔はとっても人懐っこくて
真っ白な歯はスキッ歯で
男の人が苦手なはずの5歳の下の娘が
あっという間に仲良しになった。
2人は砂浜で一緒に貝をひろったり
ヤドカリを見つけて遊んでいた。
次の日も、そのまた次の日も
娘はルディのいるビーチに駆けて行った。

サイパンにはマニャガハ島という離れ小島がある。
船なら10分で着くところを
私達はルディの手配したバナナボートで
20分かけて島へと渡った。
スピードが上がると水しぶきでビショビショ!
風になったようで
気分爽快なんてもんじゃない。
マニャガハ島は
歩いても15分で回りきれるくらいの
美しく小さな小さな島。
水の透明度は素晴らしく
色とりどりの魚があっちこっちで泳ぎ
テレビでしか見たことのないような素晴らしい世界が
目の前に広がっていた。
シュノーケリング中に
ストローでジュースを飲むみたいに海水を飲んで
上の娘は溺れていたけれど・・・。(汗)

最後の夜は町で食事をするために
タクシーを呼んだ。
私達の前に停まったタクシーからは
大音量でヒップ・ホップが流れ
サングラスをかけた運転手は
ガムをクチャクチャと噛みながら
無愛想にドアを開けた。
娘達は町までの道のりを楽しんでいたけれど
私達夫婦は彼に行き先を告げた後
お互いが沈黙のまま・・・何だかイヤな予感。
交差点で車が停まり
彼がゴソゴソと運転席のシートの下に
手を突っ込んで何か探している。
私は不安と恐怖で一瞬にして顔がこわばった。
けれど・・・彼が差し出したものは
私の想像していたようなものではなく
一握りのキャンディーだった。
「サンキュー!!」と娘達の喜ぶ声に
彼が初めて笑ってくれた。
やっぱり・・・彼も人懐っこそうな笑顔だった。

帰国の日の朝、ルディのいるビーチへお別れを言いに行った。
ルディはヤドカリを娘に手渡し
「キット・・・ ルディノコト ワスレチャウネ」
そう言って、スキッ歯を見せて笑った。
娘は下を向いたままで
バイバイも後ろ向きのまま手を振り
ルディの顔を一度も見ることなく別れてしまった。
機内にアナウンスが流れ
飛行機はサイパンの地を離陸した。
小さな窓から見下ろす海は何処までも青く美しく・・・
突然「ワァーッ!」と娘が泣き出した。
「ルディ、バイバイ! ルディ、バイバーイ!」と
窓の外の海を見ながら
娘はしばらく泣きじゃくっていた。

これが、私のサイパンの想い出。
心も体も癒してくれた島。
とても・・・とても、素晴らしい旅でした。
今夜は、目を閉じてトリップしてみよう。

夏色の海と空。
椰子の葉かげでウトウト。
遠くから聴こえる波の音。
子供達の笑い声。
ルディのスキッ歯。

きっと・・・心地よい夢を見ながら
眠りに落ちるはずだから。
母の子守唄
平成14年3月20日
39度の熱で意識がもうろうとしていた。
遠くから流れては消えるピアノの音は
やけに下手くそな・・・子守唄。

私は、小さな頃からよく熱を出す子供だった。
扁桃腺と言うやっかいなものが
喉の両脇に居座っている。
今でこそ、うずらの卵くらいの大きさになったけれど
私が子供の頃の母の口癖は
「この子の扁桃腺、ザクロみたいに大きいんですよ」だった。

繰り返し高熱を出しては学校を休みがちな私に
どの医者も扁桃腺の摘出手術をすすめたが
母は絶対に手術を受けさせなかった。
「お母さん・・・このままだと、お嬢さんは確実に腎臓を悪くしますよ」
何度、手術をすすめられても母は強く拒んだ。

扁桃腺は成長と共に
ほとんどの場合が小さくなり
症状も軽くなるらしいが
私は成人してからも年に何回も高熱を出した。
そして・・・医者の言っていたとおり
私は腎臓を悪くしてしまった。
スポーツ大好き少女だった私が
いつの頃からか体を動かした次の日になると
体全体がひどく浮腫むようになった。
ちょっとした寝不足や疲れでも
尿に蛋白が出るようになってしまった。
扁桃腺から出ていた白い膿が
私の腎臓をジワジワと壊していったらしい。

母は・・・神を信じていた。
24時間、365日、母の頭の中には神しかいない。
手術を拒んだ理由も「神」だった。
「神様が体にメスを入れてはいけないとおっしゃるんです
神様が治してくれるから大丈夫です」
医者に説明をしている母の瞳は真剣だった。
母は・・・父が出て行ってしまった時から
少しだけ心が壊れてしまった。
神なしでは正常な判断も出来なくなり
神にすがらずには生きていけなくなった。

扁桃腺で高熱を出すと必ず
すりおろした林檎を
スプーンで食べさせてくれていたはずの母が・・・
ある日を境に消えてしまった。
私が熱を出す度に「神様がお怒りなんだわ」と
宗教活動に躍起になって出かけて行く。
女であることも
母であることさえも忘れ
母は・・・神に走ってしまった。

誰もいない部屋に一人取り残され
冷えたお粥だけがテーブルの上に置いてあった。
高熱にうなされ、苦しくて、淋しくて
「行かないで!」と泣きじゃくって
困らせたりもしたけれど
母は「悪魔がとりついてる!」と言って
私の手を振り払い
神のいる場所へと走って行った。
運動会も、学芸会も、授業参観も
卒業式も、入学式も
母も、父も、誰も来ることはなかった。
私はあの頃・・・ずっと孤独と闘っていた。

3日前に熱を出した。
久し振りに・・・本当に久し振りに
母が1日中、傍にいてくれた。
相変わらず「神様がお怒りなんだわ」と言っていたけれど・・・。

39度の熱で意識がもうろうとしている中
遠くから流れては消えるピアノの音は
昔・・・母がよく弾いていた曲
亡くなった父が好きだった曲。
私の娘の電子ピアノで
ポロンポロンと母が奏でるメロディは
あの頃のまま・・・下手くそな子守唄。

私は少しだけ・・・ほんの少しだけ
布団の中で泣いてしまいました。
人生最大の失言
平成13年11月6日
私は言葉を扱う仕事をしている。
言葉は人間にとって
自分の想いを伝達するための
最も有力な手段の一つであると思う。
けれど・・・言葉は時にナイフよりも深い傷を
心に負わせてしまうことがある。
「口は災いのもと」ということわざがあるように
うっかり出てしまった失言によって
人生が狂ってしまう場合だってあると思うのです。

私の生まれて初めての失言は6才の時。
近所のお友達の家に
お泊まりすることになっていた夜のことでした。
友達と大騒ぎしながら入ったお風呂。
家では食べたことのないようなご馳走の山。
そして、楽しい食後の団欒の席で
事件は起きてしまったのです。
私は本当に・・・軽い冗談のつもりで
その場を盛り上げるためのウケ狙いのつもりで
お友達のお母さんに
こんなことを言ってしまったのです。

「おばちゃんってさぁ・・・淡谷のり子に似てるよねッ♪」

みるみるうちに耳たぶまで真っ赤になった顔。
ワナワナと震える指先。
つい先程までの笑顔は鬼の形相とかし
「このクソガキッ!!!もういっぺん言ってみろッ!!!」と
お母さんが大声で怒鳴りはじめたのです。
その後、止めに入ったお父さんと夫婦ゲンカがはじまり
お母さんの泣き叫ぶ声とお父さんの怒号で
壮絶な修羅場になってしまったのです。
情けなくも「ごめんなさい」より先に出た言葉は
「かッ・・・帰りたい!」でした。
「大人げなくて、ごめんね」と
玄関先で見送るお母さんの優しい声。
私は迎えに来た母の背中に隠れて
友達の顔さえ見ることが出来ませんでした・・・。

大人になってからの失言では
おしゃれが大好きな友達の靴を

「おッ・・・かっこいいねぇ~!そのボーリング・シューズ♪」

これまたウケ狙いで言ったつもりだったのですが
「信じられないッ!!」と激怒して
友達がその場から帰ってしまったこともありました。
私の冗談がキツすぎるのでしょうか?
ウケ狙いの軽はずみな言葉で
私は何度か失敗した経験があるのです。

そして・・・人生最大の失言が一つ。
もう5年も前の話になりますが
祖母が危篤状態になり病院に駆けつけた私は
意識のない祖母を目の前にして
涙ながらに・・・こう言ってしまったのです。

「おばあちゃん!大丈夫だよ。もうすぐ楽になるからね!」

周囲の冷たい視線にハッと気づいた私は
「ちッ・・・違う!そッ・・・そういう意味じゃなくて
せッ・・・先生が治してくれるって
なッ・・・治るって意味なんだよ~!!!」と
真っ青になりながら病室で叫んでいました。
その3日後・・・
おばあちゃんは天国に旅立ってしまいました。
ごめんね・・・おばあちゃん。
デリカシーのない私をお許し下さい。

皆さんも言葉は慎重に選んで
失言にはくれぐれも注意しましょうね。
トホホホ・・・。(涙)
晩夏
平成13年8月30日
昨日の夜・・・久し振りに眠れなかった。
クーラーの室外機と
スピードをあげて通り過ぎる原付バイクの音。
そして、消えそうなくらい小さな虫の声が
どこからか響いていた。

もうすぐ・・・夏が終わる。
夏の終わりはいつも
遠い夏の日を想い出してしまう。

子供の頃、近所のプールに毎日のように
友達と遊びに行った。
1日中泳いだあと息を深く吸うと
いつも肺が痛かった。
家に帰ってからカルピスを飲んで
畳の上に大の字になって昼寝をした。

中学の夏休みは
部活の時間が一番の楽しみだった。
ギラギラと照りつける太陽。
テニスコートの土ぼこり。
草むらの中でボールを探した時の
むせ返るような草いきれ。
怖いものなど何もなかったのかもしれない。

17才の夏、仲良しの男友達が
仲間の中で一番最初に車の免許を取った。
夜明け前の海に出発した
ワンボックスのレンタカーには
ラジカセとコパトーン。
そして、スイカまで積んであった。
はしゃぎすぎた浜辺。
帰りの車の中で疲れて眠ってしまった友達の
真っ赤な鼻先をつまんで笑った。
窓の外の景色を眺めながら
生まれて初めて
夏の終わりをせつないと感じた。

すこし前から・・・別れの予感はしていた。
海辺のホテルで朝食をとりながら
言葉も少ない2人。
材木座の浜辺に昨日まで飾られていたはずの
いくつもの砂の城たちが
ブルドーザーの音と共に崩れ去っていった。
彼と過ごした最後の夏。
しっかりとつないだはずの指が
ほどけていった夏。

いくつもの夏を過ごしてきた。
「時間が止まればいい」
毎年のようにそう思った。
私は今・・・あの頃、自分がなりたいと思っていた
大人になれたでしょうか?
少女だった私が「やったね!」と
ピースマークをしながら微笑んでくれるような
そんな大人になれたでしょうか?

そんなことを考えながら
今年も夏が終わる。
夏の終わりは・・・いつもせつなくなる。
きっと、誰もがせつないよね。
休日の過ごし方
平成13年7月3日
今日は久々の休日だった
何もしないという意味で・・・本当の休日。

字幕の仕事を始めてから
なぜか、プライベートにまで様々な用事が入り
「24時間じゃ足りない」と
生まれて初めて感じたくらい
この半年は目まぐるしい毎日だった。
HP作りに作詞活動
買い出しやら衣替えやら
学校の行事やら
やらなければならないことは次から次へと
山のように待ち受けている。

そんな中で、〆切とプレッシャーに追われ
不眠症と神経性胃炎の上に
久しぶりに腎臓まで弱ってしまった。
見た目は人一倍、元気そうに見えるらしく
寝不足のクマと吹き出物とむくみを
人は「遊びすぎ」とか「飲みすぎ」とか「食べすぎ」とか
好き勝手言ってくれるけれど
そんな時は、お疲れモードの作り笑顔を
顔に貼りつけてニッコリ。
深い深い溜息は
背中を向けてからつくようにしていた。

とにかく、1人でボーッとしたかった。
静かで、穏かで、何もしない休日がほしかった。
それが・・・今日だった。
朝早くから洗濯と掃除と買い物だけはすませ
午前中には何もすることがなくなった。
何もしないのが今日の午後の予定。
私は寝転がりながら本を読み
本を読みながら、足にじゃれつく猫と遊んだ。
ノドがかわいたので
アイスコーヒーを飲もうとしたけれど
思い切ってビールにしたのが
これまた休日らしくて楽園だった。
たった1本で酔いがまわり
私は本を投げ出してお昼寝をはじめた。
目覚めたのは・・・なんと2時間後!
スッキリ爽快。
疲れがドッと取れた気がした。

今日の予定は残すところ
夕暮れ風呂でございま~す。
明るいうちに入るお風呂って
すっごく贅沢だと思う。
そして、お風呂上がりにはキンキンに冷やしたビール!
あれれ・・・もしかして
これじゃ、ただの飲んべぇか~?
ピンクの首輪
平成13年5月28日
「まろ吉~!」
この2ヶ月間、呼びつづけた名前。
「茶太郎が心配してるよ~!」
毎日のように捜しつづけた。

まろ吉は2年前の雨の夜
3日間も外で鳴きつづけていた
茶トラの猫の名前。
ガリガリに痩せこけて
人間をまったく信じていない
ノラ猫特有の目つきをした子猫だった。

お腹がパンパンになるまで
缶づめを食べさせた後
シャンプーをしてあげると
みすぼらしいくらい汚れていた灰色の子猫は
フワフワとした綺麗な茶トラで
おでこには可愛らしい
丸いまゆ毛模様のある男の子だった。
マンガの「おじゃる丸」みたいだったので
まろ吉と名づけた。

我が家には4年前から飼っている
やはり、茶トラで捨て猫だった茶太郎がいた。
茶太郎はオスのくせに温厚で
まろ吉を我が子のように可愛がってくれた。
まろ吉がいなくなって2ヶ月。
誰より哀しんでいたのは・・・茶太郎だった。
ベランダから外を何時間もながめ
何処かで猫の鳴き声がすると
部屋中を駆けまわって捜していた。

全く外へ出ない茶太郎と違って
まろ吉はよく窓から脱走した。
どこかでエサをもらっているらしく
2~3日は平気で帰ってこなかった。
けれど・・・こんなに長くいなくなったことはなかった。
「死んでしまったんだろうか」
そんな言葉が浮かんでは消えた夜。
まろ吉と茶太郎の寝顔の写真を見つめながら
私はビラ作りの準備をした。

そんなある日・・・
近所の子供が「まろ吉がいるよ!」と
我が家に駆け込んできてくれた。
急いで外に飛び出してみると
元気そうなまろ吉が
チョコンと道ばたに座っていた。
「まろ吉~!!!」
感きわまって駆けよった私に
「にゃ~ん♪」と鳴きながら
なぜか、身をかわして逃げてしまうまろ吉。
「・・・?・?・?・・・」

その日から時々
まろ吉はふらっと顔を出すのだけれど
絶対に家に入ろうとしない。
「自由がほしかったのね・・・」と
自分に言い聞かせていた私に
またまた、近所の子供が教えてくれた。

「ねえねえ、まろ吉、ピンクの首輪してたよ~♪」(爆)
やしこちゃん
平成13年3月8日
我が家のステレオの上には
やしこちゃんが座っている。
やしこちゃんとは・・・椰子の実のこと。
雑貨屋の店先で見つけた
ちっちゃな芽の出た椰子の実が
あまりにも可愛いくてひとめぼれ。
聞いたこともない変わった名前だったので
電車に乗る頃にはすっかり
本当の名前を忘れてしまったけれど
いつの日からか、やしこちゃんという名前に。

私は今まで植物を育てるのが苦手で
水をあげすぎたり
温度調節が上手くいかなくて
枯らしてしまうことが多かった。
けれど、やし子ちゃんだけは違った。
水が大好きなので
水の中にプカプカと浮かべ
天気のいい日はベランダに出してあげると
やしこちゃんは太陽に手を伸ばし
生き生きと緑を濃くする。
その姿は・・・本当に強くたくましい。
3月に入ってからは
若葉もどんどん芽を出しはじめ
生命力でみなぎっている。

こんなふうに、植物に愛情を持てたのは
生まれて初めてのことだった。
毎朝、朝食がすむと窓を開けて掃除機をかける。
ベランダには、やしこちゃんとお布団。
1日のリズムの中に彼女はいる。
なんとなく・・・彼じゃなくて彼女。
彼女が来てから植物が増えはじめて
今はレースラベンダーと
道ばたから植えかえたスミレと水仙も
元気よく咲いている。

植物に話しかけてるなんて
心にゆとりが持てるようになったのかな?
葉っぱの1枚1枚に命を感じる
今日この頃です。
忘れてはいけないもの
平成13年2月6日
仕事へ向かう途中
誰もが急ぎ足で歩く駅のホームに
ゆっくりと歩く初老の男性がいました。
隣で寄り添うように歩いていたのは
真っ白なラブラドール
決して若くはない盲導犬でした。
階段に差しかかる手前で
男性を心配そうに見上げる真っ黒な瞳。
無事に階段を下りると
嬉しそうにシッポを振っていて
ふいに・・・鼻の奥がツンと痛くなってしまいました。
何年も寄り添って生きてきたであろう
その二人の信頼関係が
とても・・・せつなかったのです。

私は去年、作詞という仕事のほかに
字幕ライターという仕事に出逢うことができました。
ドラマや映画の台詞を要約し
正確にタイムを取らなければならない細かな作業。
単純に台詞を打つだけでなく
読みやすい字幕と見やすい画面を心がけ
障害のある方々に対して
思いやりのある字幕をつくることが
一番大切なことだと思っていたつもりでした。
分かっていたつもりでした。

けれど・・・そのラブラドールと出逢った瞬間
私は自分の仕事に対する熱意や姿勢を
もう一度、深く深く考えさせられてしまったのです。
優しさに満ちあふれた瞳。
守ることだけに心をくだいているその姿が
何だかとっても痛かったのです。
忙しさに追われてばかりで
大切なことを忘れているような気がして
せつないというより・・・きっと、痛かったのです。
私は言葉を扱う仕事をしているけれど
作詞も字幕も同じ。
心を込めて、一語一句を大切に伝えよう。
この気持ちを忘れずにいよう。
そんなことを思い出させてくれました。

二人の後ろ姿を見送りながら
強い気持ちになれた朝。
靴音はいつもより高く高く響き
自然に背筋を伸ばして
仕事場へと向かうことができました。
よ~し!頑張るぞっと。
寝正月の果てに
平成13年1月5日
★ A HAPPY NEW YEAR ★
AND
★ NEW CENTURY ★

21世紀の幕開けですね。
心新たに輝いた一年を
過ごしたいと思っております!

・・・ということで
今年は仕事もプライベートも
充実した一年にしたいと思っておりますが
なんと!年明け早々
奥歯が虫歯になっていたらしく
今朝、つめていた銀が取れてしまったのです!
今年のお正月は今までにない
エンゲル係数の高いお正月で
飲んで、食べて、飲んで、食べて
食べて、食べて・・・の毎日。
どうやら、歯を酷使してしまったようです。
「炎のチャレンジャー・夫婦大食い大会」の出場経験者である
私の胃も少々お疲れ気味。
暴飲暴食はつつしもうと思っております。

それにしても、今年のお正月は
昼寝、昼酒、昼風呂と
ほとんど怠惰に近い贅沢も味わってしまいました。
しかし、これがまた気持ちいいこと!
読書をしながらの半身浴に
お風呂上がりのビール。
お正月番組はほとんどBGMと化し
意識はトロトロと遠のき・・・
気がつけば二時間も爆睡しておりました。
本当に申し訳ないくらい
怠惰&贅沢な21世紀のはじまりでした。
いかん!いかん!
そろそろ気持ちを引きしめなければ!

あれ?・・・ウッ・・ウエストまわりが
恐ろしいことになってる!?
ひぇ~ッ!!
まずは、ウエストを引きしめなければ~!!



皆様、今年もよろしくお願いします。
祝・大晦日
平成12年12月14日
12月と言えばクリスマス。
子供の頃は誰もが
サンタクロースからのプレゼントを
心待ちにしていたはず。
クリスマスが過ぎればお正月。
子供たちにとっては、ハッピーな季節だろう。

しか~し!・・・私の年末は悲劇だった。
私は12月31日生まれ。
そう、大晦日が誕生日なのだ。
今でこそケーキ屋も開いているけれど
昔はケーキ屋どころか街中のお店が
年末の休みで閉まっていた。
私は子供の頃、自分の誕生日に
ケーキを食べたことがなかったのであ~る!
私にとって、クリスマスケーキが誕生日のケーキでもあり
プレゼントまで一緒にされた。
もっと、ひどいときは
お年玉さえゴッチャにされてしまうのだから
たまったもんじゃない。
本当なら三つあるイベントが
ひとまとめにされてしまう理不尽。
誕生日は毎年、毎年、大掃除と年越しソバである。

大人になってからも
恋人と誕生日を過ごすことはほとんどなかった。
学生時代に付き合った彼は
年末の帰省ラッシュをさけて
早めに田舎へと帰ってしまうし
どうにか大晦日デートに漕ぎつけた彼とも
下北沢の街を歩きまわったけれど
お茶すらできなかった。
やっと、見つけたレストランの灯かりに喜んで
二人手に手を取って駆け寄ると
「CLOSE」と書かれた木のフダが
「カラン・・・カラン」
淋しく木枯らしに揺れていた。
そうそう、中学生のときの彼は寿司屋の息子で
逢えない理由が
「大晦日は出前で忙しい」だったっけ・・・。

あ~ッ!皆さんの誕生日の想い出は
さぞ、美しいものでしょう!
いいですねぇ・・・羨ましいですねぇ。
私にとっての誕生日の想い出は
大掃除と年越しソバ。
今年も来年も再来年も
きっと大掃除と年越しソバでしょう。

皆さ~ん!!
今年は「HAPPY NEW YEAR」のちょっと手前に
「HAPPY BIRTHDAY」なんて
ついでに叫んでみませんか~?
大切な恋のこと
平成12年10月1日
地下鉄の駅のホーム
私はいつも探している。
いつの日か偶然があるならば
私たちはこの街で再会するような気がして
私はいつも彼を探してしまう。

私の心の中にいる彼は
今も鮮やかすぎて
笑った顔も怒った声も涙をこぼした夜も
困ってしまうくらい鮮明で
今でもときどき胸が「チクン」と痛む。
彼との日々は苦しいほど恋だった。
「自分を変えよう」と思うくらい
人を好きになったのは
生まれてはじめてのことだった。

私は彼と出逢うまで
本というものを
ほとんど読んだことがなかった。
「どんな本を読むの?」と聞かれたとき
「マンガ!」と即答してしまい
彼の表情に一瞬、失望が浮かんで消えた。
その夜はお風呂に潜りながら
「トホホホ・・・」と悔やんだマヌケな私。
けれど、彼は数日後に一冊の本を
プレゼントしてくれた。

「自分のこれからの人生で
あと何冊の本が読めるんだろうって思うくらい
僕は本が好きなんだ。
少しずつでいいから、君も読んでごらんよ。」

そう言って、小さな温かな絵本を差し出してくれた。

二人で日本料理を食べに行ったときには
箸が上手く使えない私に

「僕も大人になってから
箸の持ち方を覚えたんだよ。
今からでも遅くないから、頑張って変えてみなよ。
日本料理がもっと美味しくなるから。」

そう言って、箸の持ち方を教えてくれた。
私は25歳にしてはじめて
箸をきちんと使えるようになった。

本を読みたいと思った。
箸を上手に使いたいと思った。
綺麗になりたいと思った。
優しくなりたいと思った。
彼にもっと、もっと、近づきたいと・・・心から思った。
恋ってすごい。
プラスに動くパワーをくれる。
二人の恋は終わってしまったけれど
私にとって彼との日々は
本当に本当に素晴らしい恋だった。

ガラス張りの喫茶店で
遅れてくる彼を
人込みの中に探した夕暮れ。
ゆるやかな坂道に色づいた街路樹の街。
いつの日かこの街で
素敵な再会ができるといいな。
いつの日か・・・。
一人の時間
平成12年9月18日
私は・・・今まで
一人で映画を観に行ったことがなかった。
いつだって
恋人や友達や家族と一緒だった。

今年の春、たまたま買い物の途中で
観たかった映画が
近所の小さな映画館で上映されていて
時計を見ると上映時間まで後5分。
私は慌ててチケットを買い
すべり込むようにして席に着くと
さすがに平日の昼間はガラガラで
客層は年配の男性や主婦ばかり。
映画館独特の乾いた空気を深く吸い込んで
私はゆったりとイスに座り直した。

あの日以来・・・
私は映画を一人で観に行くことが多くなった。
思いきり泣こうが、ゲラゲラ笑おうが
誰も私のことなんか見ていない。
ペプシ片手にサンドウィッチなんかほおばって
感動した映画は
字幕が流れるのを最後まで見終わってから
真っ赤な目と鼻を隠しつつ
静かに出口へ向かう。
いつのまにか
一人で映画を観る心地良さを知ってしまった。

私はずっと・・・一人になるのが怖かった。
友達を何人も作り
いつだって温かな胸を必要とした。
淋しがり屋と言うより
異常なまでに一人を怖がった。
ところが、この年になって
私は一人の時間を好んで作るようになっていた。

カメラ片手に写真を撮るために
街中を一人で歩きまわったり
ショッピングも友達とは行かなくなった。
夜は部屋の電気を落とし
貝殻のライトとアロマオイルを焚きながら
波の音や雨音のCDを小さく流す。
TVも電話も家族との会話もいらない。
一人でぼんやり過ごす時間を
私はとても愛するようになっていた。
薄暗い部屋はセピア色をしていて
明日のこと、未来のこと、そして過去のことを
ゆっくりと考えられる。
水の音は水の記憶。
まるで、母親の体内にでもいるような温かな感覚に陥る。

そう言えば、ずっと前に別れた彼が
仕事で疲れきっていたときに
「小さな胎児になって、私の中で休めるといいのにね」
なんて、言ってしまったことがあった。
決して母性を強調したつもりはなかったけれど
人が皆、温かな場所へ帰りたいと願うように
私も温かなセピア色の部屋で
ゆっくりと癒されていったんだと思う。

孤独を心地良く感じることができるのは
本当の孤独じゃないからであって
孤独でない自由ほど素晴らしいものはない。
一人の時間を大切にしたい。
一人じゃないから一人が楽しい。
そんなふうに思えるようになりました。
2001年・カブトムシの夏
平成12年8月22日
私には4つ年上の兄がいる。
小さな頃からケンカばっかりして
とにかく、よく泣かされた。

灯かりの消えた部屋で
二段ベットの上から
ゆっく~りと手が伸びてくる。
「ヒヒヒヒヒ・・・」と
お化けのマネをして私を怖がらせた兄。
私は毎晩のように
泣きながら階段を降りていっては
母の布団に潜り込んだ。

夏休みになると
兄はカブトムシやクワガタを捕まえに
栃木のおじさんの家に行った。
虫カゴではなく鳥カゴいっぱいのカブトムシたち。
兄は酒と砂糖と酢で作ったドロドロの液体を
脱脂綿にしめらせては
カブトムシたちに吸わせていた。
しばらくすると、彼らは興奮して戦い始める。
兄は夢中になってその様子を見ていた。
縁側で足をブラブラさせながら
カブトムシに興味を示さない退屈そうな妹が
きっと気に食わなかったのだろう。
「チクッ」「チクッ」と私は手や足に痛みを感じた。
はじめは虫にでも刺されたのかと思って
気にしないでいたのだけれど
何度も走る痛みを不思議に思い
兄の方を振り返ると・・・
兄は虫メガネで太陽の光りを集め
チリチリと焦点を合わし
私の手や足を焼いていたのだ。
もちろん、私たちはその後、取っ組み合いのケンカになった。

朝起きると両手の人差し指と親指が
くっついて取れなくなっていたこともあった。
兄が寝ているうちに私の指に
アロンアルファを塗って
指を貼り付けてしまったのだ。
洗おうが何をしようが私の指は離れやしない。
座禅をしているお釈迦様のように
私は泣きながら両手でOKをしていた。

兄は大人になってからも
相変わらず子供のようなイタズラをした。
ある晩・・・布団で寝ている私を呼ぶ声がする。
鼻先がやたらくすぐったい。
眠い目をこすりながら起きてみると
目の前にぼんやりと黒い物がぶら下がっている。
何と鼻先をくすぐっていたのは
ゲラゲラ笑い転げている酔っ払いの靴下だった。
真夜中、いい年をした兄妹が
ケンカになったのは言うまでもない。

私の兄であり、ケンカ相手であり、父がわりでもある兄。
今も独身で母と二人きりで暮らしている。
この前、兄の車を借りたときに
カーステレオから流れてきたのは
赤ちゃんの泣き声からはじまる
スティービー・ワンダーの名曲。
70年代から80年代にかけての洋楽が
録音されたそのテープのタイトルは
「2000年 ・ 何もない夏」だった。
兄が10年来の恋人と別れてから
何年経っただろう・・・。
兄の友達は皆結婚して、子供たちと夏休みを過ごしている。

兄が瞳を輝かせていたカブトムシの夏。
来年はあんな夏が
兄のもとへやって来るといいのに・・・。
「2001年 ・ カブトムシの夏」
来年のテープは、そんな楽しいタイトルにしなよ。
お兄ちゃん!
Nobody cares me
平成12年8月10日
「Nobody cares me」
( 誰も私のことなんて、かまっちゃいない )
「死にたいとさえ思ったことがある」

そう言った彼女の孤独は深い。
胸の奥の穴を埋められるものが
何一つ・・・見つからないのだろう。

誰しも孤独を感じる瞬間がある。
自分のまわりを振り返れば
家族や恋人や友人が
少なからずいるはずなのに
心の中にある闇の部分には・・・誰も入り込めない。

「Nobody cares me」

私も・・・そんなふうに感じたことがある。
一番危険なのは
そんな気持ちを誰にも打ち明けられず
迷い込んだ闇の中で
明日への扉なんて見つかりはしないと
思い込んでしまう時だろう。

人それぞれ様々な悩みがある。
その悩みを聞いてくれる人がいるだけで
楽になれる場合もある。
けれど・・・それでも抜け出せない闇の中で
戦う相手は最終的に「自分」なんだと
私はあるとき気がついた。
崩れ落ちそうな弱い自分に対して
強く立ち向かわなければ
心の闇に光がさすことはないんだと。

自分を痛めつけるように荒れに荒れ
狂ったように泣き叫び
どうしようもないほどの孤独感を抱え
人に会うことも拒み
胎児のように丸まって
布団の中で眠りつづけた日々が
私の過去にもある。
不登校児だった私にとって
そこは、地獄であり
逃げるには都合のいい温かな繭でもあった。
闇は永遠につづくと思っていた。

けれど・・・私は今こうして生きている。
笑顔で毎日を過ごしている。

彼女に言いたい。
私は聞いてあげることしかできないけれど
夜中だろうが明け方だろうが
いつだって聞いてあげる。
できることなら「一人じゃないよ」と言ってあげたい。
けれど・・・生まれるときと死ぬときが
一人であるように
そこから先は、悲しいほど孤独で
戦う相手は誰でもなく
「自分」なんだということに気づいてほしい。

人は必ず強くなれる。
強くなることは優しくなれるということ。
私も・・・そうやって、自分に言い聞かせてきたのだから。
台風と海と花火と蝉の声
平成12年7月8日
昨日の夜、今年はじめての台風が過ぎて行った。
私は台風が好きだったりする。
ほこりっぽい都会のアスファルトもビルも
わずかな緑たちも空気も
台風にジャブジャブ洗われて
生まれ変わったように新鮮な景色になるから。
昨日の雷は、まるで夏の幕開けを知らせるドラの音みたいで
なんだかとってもワクワクした。

私は高校生の頃
5月になるとすぐに海へ飛んで行き
真っ黒になるまで肌を焼いた。
混んだ小田急線の中で
友達の抱えたブギーボードに
迷惑そうな冷たい視線が集まったっけ。
鵠沼も由比ヶ浜も稲村ヶ崎も
あんまり綺麗な海とは言えないけれど
本当によく遊びに行った。
彼氏と海に行った日の夕暮れなんかは
必ずといっていいほど
帰りたくない病になったりして。

去年、友達の家族とみんなで行った下田は
ナンパする人影もほとんどいない
家族連れの多い海だった。
子供たちを追いかけまわしながら
ときどき・・・ふわりと流れてくる
懐かしいコパトーンの香り。
ムダなあがきと知りつつも
日焼け止めを塗るようになったことが
ちょっぴり淋しいような
面白くないような
そんな気持ちになった。

今年は新潟の海へ行く予定だけれど
透きとおる海以上に
新鮮な魚貝類を楽しみにしている色気のなさ。
いくつもある民宿の決めては
美味しい海鮮料理と
海の見える清潔な部屋のはずだったのに

「うちは小さいからねぇ。
お客さんはあんまり取れないんだよ。
あんまりたくさんだと
粗末になってしまうからねぇ」

そう言ったおばぁちゃんのひと言で
その民宿に決めてしまった。
民宿の選び方まで・・・昔と変わったみたい。

海での過ごし方は
少しずつ形を変えてしまったけれど
鵠沼も下田も新潟の夜だって
線香花火やロケット花火の音は
大人になった私の胸にも
ちゃ~んと、昔と同じせつなさを連れてきてくれた。
今年も花火をしなくちゃね。
やっぱり、あのせつなさは夏限定だもの。

そう言えば・・・
さっき、今年はじめての蝉が鳴いてたなぁ。
台風と海と花火と蝉の声。
私の大好きな夏がやってきた。
FAXの友
平成12年6月11日
「早く! 早く! きれいな虹が見えるよ!」

おっきな文字で書かれた
たった一言だけのFAXが友達から届いた。
一日中、雨が降り続いた日曜の夕暮れ。
東の空にかかった虹は
美しい七色の弧を大きく描いていた。

彼女と私の家は
駅三つ分しか離れていない。
そんなにたいした距離ではないけれど
違う場所にいながら
同じ景色を綺麗だと思えることが
とっても嬉しかった。
何より「虹を見せたい」と
私を想い出してくれたことが嬉しかった。

ずっと前に、彼女と見つけたハート型の水たまり。
「かわいい~! 写真に撮りたいね」
なんて言いながら
二人で道端にしゃがみ込んだり。

一緒に出かけた吉祥寺の雑貨屋で
なぜか同じ物を手に取って
ジーッと眺めていたり。

泣いてしまった本や
枯らしてしまった観葉植物まで同じだった。

趣味や性格が似ていると言うより
感性や価値観が似ているのかもしれない。
同じものを見て
同じように綺麗だと思える。
悲しいと思える。
それって・・・すごく幸せなことだと思う。

最近はパソコンで
メール交換をしているけれど
私たちはついこの間まで
メル友ではなくFAXの友だった。
見慣れた彼女の文字が
ゴシック体の活字ばかりじゃ
ちょっぴり・・・淋しい気もする。
きっと、彼女もそう思ってる。

虹を見せてくれて
ありがとう。
たまには、手紙もいいかもね。
HAPPY BIRTHDAY
平成12年6月5日
彼から告白された日。
はじめは冗談だと思って
笑ってごまかした放課後の教室。
彼が肩にかけていた真っ赤なNIKEのバッグと
真剣な瞳を
今もまだ鮮明に覚えている。

二人の距離がぎこちない帰り道。
何を話せばいいのか悩んでいるうちに
「じゃあ、また明日」
夕暮れはいつも
学らんの後ろ姿を見送ってばかり。

バスケ部だった彼は、生徒会の副会長でもあり
明るくて人気者でもあった。
クラスの男子に「お前じゃ、つり合わねぇよ」とからかわれた時
いつもなら「ガハハハハ」と大声で笑い飛ばす
男みたいな性格の私が
生まれてはじめて人前で泣いてしまった。
友達があわてて呼びに行った彼は
思いもよらず笑っていた。

「いいんだって、僕がいいんだから、いいんだって」
そう言って、彼はただ笑ってた。

あれから何年経っただろう。
彼の訃報が届いたのは去年の6月。
私はその夜
彼と歩いた道を、公園を、学校を、川沿いを
泣きながら何時間も歩いた。
きらきらと輝いていたあの季節が
次々と甦っては消えた。

6月5日。
今日は彼の誕生日。
私はケーキを焼いて、花を持って、彼に逢いに行った。
たくさん話をしてきた。
「HAPPY BIRTHDAY」も
しっかり歌ってくるあたりがナルシスト。
彼もきっと天国で笑っているだろう。
きっと・・・笑ってくれているだろう。
スタートライン
平成12年5月1日
中学生の頃・・・友達と交換日記をしていた。
ほとんどが好きな男の子の話ばかりで
「廊下ですれ違った」とか
「今日はいっぱい話せた」とか
そんなことばかり。
今となっては「可愛いかったなぁ」などと
のんびり懐かしんでいられるけど
あの頃は、ほんの少しのことで一喜一憂。
失恋をした友達がいれば
自分のことのように、一緒に涙を流したりして
何だか・・・毎日がせつなかった。

私の思春期は
悲しい曲を聴いただけで涙がこぼれて
夕焼けがやけに淋しくて
友達が何より大切で
部活が楽しくて仕方がなかった。
私の感性は・・・思春期で作られたのかもしれない。
季節やメロディや優しさや淋しさを感じた時
なぜか、言葉にして伝えたくなった。
そして、いつからか、私は交換日記の最後に
短い詩を書くようになっていった。
あの頃、出逢ったそんな想いが
作詩家としてのスタートラインになったんだと思う。

「ホームページを作ろう」と決心したのは
仕事の関係者でもなく
家族や友達でもない人たちの
意見や感想を聞いてみたかったから。

「自分の詩は、みんなに共感してもらえるのかな?
明るい気持ちにさせたり
勇気や元気を与えたり
一緒に泣いてあげられるのかな?」

そんな気持ちでホームページを作りました。
あまりにも、シンプルすぎるホームページだけど・・・。
協力してくれた家族や
思春期を共に過ごし、今も支えてくれている
かけがえのない友達に感謝!!
これからも、心に響く詩を書いていけたらいいなぁ。
応援しておくれ~♪