* 雨の日の女 ◆ その36*

絵と文・稲村 光男

RAINYDAY WOMEN #12&35

books & records review with lyrical illustrations
by mitsuo inamura
初出誌◆ フリーペーパー「献血劇場」VOL.36 ◆ 20000430 / 初版発行
「雨の日の女」ロゴ
雨の日の女
… but I would not feel so all alone, everybody must get stoned.
◆◆◆

『雨の日の女』は、「この堂々めぐりの世の中からのがれることはできないものか」ということを、本やレコードといった物件をとおして探究するページです。

今回の物件 ◆ サニーデイ・サービス「東京」

今回は、ぼくらの時代についてのおはなしです。

ほんとうにリアルな歴史のヴィジョンてどういうことだろう?
そんなことを思いながら電車にのって上野の駅を過ぎるとき、思い出されてきたのが杉浦日向子の「合葬」という漫画作品です。ここで百数十年前に起こった、わずか数時間の小さな戦争のことです。遠いようで近くて、けれどやっぱり遠い、そんな時代の風景の中に描き出されたまるで等身大のぼくらみたいな少年たちの姿。その奇妙に絶妙なパースペクティヴにかすかにめまいがするような不思議な感覚をおぼえながら、いつか時が過ぎて今が昔になってしまったとき、こんなふうに生きているぼくらの姿はどんなふうに見えるんだろう?そんなことを思ってしまったのでした。

合葬
杉浦 日向子

そういえば杉浦日向子というひとはいまではすっかりお江戸博士として人気者になってしまいましたけれど、だらしのないポストモダンくずれのひとたちが彼女の提示する江戸文化をもてはやしてプレモダンな世界に退行してしまうようなこの風潮は、ぼく自身が作ったものが「レトロな感じでいいですね」とか言われてしまったときの居心地の悪さにも似ていて、なんだか複雑な思いがします。
レトロスペクティヴ趣味、それもたしかにファッションとして楽しいものかもしれませんが、そこに安住してしまうだけなのではあまりにもつまらない。ぼくがめざしているのはもっとほんとうにステキなことなのですから。
けれど困ったことに、いつのまにかぼくらの時代の文化は、どうもお江戸の文化そっくりになってしまったみたいなのです。

雨の日の女#36 挿絵1 青春狂走曲

長い間ぼくらの時代の世紀末のことを思い続けてきたぼくは、1999年になって転向し、そこから敵前逃亡することに決めました。それは結局のところ何の終末もなく無事過ぎていこうとしているためではなくむしろその逆で、ぼくはこの数年のあいだに、何かが終わってしまったような気がしてしかたがなかったのです。
今にして思えばそのことを予言していたのはノストラダムスなどではなくて、ヘーゲルというひとが説いた「歴史の終焉」というものだったのかもしれません。そしてその予言を承けてコジェーヴというひとが、ポスト・ヒストリカルな生活様式、すなわち「歴史」が終わってしまったあとのこの世界でのぼくらの生き方は、アメリカ的な文化が支配的になるだろう、と言った後に、いやむしろそれは日本的な文化であるにちがいない、と述べたこと。

徳川体制の元で数百年にわたって内乱も対外戦争もない世界史上未曾有の生を経験したこの国の文化が、20世紀末にいたって憲法九条という一種の鎖国令のもとに再び爛熟をきわめ、人類文化史の究極にたどりつくべき生活様式をついに獲得いたしました。過去にご先祖様があらゆるご苦労様を積み重ねてきた「歴史」はこれにておしまい、めでたしめでたし、というわけです。

けれどぼくは思ってしまうのです。
これで「はっぴいえんど」?それでほんとうにいいのでしょうか?
ぼくらはどう終わるかじゃなくて、どうはじめるかだったはずなのに。

雨の日の女#36 挿絵2 街へ出ようよ

お茶の水の駅で電車を降りて、信号を渡ると交番があります。ぼくはあの交番が破壊され炎上している写真を見たことがありますが、たった30年前のその出来事もまるで上野戦争の遺蹟を見るように遠くに思われてしまいます。なぜならぼくらのこの時代、レヴォリューションという言葉はジョン・レノンが電気ショックのような三連ファズ・ギターにのせていみじくも予言してみせたようにただのたわごとでしかなくなってしまい、かつて日本のカルチェ・ラタンとよばれたというこの街はミック・ジャガーが歌ったロンドンよりもずっと眠たげな顔をしているのですから。
そんなことを思いつつレコード屋さんに入ってみると、ドブネズミ色の服を着たひとたちがビートルズやローリング・ストーンズのレコードを漁っています。それがかつてはステキなものを求める少年少女の音楽だったなんて信じられなくなるような光景です。

ああ、ほんとうに「歴史」なんて、とっくに終わってしまったものなのかもしれません。ぼくらはこれからずっと、ほんとうにステキなことはもう起こらないこの世界で、無意味な記号的差異をもてあそぶ堂々めぐりを繰り返すだけなのでしょうか?

アメリカから遠く離れた空の下で花開いたお江戸の文化は、浦賀沖にあらわれた4隻の蒸気船、つまり異界との交通によって散り敷いて、一夜の夢と消えてしまいました。ぼくらの時代にもそんな異界はついこの間まではたしかにあったはずで、たとえば地球の裏側の国から届けられた小説「百年の孤独」をあげるまでもなく、わが国の「路地」という異界から語られた「千年の愉楽」のような神話的な物語は、堂々めぐりに安住していたぼくらの目を覚まさせて夜も眠れなくしてしまうくらいにステキな言葉でいっぱいだったことが思われます。
けれどそんな物語を最後に、この20世紀の終わりになって、ぼくはこの時代にステキな言葉を見失ってしまいました。懐かしい感情がいきいきと息づくことを求めてみたりもしたけれど、ほんとうはレトロ趣味などどうでもよかったのに。すべては大平の眠りのなかで、まるで死んでいるみたいに思えてしまったのです。
それでぼくはこのページでこれまで一度も1990年代の物件をとりあげたことがありませんでした。

そんなとき、まるで香ばしいコーヒーの香りのようにこの街に流れて、ぼくらの目を覚まさせてくれるようなステキな音楽に出会いました。

風に乗って香り高く
苦い涙ほろほろと
喫茶店の窓辺から
花咲く朝の通りへと
コーヒーと恋愛が
共にあればいい
娘さんたち気をつけな
コーヒーの飲みすぎにゃ

「コーヒーと恋愛」サニーデイ・サービス

というわけでそのレコード、サニーデイ・サービスの「東京」は、初めてここに登場するぼくらの時代の「今回の物件」なのです。

雨の日の女#36 挿絵3 恋におちたら

どこかの家に咲いた
レモン色の花ひとつ
手みやげにしてそっと
きみに見せたいんだ
長い髪花飾り
どんな風に映るだろうと
考える道すがら
愛しさ広がるんだ

「恋におちたら」サニーデイ・サービス

女の子に花の髪飾り、万葉集の昔からくさるほど歌われてきたモチーフ。ありふれていると言ってしまえばあまりに陳腐な歌詞のこんな歌にぼくがすっかり魅せられてしまったそのわけは、ちょうどそのころそんな恋の真ん中におちてしまっていたからというだけのことではなくて、またはっぴいえんどをはじめとするあの時代のフォーク・ロックへのレトロ趣味のためだけでもありません。

1995年のはじめごろ、ぼくはこのページに「特に根拠はないのですが、ぼくらの世紀末は抒情の時代だという気がしています」と書きました(「雨の日の女」その19)。それで1996年に出たこのレコードの、ひどく時代不明なたたずまいのこんな歌に、ぼくらの時代の生命がこもりあざやかによみがえるのを感じて、ぼくはぼく自身のささやかな予言が現実になったことを確信してしまったのでした。

はねを広げた空を
切りとるような雲ひとつ
ゆっくりと流れて
心を切り刻む
朝に目覚めた風は
君に届いただろうか
その髪を風にまかせ
きみはぼくを待つんだ

「恋におちたら」サニーデイ・サービス

こんな情景を聴いていて、浮かんできたのは杉浦日向子の「合葬」のなかでもぼくがいちばん好きな場面、物語の終わりで二人の友達をあっけなく失って会津をめざす敗走路を駆けていく彰義隊士の少年が、頬を切る風を感じながら見上げたとびきりの青空が描かれた見開きの2ページだったのです。
それにもうひとつ、こんな青空をぼくは前にも見たことがありました。あのプラスティック・オノ・バンド「ライヴ・ピース・イン・トロント・1969」のレコード・ジャケットで。

Live Peace in Toronto, 1969
Live Peace in Toronto, 1969

ここにはもはや江戸もなく、近代もポスト・モダンもなく、あるものはただ堂々めぐりの世の移り変わりをつらぬいていついつまでも変わることのない少年少女の無垢なたましいが持つまじりけのない抒情性だけ。いつだってぼくらの上にあるのはこんな空だけだったのですから。それはまるで「イマジン」の歌のように。

サニーデイ・サービスの音楽は、そのページいっぱいに描かれた青空のようにステキな抒情性でいっぱいで、ぼくはこのひとつ年下の吟遊詩人の歌を聴くたびに、まるで恋する乙女のようにいろんな思いで胸がいっぱいになってしまいます。同じ時代にこんな歌に出会えたことが信じられないくらいうれしくて、泣き出しそうなほど悔しくて。それでぼくも、ほんとうにステキなぼくらの時代のテーマをもう一度思い描いてしまいました。それが"LYRICAL POP RENAISSANCE"という言葉なのです。

「百年の孤独」も「千年の愉楽」も越えてぼくらがほんとうにステキな言葉を語りはじめるなら、こんな「万年の少年少女の抒情」からはじめること。
それは「レトロスペクティヴ」でも「レヴォリューション」でもなく、ステキな言葉ステキな詩ステキな歌がぼくらの時代によみがえる「ルネッサンス」にちがいありません。

ひとつの物語が
終わってはまた始まって
ぼくはといえば
道端に放り出されたまま

「きれいだね」サニーデイ・サービス
さよなら!街の恋人たち

神保町の通りの恋色の街角に立って一服しながら、眼鏡屋さんのショーウィンドウに飾られたジョンの肖像を見て、ぼくはお江戸ではなくて、ぼくらの時代の「東京」を見つけに行きたい、と思いました。
そこにはきっとあるはずのぼくらの物語を見つけだして、そのステキな歌ステキな詩ステキな言葉でこの世の堂々めぐりを越えてしまうこと、終わってしまった「歴史」がもういちどそこからはじまるようなぼくらの時代のルネッサンスをつくりだすことは、はたしてできないものでしょうか?

■つづく■

今回の物件
◆ サニーデイ・サービス「東京」

1996 MIDI INC.
曽我部恵一くんのLYRICAL POPな世界が花開いた彼らの二枚目のアルバムは、非のうちどころのない大傑作。駒沢裕城さんのスティール・ギターなど一見レトロスペクティヴにも思える音楽的意匠はかつてなかったほどあざやかな生命を得て、そのみずみずしい抒情性はずっとぼくが会いたかった少女に出会ってしまったようなまぶしさとも重なって、ひときわステキに聴こえてくるのです。ぼくがこの時代この国に生きていてよかったと思うことのできた数少ないレコードのひとつ。この一枚で救われてしまいました。
●ディスク・ガイド → サニーデイ・サービスのCDをさがす
「雨の日の女」その23でもすこし触れているメジャーでのファース・トアルバム「若者たち」から、ラスト・アルバムとなった「LOVE ALBUM」まで、どれも傑作。というわけで、限定"MIDI"コンプリート・ボックスを入手しても損はありません。これから聴いてみようという方にはやっぱり「東京」か、もしくは「Best Sky」がおすすめ。
残念ながらサニーデイ・サービスとしては2000年末に解散してしまったものの、それ以降の曽我部恵一ソロ作品にも要注目。
ネオアコ系のバンドとしてサニーデイ・サービスのファンになった方も多いことと思いますが、ぜひそのルーツ・ミュージックのステキな世界にもハマってみてほしいもの。そんなわけではっぴいえんどがあらためて再評価されたこともとてもうれしいことでした。
曽我部くん自身が監修しジャックスやはちみつぱいのレア・トラックが選ばれた「ニュー・ロックの夜明け URC編」のCD発売リクエストにもぜひご投票を。

●2005年のニュー・リリース >> ラブレター ラブレター

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