* 雨の日の女 ◆ その35*

絵と文・稲村 光男

RAINYDAY WOMEN #12&35

books & records review with lyrical illustrations
by mitsuo inamura
初出誌◆ フリーペーパー「献血劇場」VOL.35 ◆ 20000120 / 初版発行
「雨の日の女」ロゴ
雨の日の女
… but I would not feel so all alone, everybody must get stoned.
◆◆◆

『雨の日の女』は、「この堂々めぐりの世の中からのがれることはできないものか」ということを、本やレコードといった物件をとおして探究するページです。

今回の物件 ◆ 澁澤龍彦「少女コレクション序説」

「あのスインギング・ロンドンのみんなは
何処へ行ってしまったの?
オシー・クラークやマリー・クワント、
クリスティン・キーラーはどうしてるの?
ジョン・スティーヴンにアルヴァーロ、
いったいみんな何処へ行っっちゃったの?
ミスター・フィッシュとミスター・チョウ、
ああ、あのひとたちはいま何処にいるの?」

"Where Are They Now?" / Raymond D.Davis

これは最も愛すべき大英帝国のロックンロール・バンド、ザ・キンクスの小屋掛芝居風ロック・オペラ、「プリザヴェイション」第一幕にある「忘れられた人々」という歌の一節です。けれどこのなかで、とりわけ万年少女のみなさまにはいまなお忘れられていないのがマリー・クワント女史の名前なのではないでしょうか?
ぼくはちょっと前に古本屋さんでこの人気ブランド創設のことが綴られた「マリー・クワント自伝」という本を見つけて読んだことがありました。あの「ミニ・ルック」を発表してファッション界にセンセーションを巻きおこし、一躍60年代スインギング・ロンドンの寵児となったばかりか世界中にも影響をおよぼし、ビートルズと同じく外貨獲得の功で女王陛下に勲章までいただいてしまったという女の子のお定まりの成功物語なのですが、そこには思いのほかいまのぼくらにとっても考えさせられてしまうポイントがあったのです。

雨の日の女#35 挿絵1・mary quant

ひとりの少女が没個性的なおしきせの様式を拒んで、ほんとうにステキなおしゃれを求め産み出したスタイルが、同世代の共感を呼んでひとつの言語となり文化となっていくという夢のような日々。けれど気がついてみるとそれはいつのまにかみんなの制服になってしまい、没個性的なおしきせの様式になってしまっていたという「ふりだしへもどる」の堂々めぐり。それをなんとかするためには、安物のイミテーションが出回る前に売り切ってしまい、毎シーズン新しいルックのコレクションを発表することだけ。
つまり、たとえば「ミニ」という記号がステキなものであるためには、世界がそれを個性的なものとして受けとるための有効なコンテクスト=文脈を持っていなければならないというおはなしで、そんなことは60年代の夢が醒めてからずっと問われてきた記号論の初歩の問題だったはずなのに、実はいまだに手付かずのまま、ぼくらのやっかいな宿題になってしまっていたのでした。

もちろんそれはファッションだけのおはなしではありませんが、かつてはオリジナルなおしゃれのために考案された「ミニスカート」という記号が少女たちにとってみんなと同じであるための免罪符となってすっかり定着してしまったわが国の平成の御代の文化を思いながらこうして降る雪など眺めていると、ふと「昭和も遠くなりにけり」なんて思ってしまう今日この頃なのです。

quant by quant *「マリー・クワント自伝」は、1969年に鎌倉書房のファッション新書として刊行されていますが、もうとっくに絶版、入手困難かと思われます。
*現在では MARY QUANT OFFICIAL WEB SITE の中にある"MARY QUANT STORY"というコンテンツでその成功物語の概略、エピソードの数々を読むことができますので、興味のある方はどうぞ。

MARY QUANT OFFICIAL WEB SITE

西暦の数字が繰り上がったくらいで世紀末だ終末論だなんていうのは、未来をインプットしてなかった時代遅れの旧式コンピュータみたいな、リアルな歴史のヴィジョンをどこかに置き忘れた薄っぺらな妄想人間の気のせいにすぎなかったわけですが、今にして思えば昭和から平成へ、という時代の転換はそんなものではなかったような気がします。経済成長神話がアブクと消え世界が赤色イデオロギーの解消にとりかかりはじめたあの頃、地球上で最も古くから続く呪術王権の世代交代の儀式が行われたわが国では、たしかに時代のパラダイム=枠組みがはっきりと変質してしまったのです。
あなたの感覚にもそんな覚えはありませんか?

さて、そんなふうにして遠くなってゆく昭和の御代などに思いを馳せていると、何より思い出されてくるのは「昭和の子供だ、僕たちは」とかいう童謡を酒宴の席で愛唱していたというかの時代の文学者、澁澤龍彦のことだったのです。

博学多識の万年少年皇帝・澁澤龍彦のドラコニア・ワールド、これほど様々な記号でいっぱいの世界は他にありません。サド、ユイスマンス、バタイユ、コクトー、稲垣足穂。バルテュス、クラナッハ、ベルメール、金子國義。
…こうしていちいちあげていくだけでもこのページが埋まってしまいそうなくらいで、そのうえいまや澁澤龍彦そのひとの名前こそがひとつの象徴として語られるべき記号になってしまっています。

今回の物件は中公文庫版のエロティシズム論集「少女コレクション序説」。
人形愛、アリス、インセスト、ポルノグラフィー、処女生殖…。この本もまたたくさんのアイテムであふれかえったまるでイメージのカタログのような一冊です。
ここでぼくとしては、そんな記号の数々のなんとステキなことでしょう、と言って無条件降伏してしまえればめでたしめでたしなのですが、件の宿題のことを思えばそういうわけにもいきません。
はたしてぼくらにとって、この時代のコンテクストのなかで、それはほんとうに手放しでステキなものなのでしょうか?

澁澤龍彦を語るための言葉のひとつに、「異端」というキーワードがありました。澁澤本人はこの言葉を後生大事にしていたので、実はほんのわずかなところでしか使っていなかったという、それだけ重要な記号だったわけですが、やがて堂々めぐりの世は移り、いまではぼくらにはもう異端であることなんてほとんど不可能なことになってしまいました。
厳しさが喪われ溶けだしてしまったように見えながら実はやわらかく徹底的に管理されたこの時代のぼくらには、たいていのことが許されてしまっていて、だからこそほんとうに有効なことは何ひとつできないカラクリになってしまっているのですから。
ここではさしもの万年少年皇帝の異端の肖像さえも、まるで象徴天皇の陛下の御姿のようにもどかしく映ります。
まったくなんともやりきれない時代になってしまったものです。

澁澤龍彦は大好きだけどいわゆるシブサワ系のひとはどうも苦手、ということは前にもちょっと書いたことがありましたが、それはつまり、そんなもどかしさも感じないで耽美とか人形愛とか暗黒とかいった「異端」の記号をもてあそんでよろこんでいるなんて、気色悪い単なる変態だなあ、と思ってしまうからです。別に勝手にすれば、と思っていたけれど、国の辱のような気もするのであえて言ってしまいますが、そんなのちっともステキじゃないですよ。
そんなふうになるくらいなら、ぼくはもうお腹でも切って死んでしまいたい。

けれどぼくは、「結局のところ澁澤龍彦なんて、高度経済成長の途上のまだまだ貧しい日本にあってかっこよさそうに見えたというだけのことで、こんなにも情報化され均質化された状況ではもう無効、というか時代遅れですね」とか言ってすましていられるほどおりこうさんにもなれません。そんなふうに開き直ったところでぼくらのたましいが救われるわけでも何でもなかったのです。

ぼくが彼のことをたましいの底からステキだと思って感激してしまったのは、ちょうどぼくが生まれたその日に、わが国を憂いてほんとうにお腹を切って死んでしまった朋友を悼んで綴られた「絶対を垣間見んとして…」と題された追悼文なのでした。
いつものクールな澁澤調もかなぐりすてて、この世の堂々めぐりに正面から挑み、あちこち破綻することもかえりみず奇怪なほど昂った異様な調子で語られたほんとうの意味でステキな言葉のひとつひとつを、ぼくは決して忘れることができません。
ぼくらがめざすべきものは、永遠に、純粋なたましいの解放でしかありえない、ということを、ぼくはそこでこの大先輩に教えてもらったのですから。

雨の日の女#35 挿絵2・人形愛序説

「『少女コレクション』という秀逸なタイトルを考え出したのは、自慢するわけではないが私である。」

…という、いかにも万年少年らしい得意げな宣言にはじめるこのエッセイ、「少女コレクション序説」に立ち戻って、ぼくはもう一度「少女」という記号について考えてみました。
思い返せば、あの昭和の終焉のころ、気色悪いひとりの変態が想像しただけで胸が悪くなるようなおぞましい儀式を執り行っていて、それが連続幼女誘拐殺人事件として明るみに出たことが、この平成の御代のはじまりでした。
そしてそのおぞましさはこの社会で許されるかたちに姿を変えて拡散し、あの事件の幼女と同世代のはずのこの時代の「少女」たちは、気がつけば性風俗の分野で消費される記号ということになってしまっています。
ああ、それがこの時代に生きるぼくらの共有するコンテクストの正体だったとするなら、ぼくらにできる何かほんとうにステキなことなんて、いったいどこにあるのでしょうか?

そこでひとつ気がついたことは、澁澤大先輩の残してくれたのは少女コレクション論の「序説」だったということでした。
もしも昭和の終焉を目の前に逝ってしまった彼のこころざしがこの時代まで生きのびていたならば、その続きはどんなふうに書き綴られるべきなのでしょうか?いまだに誰もそれをやって見せてくれたひとなんかいないのです。
不肖の後輩ながらぼくがやるべきことは、それを書き継ぐことなのかもしれません。それもとびきりステキな言葉ステキな歌ステキな詩として。あるいはそんな言葉を紡ぎだすようなステキな絵にして描き出したい。
それがぼくのこころざしなのです。

願わくはすこしでもそんなイメージを描くことができますように。そうしてこの堂々めぐりの世の中で、ほんとうの意味でのステキな「異端」であり続けること、たとえばあの60年代ロンドンの街キングス・ロードを、はじめてミニ・スカートをはいて歩いたチェルシーの少女の胸のときめきみたいな無垢なたましいを持ち続ける万年少年少女であることは、はたしてできないものでしょうか?

■つづく■

今回の物件 ◆ 澁澤龍彦
「少女コレクション序説」

1985年 中央公論社・刊
「エロスの解剖」「ヨーロッパの乳房」「人形愛序説」などの単行本から選ばれたエッセイ集。表紙と口絵を飾る四谷シモンの人形はやっぱり絶品。ぼくにとっても少女とエロティシズムが重要なテーマになってしまったのはこの一冊のおかげさまで、「ポルノグラフィーをめぐる断章」にある「サロメ」の挿絵のおはなしなどにはひどく刺激されてしまったものでしたが、いま読み返してみても、時代へのもどかしさが綴られた「セーラー服と四畳半」、このひとが記号論的相対主義の彼方を見つめていたことがわかる「幻想文学の異端性について」、そのうえでぼくらがもう一度帰っていくべきところが示された「幼児体験について」といった文章のなかにはていねいに読み取っていつまでもたいせつにかみしめていきたいステキな言葉でいっぱいです。
●ブック・ガイド → 澁澤龍彦の本をさがす
本文中で触れた追悼文「絶対を垣間見んとして…」は「三島由紀夫おぼえがき」などに収録されています。多くの著作は河出文庫や中公文庫にまとまっていてぼくもほとんどは文庫本で読んだ世代ですが、装丁がいい本はハードカバーで持っているとやっぱりちょっとうれしい。ちなみにぼくの宝物は装画をてがけた金子國義画伯にサインを入れていただいた「世界悪女物語」です。

雨の日の女・リストマニア】|【復刊リクエスト

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付記 20050412 ◆ 浅羽通明
澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史

1993年 青弓社・刊
「雨の日の女」その35は、執筆中にたまたま読んでしまったこの本にひどく影響されて、ほとんどその論旨の換骨奪胎みたいなかたちになってしまいました。ぼくなりに強い共感をもってこの400ページ近い労作から読み取ったものを2ページに要約しつつその問題提起になにか応えようとしたもの、としてとらえていただければ幸いです。
澁澤龍彦論としてはもとより、ぼくらの時代についての考察も目からウロコが落ちるような視座を得ることができる名著なので、ぜひあわせてご一読ください。
●ブック・ガイド → 浅羽通明の本をさがす
浅羽通明氏についてはその後ぼくがもうひとつこだわり続けている「ナショナリズム」といったテーマについても多くの示唆を与えていただいたりといった因縁もあり、それについてはまたいつか別の機会に語ってみたいと思いますが、寡作ながら同時代の最も重要な思想家として、私淑しています。
「澁澤龍彦の時代」とあわせておすすめしたい「天使の王国―平成の精神史的起源」は文庫化もされました。

●2005年の最新刊 >> 教養としてのロースクール小論文―講義録

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