* 雨の日の女 ◆ その34* 【番外編】

絵と文・稲村 光男
books & records review with lyrical illustrations
by mitsuo inamura

RAINYDAY WOMEN #12&35

ギターをひく少女

「雨の日の女」ロゴ

… but I would not feel so all alone, everybody must get stoned.
初出誌◆ フリーペーパー「献血劇場」VOL.34 ◆ 19991008 / 初版発行

このページは、フリーペーパー文化誌「献血劇場」誌上に連載された本とレコードに関するエッセイ「雨の日の女」の「番外編」として発表されたものです。
ぜひこちらの本文とあわせてご覧ください。
●本文 >> 雨の日の女#34 / ザ・ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」

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「雨の日の女」その34*番外編
フィル・スペクターのクリスマス・アルバム
〜もしくは花咲く乙女たちのプチット・マドレーヌ

ブライアン・ウィルソンにとって、音楽とは「眼が見えないひとに色彩を描いてみせるようなもの」なのだそうですが、そんな発想の源にあったのはきっと、あの音の魔術師フィル・スペクターが築きあげた音像だったにちがいありません。

だってそのいわゆる「ウォール・オブ・サウンド」なるものは、たしかに圧倒的な音響の塊でありながら、ぼくらに何か不思議な味覚さえも感じさせてくれる魔法のようなものだったのですから。

それはちょうどマルセル・プルーストの長大な小説で失われた幼年期の感覚を呼び覚ましたひとかけらのプチット・マドレーヌの味のように何ものにもかえがたい味わいで、だからぼくにはフィル・スペクターの「音の壁」というものがまるで、グリム童話でヘンデルとグレーテルが見つけたような、そんなお菓子でできたお家の壁みたいに思われて、それを聴くたびにいつだって、幼いころの夢みるような心地に帰ってしまわずにはいられません。

プルーストの「失われた時を求めて」の構造になぞらえて言うならば、ただノスタルジックなだけの凡百のオールディーズが思い出させてくれるのが断片的な意識的記憶でしかないのに対して、ぼくのお気に入りのクリスタルズの「ダ・ドゥー・ロン・ロン」やロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」といったガール・グループのステキな古典的ヒット・ナンバー、それに彼女たちも参加している、最高のポップ・ミュージックのレコードのひとつになったクリスマス・アルバムで聴くことのできるスペクター・サウンドは、まるごとひとつの小宇宙のような無意識的記憶までもあざやかによみがえらせてくれる紅茶に浸したマドレーヌの味のように、何か特別なものを秘めたかけがえのない音世界なのです。

フィル・スペクターのクリスマス・アルバム

それでここでは「ぼくの大好きなクリスマス・アルバム」として、たとえばビーチ・ボーイズの「クリスマス・アルバム」なども含めていくつかのレコードをとりあげてみるつもりだったのですが、やはりこのフィル・スペクターのあまりにもステキな一枚だけは別格で、クリスマス・アルバムといえばどうしてもこれに尽きてしまいます。

ぼくにとってクリスマスといえばカトリックの幼稚園に通っていたころに聞かされたベツレヘムの星、東方の博士たち、馬小屋の母と子といったヘブライの伝承の、なんとなく甘美なイメージの記憶がかすかに思い起こされます。けれどぼくはけっしてキリスト者ではありえませんでした。

もとよりクリスマスの風習の遵守は非キリスト教的であるとの説もありますが、そんなぼくがいまやこの高度消費社会でも最大級の浪費祝祭イベントとなって定着してしまったクリスマスの季節を意外と好きな理由のひとつは、街を歩いているだけでこのレコードが聴こえてくるからなのかもしれません。

ビーチ・ボーイズには「ステキな女の子がみんなカリフォルニア・ガールズだったらいいのにね」、という歌もありましたが、一年中がクリスマスだったらいいのに、なんて思ってしまいます。

Xmas Gift to You from Phil Spector
a Christmas Gift to You From Phil Spector
1.White Christmas - Darlene Love
2.Frosty The Snowman - Ronettes
3.The Bells Of St. Mary - Bob B. Soxx And The Blue Jeans
4.Santa Claus Is Coming To Town - Crystals
5.Sleigh Ride - Ronettes
6.Marshmallow World - Darlene Love
7.I Saw Mommy Kissing Santa Claus - Ronettes
8.Rudolph The Red-Nosed Reindeer - Crystals
9.Winter Wonderland - Darlene Love
10.Parade Of The Wooden Soldiers - Crystals
11.Christmas (Baby Please Come Home) - Darlene Love
12.Here Comes Santa Claus - Bob B. Soxx And The Blue Jeans
13.Silent Night - Phil Spector And Artists

クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター(紙ジャケット仕様)

  • 発売日: 2008/12/03

  • 1. ホワイト・クリスマス
    2. フロスティ・ザ・スノウマン
    3. 聖メリーの瞳
    4. サンタが町にやってくる
    5. そり滑り
    6. マシュマロの世界
    7. サンタがママにキッスした
    8. 赤鼻のトナカイ
    9. ウィンター・ワンダーランド
    10. 人形のパレード
    11. クリスマス
    12. ヒア・カムズ・ザ・サンタクロース
    13. きよしこの夜

●ディスク・ガイド / フィル・スペクター関連作品

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PHIL SPECTOR DEFINITIVE COLLECTION
PHIL SPECTOR DEFINITIVE COLLECTION

●まずおすすめしたいのが黄金期のフィレス・サウンド・ポップスのの集大成、4枚組CDボックス・セット「Back to Mono (1958-1969)」。そのうちの1枚が今回取り上げたクリスマス・アルバム、残りの3枚に「ビー・マイ・ベイビー」や「ダ・ドゥー・ロン・ロン」、フィル・スペクター自身が在籍したテディ・ベアーズの「逢ったとたんに一目惚れ」、ライチャス・ブラザーズの「ふられた気持ち」、アイク&ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」などの代表曲がぎっしり収録されてます。

Back to Mono (1958-1969) Back to Mono (1958-1969)

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●文中でも触れたロネッツやクリスタルズは60年代ガール・ポップスの至宝。とくにロネッツ の「ビー・マイ・ベイビー」については「雨の日の女#28番外編」でも「ポップ・ミュージックが生んだ最高のシングル盤」としてとりあげたことがありました。ぼくはこの歌が流れているあいだ空気を染めるどこか懐かしくて不思議な色彩がほんとうに大好きです。

The Best of the RonettesThe Best of the Ronettes
The Best of the CrystalsThe Best of the Crystals

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●そういえば、ザ・フーのロック・オペラ「四重人格」を映画化した「さらば青春の光」のサントラで、ぼくがいちばん繰り返し聴いたのはフーの演奏よりもむしろ「ビー・マイ・ベイビー」と「ダ・ドゥー・ロン・ロン」が収められたSIDE4のオールディーズ面でした。映画の中でこの曲がかかったシーンも印象的で、今にして思えば当時モッズのマスト・アイテムでもあったのですね。

QuadropheniaQuadrophenia

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●1970年以降のフィル・スペクターの仕事としてはすでにグループとして解体してしまったビートルズ終末期「ゲット・バック・セッション」の音源を何とか一枚のアルバムにでっちあげた「レット・イット・ビー」をはじめ、ジョージ・ハリスンの傑作「オール・シングス・マスト・パス」、シングル「インスタント・カーマ」やアルバム「ジョンの魂」から「ロックンロール」に至るジョン・レノンのソロ・アルバムなど、ビートルズ関連のプロデュースでよく知られています。

Rock 'n' Roll John Lennon / Rock 'n' Roll

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●変わったところではNYパンクのラモーンズとか、詩人レナード・コーエンといったあたりも手掛けていて、この時期の仕事はアーティスト本人には不本意なオーバー・プロデュースで不興をかったり、あまり芳しい評価ではないみたいですが、個人的には、実はそう嫌いでもありません。

Death of a Ladies Man Leonard Cohen / Death of a Ladies Man

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●けれど音の魔術師としてのフィル・スペクターがほんとうに輝いていたのはやっぱり1960年代前半。冒頭でも言及したようにその直接的な影響がブライアン・ウィルソン〜ビーチ・ボーイズにあったことはまちがいありませんが、さらにその間接的な影響がフォーク・ロックにも及んでいったことについては雨の日の女#28 ザ・バーズ「ミスター・タンブリン・マン」の頁のディスク・ガイドでも触れていますので、あわせてご一読ください。

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●また、明らかにフィル・スペクターを意識して制作されたはずのビーチ・ボーイズのクリスマス・アルバムもステキな一枚。これともうひとつ、ただ単純に楽しいパーティ・アルバムもクリスマスにはおすすめ。

Christmas Album the Beach Boys / Christmas Album

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●フィル・スペクターの影響を受けた作品のコンピレーションとして、「フィルズ・スペクトル・フィル・スペクターの時代」という好作品集があります。2005年9月には続編「フィルズ・スペクトル2-フィル・スペクターの時代」もリリースとのことなので要チェック。

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●テディ・ベアーズの「逢ったとたんに一目惚れ」の原題" To Know Him Is To Love Him "は、フィルが9歳のころ自殺した父ベンジャミンの墓碑銘から取ったといういわくつきのタイトルで、レスリー・ゴーアはじめ多くのカヴァーがありますが、ぼくと葉子の共通のお気に入りはピーター・アンド・ゴードンのヴァージョン(" To Know You Is To Love You "、邦題「つのる想い」)。このデュオから独立したピーター・アッシャーの仕事の中にはトニー・コジネクの「バッド・ガール・ソング」とか、とてもステキな作品の制作があるのですが、彼がプロデューサーに転身してしまったのもきっとフィル・スペクターという強烈な存在を意識してのことだったのだろうな、と思います。

Ultimate Collection Peter and Gordon / Ultimate Collection

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●さらに特筆しておきたいのがごく初期のローリング・ストーンズとフィル・スペクターの関わりです。彼らの初代マネージャーでプロデューサーも務めていたアンドリュー・ルーグ・オールダムが一説には「ウォール・オブ・サウンド」というコピーの発案者だったとも言われるほどのスペクター崇拝者であったこと。1964年のロネッツとの英国ツアーでのジーン・ピットニーも交えたストーンズとスペクター邂逅、米国ツアーでの再会、そしてそれをきっかけにフィレス・サウンドを支えた主要ミュージシャンのひとりジャック・ニッチェが多くのセッションに参加していったことが1960年代のストーンズ・サウンドに大きく影響した、ということはもっと注目されて然るべきだと思います。たしかにこのころのストーンズのシングル・ヒットにも、独特の不思議な色彩、お菓子のような味わいが感じられるのですから。

シングル・コレクション(ロンドン・イヤーズ)
ザ・ローリング・ストーンズ / シングル・コレクション(ロンドン・イヤーズ)

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●わが国におけるフィル・スペクター・サウンドといえばもちろん大滝詠一のナイアガラ・サウンド。はっぴいえんど時代の代表曲のひとつ「はいからはくち」やファースト・ソロ・アルバム収録曲「うららか」を「ダ・ドゥー・ロン・ロン」アレンジにしてみたり、吉田美奈子シリア・ポールが歌った不朽の名曲「夢で逢えたら」がまるで「ビー・マイ・ベイビー」だったりというあたりから、いろいろ聴きくらべてみるのも楽しいもの。

オールアバウトナイアガラ/大瀧詠一 オールアバウトナイアガラ / 大瀧詠一

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●その大滝詠一氏が監修して1990年に白夜書房より邦訳が刊行された「フィル・スペクター〜甦る伝説」という本がありましたが、こちらは現在絶版のもよう。資料的価値はもちろん言わずもがなですが、2003年にはなんと第一級殺人の容疑で逮捕されてしまったポップ・ミュージック界の奇人のライフ・ストーリーとしても興味深い一冊かも。

▼追記 / このページで復刊リクエストへのリンクを貼っていた甲斐もあって、2008年ついに増補改訂版として待望の刊行の運びとなりました。

フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版
フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

He's a Rebel: Phil Spector--Rock and Roll's Legendary Producer
He's a Rebel: Phil Spector--Rock and Roll's Legendary Producer

●ブック・ガイド / マルセル・プルースト「失われた時を求めて」

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●「失われた時を求めて」といえば、20世紀文学の最高峰とも評される名作中の名作。ですが、「源氏物語」をも凌駕するあまりにも膨大な大作なので、そのすべてを読み通し理解するのにはそれなりの覚悟が必要かもしれません。まずは上下二冊ハードカバー、もしくは全三冊の文庫版にまとめられた抄訳を読んでみるのもかしこいアプローチかもしれません。

失われた時を求めて〈上〉
失われた時を求めて〈上〉
失われた時を求めて〈下〉
失われた時を求めて〈下〉
抄訳版 失われた時を求めて〈1〉
抄訳版 失われた時を求めて〈1〉
抄訳版 失われた時を求めて〈2〉
抄訳版 失われた時を求めて〈2〉
抄訳版 失われた時を求めて〈3〉
抄訳版 失われた時を求めて〈3〉

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●ちくま文庫からは全訳10巻セット(井上究一郎訳)も発売されています。よろしければぜひ読破にチャレンジしてみてください。

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●集英社からは、プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界と題された入門用新書も著した鈴木道彦個人全訳(ハードカバー版・全13巻)も。

失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉

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●さて、微妙な描写を執拗に積み重ねることでこれだけの大長編小説を書き上げたマルセル・プルーストという作家も、異常なまでに偏執的という意味で、数分間のポップ・ソングのためにオーケストラにも劣らない楽器を動員して音の壁を作り上げたフィル・スペクターや「グッド・バイブレーション」一曲のために90時間におよぶテープを編集したブライアン・ウィルソンと同類のひとだったのではないかという気がしてなりません。
事実、喘息児童であったというマルセル少年が長じて音と光に過敏になり、コルク張りの部屋に閉じこもって執筆に没頭したというエピソードは、音楽のプロデュースにあたってスタジオの灰皿にまでこだわって指事を出したというフィルや、ホテルの部屋に数トンの砂を搬入しピアノの下に砂場を作って遊んでいたというブライアンの姿を彷佛とさせるものです。

プルースト―感じられる時 ジュリア・クリステヴァ / プルースト―感じられる時

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●紅茶に浸したマドレーヌの香りと味から幼少期の記憶を呼び起こすという有名なシーンは、今では「プルースト効果(プルースト現象)」という神経科学の用語にさえなっているということですが、ぼくがここで思い出すのは柳田國男先生の自伝「故郷七十年」のなかの「鳥柴の木」と題された一文です。

「子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつてくるパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つてくる懐しい匂ひとによつて目を覚ますことになつてゐた。母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつてゐた小枝の束を少しづつ折つては燃し附けにしてゐたのが私の枕下に伝はつたのであつた。」
「じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。ところがたまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であつたことに気がついたのである。思へば、良い匂ひの記憶がふと蘇つたことから、私の考へは遠く日本民族の問題にまで導かれていつたのであつた。」

柳田國男「故郷七十年」より

●こうしてクロモジの木の香りに導かれて、はるか古代の日本民族の来し方をクス科クロモジ属・タブノキ属の木材を丸木舟として南島からこの大八洲へたどりついた「海上の道」として提示してみせた最晩年、齢八十歳を越えた柳田翁が保ち続けていた幼時の匂いの記憶を思うと、うっとりするほど甘美であると同時に慄然とするような感じさえも覚えてしまいます。フロイト的な無意識的記憶とユング的な集団的無意識、というようなパラダイムに安易にあてはめたくはないのですが、そこではまさにそれがきわめて鋭敏な感覚によってリアルにひきだされているのですから。

●あるいはまた、男色家でもあったというプルーストにより近い存在として思いおこすべきは、コカイン常習によって嗅覚を失いながらも「匂いは記憶だ」と主張し、いちはやくその著書「古代研究(民俗学篇)」の口絵にタブの木の写真を掲載してみせた折口信夫博士だったのかもしれませんが。

古代研究〈1〉祭りの発生 折口信夫 / 古代研究〈1〉祭りの発生

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