薬箱戦争 ● 第三夜
20020730
挿し絵
画 ● 稲村 光男
update ● 20020809

●●● えー、前回の「第二夜」では、「献血劇場」VOL.25に掲載された「日本の神話礼讃」を読み返しながら、あれこれおはなしをした末に、「天皇制」の問題やらがでてきて、「歴史教科書問題」については、昨2001年に大きな議論をまきおこした扶桑社発行の「新しい歴史教科書」を支持する、というところまでおはなしがでましたね。それで今回は、件の教科書を文字どおりテキストにご用意いたしまして、あれこれ検証していきたいと思います。

光男● この扶桑社版の「新しい歴史教科書」は2001年六月に市販されて、街の本屋さんのベストセラー平台にならべられてましたね。ぼくは発売とほぼ同時に買ったけど、ほかにもお年寄りから若い女性まで、いろんなひとがこの「教科書」を手にレジへむかう姿がみられて、すごく興味深い光景でしたね。

●●● 発売されてみての世間での評判は、ぜんぜん常識的でまっとうな教科書じゃないか、って感じが大多数だったみたいですよね。でも反対派からはやっぱり戦争賛美だとか、戦前の軍国主義やら皇国史観への回帰だとかいう声もあったようで。前回もちょっと触れたかと思いますが、そもそもこの教科書問題の最大の争点といえば近現代史のとらえかただったもようですけれど、日本神話についての記述というのも・・・。

光男● 神武東征とかヤマトタケルとかのコラムがありますね。あと、奈良朝の記紀の編纂のあたりでは、イザナキの命・イザナミの命の国生みから、天照大神・スサノオの命と天の岩戸、ニニギの命の天孫降臨のあらすじが簡潔にとりあげられてます。

●●● でも、「日本の神話礼讃」でとりあげられた三輪山の神話って、この教科書にも見当たりませんが?

光男● ちゃんとありますよ。市販本「新しい歴史教科書」の34ページある箸墓古墳の航空写真のキャプションにはこうあります。

箸墓古墳(奈良県) 3世紀につくられた、巨大古墳としては最古の前方後円墳。日本書紀に、「日中は人がつくり、夜は神がつくった」と記されている。
■箸墓古墳が大和朝廷の成立を示す大切な根拠であることに注目しよう。
扶桑社版「新しい歴史教科書」

●●● この神話の出典は「日本書紀」だったんですね。「日中は人がつくり、夜は神がつくった」というのは?

光男● 「日本の神話礼讃」でぼくがとりあげた文からは省略してしまったんですが、原典である「日本書紀」祟神天皇十年九月条ではこの悲劇の後日談として箸墓の造営が語られて、そのときに人々が大坂山から石を手渡しで運んだときの歌が一首おさめられてます。

●●● つまり一種の歌物語の体裁をとっていたわけですね。

光男● でも、ぼくもやっぱり省かないで書いておくべきだったかも。「是の墓は、昼は人作り、夜は神作る。」っていうとこもきわめてたいせつなところです。

●●● そうなんですか?大きな墳墓だから作るのが大変だったってことだけじゃなくて、それ以上の意味があると?

光男● 漠然と読むとそう思って読み流しちゃうとこだけど、この悲劇のはじまりにある「この神常に昼は見えずして、夜のみ来す。」って部分と対応してるんです。

●●● あ、なるほど。つまり昼は人が、夜は神が支配してるっていう世界観が一貫してるんですね。うーん、するとこれ、一字一句読み流せない、おそろしくよくできたおはなしですね。あなどれないなあ。

光男● そういえば、ぼくは日本の神話のことを「プラスティックでファンタスティックで、そしてとってもエロティックな」世界と書きました。ファンタスティックとエロティックはわかるけど、プラスティックって何ですか?ってたずねられたこともありましたね。

●●● ジェファーソン・エアプレインの歌にある「プラスティック・ファンタスティック・ラヴァー」とかの語呂合わせだけじゃないんですか?

光男● プラスティックって、「人工的な」とか、「もろくてこわれやすい」って意味があるんです。この神話にしてもすごく人工的によく練られていて、すごくデリケートなものでしょう。いま手もとにある岩波文庫だとほとんど1ページにおさまるほどの短さなのに、おそるべき文学です。

●●● たしかに、そういうふうに読んでみると、これだけの短さでそれだけの奥行きがある文学作品なんて、ちょっと考えられないかも。しかも、「国家」の起源とさえ絡み合っているとなると・・・。ただ、このおはなしって「日本書紀」だけで、「古事記」にはないんですね。

光男● 「古事記」には同じ祟神朝のところに、三輪山の地名の起こりと豪族三輪君の祖先を語る説話というかたちで、同じ系統の物語をのせていますけれど、主人公の女性は「ももそ姫」じゃなくて「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」となってますね。こちらは去っていく神の衣に糸をつけた針を刺して正体を探る「苧環(おだまき)型」といって、これまたすごくよくできたおはなしなんだけど、ヴァージョンがちょっと、というかかなりちがう。

●●● そんなにいろんなヴァージョンが存在してるのに史実に即してると考えるのには無理があるんじゃないですか?そもそも記紀編纂が8世紀のはじめですよね。この箸墓古墳の造営された年代って3世紀中頃として、少なくとも400年も前の出来事を、口承だけで正確に伝えられるものなんでしょうか?今から400年以上さかのぼったら、江戸時代より前になっちゃいますよ。

光男● そこがむしろ大切なところなんです。まずは文字使用以前の口承文芸の圧倒的な力。そして様々なヴァリエーションに転生しながら民族の想像力のなかに生き続けていく物語の恐るべき生命力。

●●● 「日本の神話礼讃」には、「ぼくらの国がそこからはじまったところに伝えられるこの神話は「三輪山式神話」といって、この国の口承文芸の基本中の基本のひとつなのです」とありますね。

光男● そうでしたね。ここで「口承文芸の基本中の基本」ってたとえばどんなふうに基本なのかっていう例をあげてみましょうか。ちょうど前回取り上げた谷崎潤一郎の「吉野葛」でも主要なモチーフになってた、安倍晴明伝説で有名な謡曲「葛の葉」の歌があったでしょう。

●●● えーと、「恋ひしくば訪ね来てみよ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」、というやつですか。

光男● そう、それです。その歌に関して、折口信夫博士はこんなことを言っていたそうですよ。

古今集に、「わが庵は三輪の山もと。恋しくばとぶらひ来ませ。杉立てるかど」という歌がある。ところが、「顕註密勘」には、伊勢の猟師がある日、女を家に連れて来て、夫婦になった。子供が生まれてのち、「恋しくばとぶらひ来ませ。ちはやぶる三輪の山もと。杉立てるかど」という歌を残して去ったという話が出てくる。女は三輪の神女だったのだ。平安朝の末には、もうこれだけ、同じ歌が下品になって伝えられている。これがさらに下落すると、「恋しくばたずね来て見よ。和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌になる。民衆というものは、つまらぬものでなければ、伝えてゆかなかったものだろうか。
岡野弘彦「折口信夫の晩年」より。

●●● へえ、すごいですね!全然関係なさそうな歌なのに、ルーツをたどるとほとんど完璧にあの三輪山神話の神婚譚にそのまんまつながっちゃう。

光男● そんな感じで、いつの間にか民俗学の領域まで踏み込んでしまいそうですが、この伝承の構造を部分的にでもうけついでいる昔話をあげたらキリがないでしょう。なんらかのかたちでそのヴァリエーションでないものを探すのがむずかしいくらいかも。

●●● うーん、そうかなあ。「鶴の恩返し」とか「猿の婿入り」とかも、言われてみればそうなのかも。でも、先に編纂された「古事記」にもすでに異なったヴァージョンが収められているにもかかわらず、「祟神紀」にあるのがオリジナルだっていうのには無理があるような気がしますが。別にこれが基本中の基本というわけじゃなくて、つまりそういう説話の構造がよくあるものだってだけのことでは?

光男● それは確かに一理あって、ぼくも単にオリジナルがどこにあったかを問題にしたいわけじゃありません。たとえばかの柳田國男先生の「玉依姫考」なんかをひもとくと、「玉依姫」という名の女神は各地のいろんなところで祭られていて、それぞれの社で記紀にみえる神武天皇の御毋であったという方や、先にあげた「活玉依毘売」とかにこじつけられているんですが、それに対して、「玉依姫」とは決して文献のなかに特定できる固有名詞ではなくて、神の依りましとなる能力をそなえた女性をさす普通名詞だった、ということを明解に主張しています。

●●● そうでしょう。するとようするに、そんな似たようなおはなしがいくらでもあった、ってことになっちゃうだけなんじゃないかなあ。

光男● まあ聞いてください。その柳田先生の主張に通じるようなことが、前回も取り上げた谷崎潤一郎の「吉野葛」にも見られます。
はるか王朝末の昔、鎌倉方に追われる身となった九郎判官義経が吉野の峰の白雪を踏み分けて去った後、残された愛妾・静御前がその家に逗留し生涯を終えたという伝説を伝え、「初音の鼓」として歌舞伎「義経千本桜」にも取り上げられた遺品を家宝として大切にしている旧家の農夫が、デタラメな年号の入った位牌を示しつつそれも「あるいは静御前のではないかと思います」と真顔で語るのを聞いての述壊が、こんなふうにあるんです。

その人の好さそうな、小心らしいショボショボした眼をみると、私たちは何もいうべきことはなかった。今更元文の年号がいつの時代であるかを説き、静御前の生涯について『吾妻鑑』や『平家物語』を引き合いに出すまでもあるまい。要するに此処の主人は正直一途にそう信じているのである。主人の頭にあるものは、鶴ケ岡の社頭において、頼朝の面前で舞を舞ったあの静とは限らない。それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、ーーなつかしい古代を象徴する、或る高貴の女性である。「静御前」という一人の上臈の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古え」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。そういう上臈が実際この家に宿を求め、世を住み侘びていたかどうかを問う用はない。せっかく主人が信じているなら信じるに任せておいたらよい。強いて主人に同情をすれば、あるいはそれは静ではなく、南朝の姫宮方であったか、戦国頃の落人であったか、いずれにしてもこの家が富み栄えていた時分に、何か似寄りの事実があって、それへ静の伝説が紛れ込んだのかも知れない。
谷崎潤一郎「吉野葛」

●●● はあ、でもこれって、歴史的事実はともかく、なんだか「信ずる者は救われる」の世界ですね。

光男● あ、そうですね。ある意味「宗教」なのかもしれない。べつの言い方をすると、引用文中にも「『静御前』という一人の上臈の幻影」とあるけど、つまりは「まぼろし」ですね。

●●● 幻想にすぎないってことになっちゃうんですか?

光男● でも、「幻想にすぎない」っていう言い方をしてしまうと、その瞬間にすごく大切なものがこぼれおちてしまうような気がするんです。

●●● では、そのへんはもうちょっとていねいに思索してみましょうか。この話の流れからいうと、なんだか吉本隆明の「共同幻想論」なんかが思い浮かんでしまいますけど。

光男● まさにそうですね。ちょっと引用してみましょうか。

国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同のし組やシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫版のための序

●●● すべてが幻想だっていうことでは、岸田秀の「ものぐさ精神分析」みたいな感じもしますが。第一夜で言ってた「夢は、終わりました」ってこととも関係してくるのかな?

光男● まあ、そんなところでしょうけれど、ともかくもうちょっと引用を続けてみましょう。

そして国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない。この本でとり扱われたのはそういう主題であった。
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫版のための序

●●● それってつまりどういうことですか?

●●● つまり国家を統べる宗教や倫理、ようするにぼくたちの心の動き、たとえば「『祖先』に対し、『主君』に対し、『古え』に対する崇敬と思慕の情」というようなものですけど、それがひとつの中心に凝縮していくというのは、たとえば「静御前の幻影」でもいいし、ぼくはすごく端的によくできた型だと思って三輪山の神話をとりあげたりしましたが、そういう伝承でもいい。もっとミもフタもなく象徴的に言ってしまうなら・・・。

●●● あ、分かりますよ。「天皇」でしょう。

光男● ご名答。なんだか前回もこんな展開があったから、見抜かれてしまったかな(笑)

●●● そういえばせっかくテキストを用意したのに、だいぶ「歴史教科書」からは脱線してしまいましたね。

光男● うーん、まあ、あせらずじっくりやりましょう。それじゃこのへんで「新しい歴史教科書」にもどってみると、ぼくがこの教科書を支持するというのは、わりと「神話」ネタが豊富だとか、左寄りすぎないとか、そういう要素のひとつひとつよりもまず、「歴史」とは何か?っていう根本的なところに感じ入ってしまったから、というところがあるんです。

●●● それははじめに付いてる、「歴史を学ぶとは」という文にあるようなことですか?

歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。
扶桑社版「新しい歴史教科書」

光男● これって、乱暴なのを承知で言いかえれば「歴史」とは「共同幻想」であるっていうようなことですよね。そういう用語の好き嫌いはあるにしても。少なくとも、この教科書を通読すると、これが「歴史」とは「物語」だ、っていう思想で書かれているのはまちがいない。それでぼくはそんなところがすごく気に入ってしまってます。

●●● はあ。でも「歴史」っていっても科学的に、実証的に真実に迫ることが重要なんじゃないかなあ。

光男● それはもちろん、たいせつなことです。この教科書もすごくきちんとやってると思います。だけど、すべては幻想かもしれない、っていう思想の前に、究極的な真実って示すことができるのかな?どっちが正しいかっていう仕分け方そのものが相対化されてしまったら、どうしますか?

●●● どうしますか?っていわれても・・・困ります。(笑)

光男● じつはぼくも困ってしまったんです(笑)。あれもこれも、ちっともステキじゃない。でもきっとぼくが思う「ほんとうにステキなこと」ってきっとあるはず。だけどそれもまぼろしかもしれない。

●●● ああ、なるほど。そういう問題意識だったんですね。いまのところ最後に出た「献血劇場」VOL.38に掲載の「雨の日の女」では、「この世には、ほんとうにステキなものがあるのです。」と書かれてましたが。

光男● ぼくはそう信じるっていう、信仰告白みたいなものですね。それで、ずっと「ステキな言葉、ステキな詩、ステキな歌」ってことを追求してきて、ここに至って思うのは、やっぱりどんな「記号」を選ぶかってことじゃなくて、ほんとうにたいせつなのはやっぱりコンテクスト、文脈だってことでした。そのためにはぼくらがもう一度「物語」をとりもどすこと。そして「物語」としての「歴史」っていうことが鍵なんじゃないかな?とかいうようなことを思いつめていた時に、不意に好奇心をそそられてしまったのが「歴史教科書問題」で、そこはまさにぼくが戦うべき主戦場といってもいいくらい、いろんな思想的問題でいっぱいだったんです。

●●● なんだかちょっと、分かってきたような・・・。もうすこし詳しくお聞きしたいところですが、今回はひとまずこのへんで。それじゃ次回は、その「歴史教科書問題」に好奇心をそそられてしまったきっかけとか、経緯といったあたりからおうかがいしてみましょうか。

光男● そうですね、それにあわせてぼくの個人史的なこととか、フリーペーパー文化誌「献血劇場」の歴史のことまでおはなしできたらいいなと思ってます。

●●● それではみなさん、どうぞ次回「薬箱戦争●第四夜」をお楽しみに。

第三夜後記 * 20020809

あとがき 前回にひきつづき、第三夜でも「日本の神話礼讃」でとりあげた三輪山神話、「ももそ姫」のおはなしについて、「新しい歴史教科書」をはじめ、谷崎潤一郎「吉野葛」、加えて折口信夫・柳田國男の説なども参考に考察を深めてみましたが、いかがでしたか?吉本隆明「共同幻想論」からの引用部分は角川文庫から出ている改訂新版に付された序文からのもの。いまさらいうまでもないくらい有名な本ですが、民俗学や古代史をとおして思想を探ろうとするとき、やっぱり避けては通れない基本文献です。次回はもうちょっと「歴史教科書問題」に迫ってみたいと思っていますのでご期待ください。

折口信夫の晩年
岡野 弘彦

共同幻想論
吉本 隆明
定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 僕ならこう考える―こころを癒す5つのヒント ハイ・イメージ論〈1〉 わが「転向」
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