薬箱戦争 ● 第五夜
20020909

画 ● 稲村 光男
update ● 20021025

●●● 今回はちょっと予習してきましたよ。

光男● そうですか。それはよいこころがけで。

●●● それでですね、あれこれ疑問に思うところもありますので、いろいろ質問させていただきたいな、と思ってるんですが。

光男● なんだか詰問されちゃいそうな雰囲気だけど、まあいいや。なんでもどうぞ。

●●● ではまず前回までのおさらいを。前回の第四夜では、ここ数回話題にのぼってました「新しい歴史教科書をつくる会」で初期に事務局長を務められてたという、民俗学者の大月隆寛さんのお名前が出ましたね。それで、フリーペーパー文化誌「献血劇場」を発行してきたなかで、大月氏の発言とかにかなり強力に影響されてたということでしたが。

光男● というか、とても耳が痛いこというひとだなあ、というひっかかりがまずありましたね。他にそんなこと言う人がいなかったこともあって、ずっとひっかかってました。とは言っても、そのあとしばらくは大月氏の書いてるものとかあまり読む機会もなかったんだけど、それとはまたべつにぼくも20代の前半くらいで柳田國男ってすごくおもしろいってハマってしまって、数年かけて全集読みしたりとかしてて、そうこうしているうちにまたちょっと大月氏の文とか目にする機会があったり、そのうえうっかり歴史教科書問題というか、歴史認識とかが気になりだしてしまったとき、その最初のひっかかりからずっとつながってくる、ぼくらの世代の思想的な問題、っていうとたいそうなことのようだけど、そんなようなものが、地に足がついた視点と物言いで、すごくよくわかってきたような気がしたんです。

●●● なるほど。ただこの大月隆寛さんが「新しい歴史教科書を作る会」の事務局長をやってた期間て意外に短かくて、ごく初期のあいだだけだったんですね。

光男● そうなんですよね。こういう組織とか運動にはありがちなことなんだろうけど、それなりに剣呑な雰囲気のなかで「作る会」とは袂を分かってしまったようですが。

●●● それで、その大月氏が昨年(2001年)、夏目書房から発行された「どうちがうの?新しい歴史教科書VSいままでの歴史教科書」というブックレットによせられた「総講評:『良き観客』のみなさんへ」という文を読んでみますと、こんなふうにありました。

この歴史教科書問題、九十年代のニッポンの情報環境でいっちょまえにものを考える立場を張ってゆく上での、言わばリトマス試験紙みたいなものだった。ほんと、この問題についてどの局面で誰が、何をどうコメントしていたのか、ざっと並べて虫干ししてみたら、それだけでいい民俗資料になること請け合いだよ。それくらいにこの問題、観客のありようも含めた情報環境の激変期に立ち上がったということが、問題自体の中味と同じくらい、いや、もしかしたら中味以上に大きな意味を持っていたのだな、と思うぞ、あたしゃ。

(夏目書房編集部・編「どうちがうの?新しい歴史教科書VSいままでの歴史教科書」掲載
大月隆寛「総講評:『良き観客』のみなさんへ」より)

光男● まったく同感です。そもそもぼくがこの「薬箱戦争」で、まずこの問題のことをおはなししなくちゃと思ったのも、あれこれ思ってきたことを「虫干し」して、「民俗資料」のいちサンプルとして提供しておきたい。あるいは、最低限そのくらいの意味はあるんじゃないかな、というふうに思ったからです。

●●● そうでしたか。ではもうちょっと引用してみますね。大月氏自身が大きく関わって、それがまた「つくる会」内部の人間関係から身を引く遠因にもなったらしい「公民教科書プラン」についての言及に続けて、次のようにあります。

歴史教科書もそうだけれども、これがベストかどうか、は、ひとまず別だ。「戦後」パラダイムに頑強に結びついてきた歴史観や社会観、ひらたく言えばそういう「ニッポン」についてのルーティンを、中学生向けの教科書という形であれ、力づくで相対化しようとした、そういう仕事としてまず何より意義がある。中味のあれこれをうんぬんする以前に、その一点をまず素直に評価できないようなやつは、どんなに偉そうなことを言い、もっともらしい肩書きを持っていたとしても、いまどきのこの情報環境で「良き観客」としての世間を前に信頼できる立ち位置を構築することを初手から放棄する物件であること決定。そう、この歴史教科書問題というやつは、それに関わるニンゲンの器量や懐の深さみたいなものを良くも悪くも映し出す鏡、になっているのだよ。

(夏目書房編集部・編「どうちがうの?新しい歴史教科書VSいままでの歴史教科書」掲載
大月隆寛「総講評:『良き観客』のみなさんへ」より)

光男● これもつくづく同感です。もちろん、決してこの大月氏の文が自ら関わったことのある仕事だから肯定的に評価してるってわけじゃないのと同じで、ぼくもこちらの教科書を支持するから器量がおおきくて懐が深いニンゲンだ、なんていいたいわけじゃないですよ。

●●● まあ、大月氏については読んでみると「つくる会」の人間関係の確執を越えて、あえてものを言ってるというのがわかるのでそれはそうなんでしょうけど。それに同感、というあたりをもうすこし詳しく。

光男● ぼく自身のことをおはなしすると、まずフリーペーパー「献血劇場」は、「ほんとうにステキなものへの好奇心いっぱいで感受性豊かな万年少年少女のために」というスタンスで発行してきました。

●●● まあ、そうでしたね。

光男● ここで白状してしまうと、じつはぼく、けっこう本気だったんです。

●●● いまさらことさらになにを言うかと思えば(笑)。

光男● でもね、実際のところ笑いごとじゃなくて、ここへきてみんな実は本気じゃなかったのかな?ってあきれてしまった感じがあって。

●●● それはまたどういうわけで?

光男● そもそもぼくは自分がやってることを「サブカルチャー」とか言うこと、言われることにちょっと抵抗がありました。それでぼくがめざしているのはあえていうならば「カウンター・カルチャー」なんじゃないか、とか思いはじめたんですけど、そうするといったい何に対するカウンターなのかな?ってことになって、それはやっぱり大月氏の言葉を借りて言えば「『戦後』パラダイムに頑強に結びついてきた歴史観や社会観、ひらたく言えばそういう『ニッポン』についてのルーティン」とでも言うべきものらしい、ということになるわけです。

●●● うーん、でも、いわゆる「サブカル」系ってことで充足しているひとはいっぱいいますよね。いや、むしろそれでそこそこの成功がおさめられたらっていうひとが大多数でしょう?

光男● それがぼくには不思議でしょうがない。これだけなんでも簡単に手に入る世の中で、それじゃあえてぼくらがなにかを作ろうとかすることもないんじゃないかっておはなしになっちゃうような気がする。

●●● 言われてみればそうかも。だから何かに対してカウンターという姿勢をとるところに存在意義を見つけていく、ということですか?

光男● それがなかったら何もすることはないと思います。

●●● たしかに、何か表現活動とかやってるうえで、自己満足というか自己顕示欲というか、そういうのをのぞいてみたらいったい何が残るやら、っていうのは考え込んでしまうとこありますね。

光男● 大きな問題ですよ。それでぼくはいまこの国に生きる少年少女のみなさんへむけて、なにかカウンター・カルチャーであるようなものをお届けすることはできないものかと、この十年のあいだずっと模索してきたんです。

●●● それも、実はけっこう本気で、というわけですね。

光男● そうなんです。それでやってみて、少しだけど確実に手応えはあったと思う。けれどかなり多くは誤解されたとも思ってます。それで収支決算してみたら、きっといまこの「『ニッポン』についてのルーティン」をゆるがすようなことはまず無理なおはなしだったのかな、という感じで、がっかりしてしまった感じがあるんです。

●●● まあ、冷静に考えてみて、それはそうでしょう。ちょっと異端な感じを楽しんだりしながらサブカルチャーを消費してこの平和な日常を生きていければそれでよし、とするのはしかたのないことだと思いますよ。

光男● あともうひとつ、問題としては、何かに対するカウンターって言ったって、いつもただ反対してるだけじゃ共産党といっしょじゃないか?っていう(笑)。もっとわかりやすく言うと社民党かな。旧社会党というか。

●●● 代案なき万年野党ですか。ってまたそういう憎まれ口を(笑)。

光男● ところがこの十年のあいだに、ぼくが思ってもなかったところで大きく「『ニッポン』についてのルーティン」をゆるがすようなムーブメントが起きてしまったんです。それも歴史認識やナショナリズムといういちばん本命のテーマで。

●●● ああ、それが「歴史教科書問題」だと。しかも中学生の教科書を、実際にあたらしくつくってしまうというところまでやってしまった。これはすごいことだ、というわけですか。

光男● すごいことですよね。すなおにそう思ってしまいます。たとえばぼくが日本の神話礼讃のような文章を書きながらも、なかばこんなことを言っても空しいなと思っていたのと同じころ、それと似たようなことを中学生の歴史教科書に盛り込むなんて、正面から大上段で斬り込むような運動がはじまっていたんですから、今にして思えば「やられた!」って感じです。

●●● なるほど、そういうふうな流れからだと、問題の扶桑社版「新しい歴史教科書」を支持するというのも、わかるような気がするかな。それにしても、そういうムーブメントととらえてみると、よりによって「教科書」ってところが意表をついてますね。

光男● そうそう。そもそも現状を変えようとするのがカウンターカルチャーというか、まあ反体制といってもいいかもしれないけど、そういうようなものだとすると、「教科書」というのはなにより体制側の象徴だったはずなのにね。ずっと反体制のほうにいると思われてきたリベラルないし左寄りのイデオロギーいつのまにやら教科書を牛耳ってしまっていて、いわゆる「保守」の側の勢力が反体制を演じてしまってる。「時代は変わる」ってほんとうだなあって思いました。

●●● ボブ・ディランですか。どこかで転倒があったわけですね。

光男● ぼくらが生きてきた時代のどこかで、ですね。

●●● ではこのあたりでちょっと質問を。

光男● 来ましたね。はい、何でもどうぞ

●●● まず確認しておきます。大月隆寛さんはこの歴史教科書の運動について、「ひらたく言えばそういう「ニッポン」についてのルーティンを、中学生向けの教科書という形であれ、力づくで相対化しようとした、そういう仕事としてまず何より意義がある。」と評価されてますよね?

光男● ぼくもそう思います。なにしろ十年くらい前までは考えられなかったくらい、「『戦後』パラダイムに頑強に結びついてきた歴史観や社会観」が揺らいでしまってる。

●●● いまどきちょっと気のきいた少年少女なら、朝日新聞から引用してきたような歴史観や社会観にはつっこみを入れられるようになってますからね。

光男● そうそう。「受験に朝日」とかいってたけど、かつては圧倒的に強かったそういう偏差値秀才の模範回答みたいなものがいまや相対化されちゃった。安直に「おじいさん達の世代は戦争で悪いことをしました」なんて言ってるひとたちのほうがいかに不勉強で想像力不足で思考停止してるかってことがはっきりしちゃったし。

●●● カタカナで「サヨク」って言って軽蔑されちゃう。それはそうとして、いままでのそういう「『ニッポン』についてのルーティン」が相対化されてしまったあとに、ではいったい何があるのか?っていうことをお聞きしたいんですが。

光男● あ、いい質問。核心にせまってきましたね。

●●● たしかに相対化しっぱなしでは、なにもかも空しい不毛の荒野が広がるばかりですからね。でも問題はそこから先に何があるのか、それともなんにもないのか?そのあたりをぜひ。

光男● 不毛の荒野といえば、第一夜でおはなしした三島由紀夫「天人五衰」のラストと「記憶もなければ何もないところ」とジョン・レノン「イマジン」の「国境もない、宗教もない、ぼくらの上には空だけ」とを重ね合わせたところに浮かびあがってくる荒涼とした風景っていうのも、それかもしれないですね。そんなふうになにもかもが相対化されてしまった原風景のふりだしにもどってしまって、ぼくはニヒリズムをこえてあらためて「ほんとうにステキなことってなんだろう?」ということへ思いをめぐらすことをもくろんでいるんです。

●●● そこで、たとえばこの「薬箱戦争」の第二夜以来、記紀神話をひもといたりしながら、天皇制にも言及して、「この国でほんとうにステキな言葉、ステキな詩、ステキな歌、ということを思う時、どうしてもそこに収斂していかざるをえない。」とまで言い切ってしまってますが。

光男● そうでしたね。見てのとおりです。ほんとうにステキな「物語」をとりもどすこと、と言ってもいいかも。

●●● けど、今回の予習として大月隆寛氏の著作を読んできたんですけど、どうもそのへんの見解はだいぶ違うみたいですよ。

光男● 何を読んできたました?

●●● えーと、まずは1999年に洋風社から発行の「歴史の消息について」。サブタイトルには「<いま・ここ>からの『歴史』を考える」とある本ですが。

光男● ああ、とてもいい本でしたね。あとがきでは「ぼくのこれまでの仕事の流れからすると、民俗学の思想史的批判とその可能性の同時代的再検討といった系統に位置するものになるのだろう。」とありますように、大月さんのいちばんの本業というか、本領を発揮した仕事のひとつだと思います。

●●● で、その本からちょっと引用なんですけど。

どのように自分と関係があるかもよくわからないまま、外からいきなり異物として与えられる乾いた言葉、普遍的な知識としての「社会」や「歴史」ではなく、それらと<いま・ここ>の自分とのかかわりをこそ確かなものにしておきたい。そのような<いま・ここ>からの一点透視のパースペクティヴのなかにこそ、「科学」というもの言いが過剰に普遍化していった戦後の「正しさ」のなかで抑圧されてしまった“おはなし”の楽しさ、おもしろさもまた、なんらかの形で回復できる可能性があるのだろうと考えます。
(大月隆寛「歴史の消息について」洋泉社)

というような、ちょっと読んだだけでもやっぱり例の歴史教科書問題のこと念頭においてのことなんだろうな、という文がありまして、さらにそれについて、文字に規定された支配的な言説としての「強い歴史」をオーラル(口承的)なメディアの側からつむぎだす「もうひとつの歴史」による相対化、「歴史的真実と芸術的真実を明確に分離して考える今のわれわれにとって当たり前のものである『理性』において、なおそのような『混合的真実』がわれわれの生のなかにあり得ること」といったことへの言及があるんですけれど、問題はそのあとです。大月氏はこんなふうにクギをさしているんですよ。

それは、何も混沌とした神話的なテキストの水準に歴史を放り込むことではない。まして、古事記だの日本書紀だのを不用意な浪漫的視線のままうっとりと称揚するなど論外の沙汰。
(大月隆寛「歴史の消息について」洋泉社)

光男● ああっ、痛いところついてきたなあ。

●●● どうですか?これって、日本の神話礼讃のような文を書いたひとにとっては・・・。

光男● 面目丸つぶれ、という感じだなあ。「論外の沙汰」じゃね。

●●● さらに、大月氏としては、これからのナショナリズムの再構築のうえで、「天皇制」はもう役に立たない、といった否定的な発言もあるんですけど、どう思いますか?

光男● まあ、正論です。ごもっともです。面目ない、ごめんなさいって感じですけれど。ぼくはたとえば記紀神話の礼讃のようなこともやりました。それもまさに「浪漫的視線のままうっとりと称揚する」というようなやりかたで。でもこのままだとみんな不用意にその記号だけがうけとめられちゃうにちがいない。たとえばその神話が、どんなコンテクストのうえで読まれることで<いま・ここ>に生きるぼくらのパースペクティヴのなかにほんとうにステキな「物語」として浮かび上がってくるかこないか、もう一度検証しておかないことにはおはなしにならない。そう思ったから、いまこうして、さして得意でもない「思想」を語る談話室「薬箱戦争」なるものをはじめたんです。それはこの件にかぎらず、フリーペーパー「献血劇場」で追求してきた「ほんとうにステキなこと」のすべてについて通じることだと思ってます。

●●● それは第二夜ででてきた、「記紀神話のストーリーがサブカルチャー経由でメジャーなものになるって筋書きにしても、大手の広告代理店が仕掛ければ簡単なことでしょう。だけどそれで大いに消費されてめでたしめでたしっていうふうにはならないですよ。」という認識につながりますね。

光男● そうなんです、それは「天皇制」に関しても同じことで。ぼくは「コスプレ右翼」として「ごっこ」を趣味的に楽しみたいとはさらさら思ってませんから。はっきり言ってそういう恥知らずな手合いは単なる売国奴で、虫酸が走る。ぼくはここでも、実はけっこう本気なものですから。

●●● 普通に生活していて、天皇制って縁遠いものですよね。あまり考えたりもしないなあ。

光男● ・・・今年(2002年)の夏は、多摩川に珍獣があらわれて大人気になったでしょう。

●●● また急に話題が変わりますね。アゴヒゲアザラシのタマちゃんのことでしょう。

光男● そう、そのタマちゃん。このあいだニュースをみてたら、そいつが出没する川の流域の大衆がたくさん集って、たいそうもりあがってました。では次のニュースです、ってことで、続いて避暑のため葉山御用邸へむかう皇太子ご一家の映像が出たんですけど、こちらでもやっぱり愛子内親王をひとめ見ようと集まった大衆のひとだかりができてて、三脚にカメラをセッティングしたおやじさんなんか、テレビ局のマイクをむけられて、「いや、このあいだはアタマだけしか撮れなかったから、今度は全身撮ろうと思ってねえ」とか得意げにしてましたよ。

●●● はあ、まるでタマちゃんといっしょですね。

光男● 戦前なら不敬罪じゃねえのか、とか野暮なこと言うつもりはないけど、幕末に御降嫁のため東海道を下る和宮様を拝して、まともに見たら目がつぶれるとか思ってた庶民とぼくらの世代の大衆とは、ずいぶん遠くまできてしまったなあ、とか思ったりして。

●●● ただ、なんだかんだいって庶民は天皇様が好き、と言いますよね。少なくとも共産党よりは支持されてるでしょう(笑)。

光男● 80年代の思想界のスターだった浅田彰京大助教授は柄谷行人氏との対談で、昭和天皇の崩御のとき皇居前で土下座する人々を見て、「なんという土人の国だ」と語ったとか。

●●● あ、なんかそれは聞いたことがある。

光男● まあ、正直言ってぼくも現実の皇室についてはタマちゃんとおなじくらいの関心しかないけど(笑)。

●●● なんだ、そうなんですか。

光男● 幕末といえば、勤王の志士のあいだでは天皇のことを「玉」って言ってたというおはなしもある。

●●● 将棋じゃあるまいし、というか、なんかゲーム感覚みたいですね。

光男● でもそれは19世紀後半の世界情勢というコンテクストのうえでは、東洋で最初の近代国民国家を創って白人植民地主義の欧米列強と渡り合う壮大な大勝負のかけがえのない持ち駒になった。これは確かでしょう。

●●● なんだかまた右寄りっぽい感じもしますが、まあ、それはそうでしょうね。でも今、この21世紀になって・・・。

光男● そう、つまり、「天皇」というものを記号としてとらえてしまうと、それがコンテクスト如何によっては多摩川の珍獣ほどにも役に立たないモノでしかない。それいうことになっちゃうと思う。

●●● 良くも悪くも人畜無害というか。

光男● 大月隆寛さんなんかは民俗学者ですから、そもそも稲作農耕を営む「常民」がこの国の構成員の大多数だということを基盤に天皇制とナショナリズムが結びついていた、という大前提がまるで崩壊してしまったとか、当然そういうようなことも踏まえて、いまやもう「役に立たない」ということでもあり、またこんな発言にもなってくるんでしょう。

少なくとも伝統的な「保守」のある部分にあると聞く「天皇制」と「皇室」に対する抜きがたい忠誠心のようなものは、どう誠実に探ってみても僕個人の中にはないし、これから先も宿りようがないと思う。どんなに糾弾されてもこの感覚だけは譲りようがない。「天皇制」と「くに」との間の必然性が、もうかつての日本人のように身にしみようがなくなっているのだ。
(大月隆寛「あたしの民主主義」毎日新聞社)

●●● 誠実ですね。リアルですね。こうしてみるとなんでまた右翼とかいうレッテル貼りがされたんだか、さっぱりわかりませんね。

光男● あれ、これじゃまるでぼくのほうが右翼だ(笑)。でもやっぱり、まずこの認識をふまえることは大事だと思う。それをすっとばしてコスプレ右翼になってしまうのは冗談抜きですごくイヤだなあ。それこそ人畜無害なことに甘ったれてるってことだし、ほんとうにかっこわるい。

●●● それでも、あえて「天皇制」なんですか?

光男● だから、記号としての天皇とかじゃなくて、コンテクストとしてこの国の歴史とか、物語とか、「献血劇場」で使ってきた言葉で言うと「ステキな言葉」とか、そういうものを束ねてきた文脈みたいなものとして、ということをあえて想定してみたい。それでいまここに生きるぼくらの身の丈から望んだパースペクティヴのなかに、たとえばあの三輪山神話が浮かび上がってくるということはありえないのかな、ということを探ってみたい。不用意な浪漫的視線のままうっとりと称揚するだけじゃなくて、もっと誠実に、切実なものとしてね。

●●● さあ、はたしてそんなことができるんでしょうか?

光男● それがぼくの、ささやかながらいろんなひとたちに愛読していただいた「献血劇場」というメディアをとおして十年近く試行錯誤してきたことの、おとしまえみたいなものなんじゃないかな、という気がするんです。

●●● そうですか。では最後にもうひとつ質問を。さきほどの引用の中にも出てきた大月隆寛さんの著作で、「あたしの民主主義」(毎日新聞社)という本があります。「『新しい歴史教科書をつくる会』に助太刀する理由」から「『新しい歴史教科書』と別れた理由」といった文章までをも収録した歴史とナショナリズムについての本、ということなんですが、まあ、言ってみれば大月氏なりのこの件に対する「おとしまえ」にあたるものかと思います。ここで大月氏は、本のタイトルにもあるように「基本態度は『民主主義』である。言い間違いではない。背筋を伸ばして腹式呼吸で、断固『民主主義』だ。」と表明してるんですよ。この「民主主義」というのについてはどう思いますか?

光男● 思いっきりむずかしい質問だなあ。それを検討するにはもう何夜か談話を重ねないことには何も見えてこないと思うので、宿題としておきましょう。ただひとつだけぼくの思うところを言っておくと、大月氏の言う「民主主義」というのはそこいらへんでひと山いくらで大安売りされてるそれとはかなり毛色が違うもののようで、それはよくよく検討していくとぼくが「天皇制」と言うのと、意外と同じものだったりするんじゃないかな?っていう気が勝手にしてるんです。

●●● はあ?まったく背反するテーゼのようにしか思えないんですけど、そんなものですか?

光男● いや、まあ、あまり乱暴に断定してしまうと怒られそうなので(笑)、そういうこともありうるかもしれない、という可能性も留保して、ていねいに考えてみたいのです。

●●● ではそのへんのところから、また改めてやっていきましょう。お題は「民主主義」ということで。みなさまどうぞご期待ください。

第五夜後記 * 20021024

あとがき ・・・というわけで、次回から「民主主義」についてあれこれ検証していくうえでもういちどおさらいしておきたいのはやっぱり「言葉」の問題です。前回から今回わたってひもといてきた大月氏の著作のなかでかなり批判的に使われる「戦後民主主義」あるいは「学級民主主義」という言葉、それとはちょっと違ったニュアンスでとりあげられる「観客民主主義」といった言葉。これを考えるヒントとして指摘しておきたいのは、「民主主義」の「民」は「民俗学」の「民」なのでは?ということ、そしてそれならばそもそも「民」という言葉が意味するものは?といったことなど。そんなことを掘り下げていきたいと思ってます。

※おしらせ
今後の更新については、「処方箋」の〔改訂情報・20050305〕欄をご覧ください。

あたしの民主主義
大月 隆寛
歴史の消息について―「いま・ここ」からの「歴史」を考える
大月 隆寛
◆◇ search
万年少年少女思想談話室●薬箱戦争薬箱戦争
フリーペーパー 献血劇場 web-site / top献血劇場  web-site / top
稲村光男抒情画工房 | 薬箱手帖