* 雨の日の女 ◆ その37*

絵と文・稲村 光男

RAINYDAY WOMEN #12&35

books & records review with lyrical illustrations
by mitsuo inamura
初出誌◆ フリーペーパー「献血劇場」VOL.37 ◆ 20000729 / 初版発行
「雨の日の女」ロゴ
雨の日の女
… but I would not feel so all alone, everybody must get stoned.
◆◆◆

『雨の日の女』は、「この堂々めぐりの世の中からのがれることはできないものか」ということを、本やレコードといった物件をとおして探究するページです。

今回の物件 ◆ 中上健次「千年の愉楽」

ジョニ・ミッチェルの「ブルー」は、ぼくが持っている最高にステキなレコードのひとつです。

「蒼い、歌は刺青のよう
わかるでしょう、私はむかし海にいたの。
冠を授けて、錨をおろして、
それとも、行かせて。
蒼い色。ここにあなたのための歌。
針に、墨。膚の下に
満たされないうつろな空間。」

"Blue" / Joni Mitchell

この歌を聴き終えるたびにいつも感じてしまううつろな感覚を言いあらわすのはとてもむずかしいことですが、イレズミのイメージをたぐりよせて、ぼくは次のような言葉を思い浮かべてしまいました。

「…さす針、ぬく針の度毎に深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。…」
「…その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。」

谷崎潤一郎の名品「刺青」の一節。三島由紀夫が「人を陶酔させる文章とは?」と問われて迷わず例示した、日本近代文学屈指の名文です。 けれどぼくは、ここでちょっとおそれおおいことを思ってしまいました。もしかすると「ブルー」の歌を聴いてしまった後の思いにくらべれば、この小説の燦爛たる世界でさえもがどこかすこしだけ色あせてしまうのではないでしょうか?

雨の日の女#37 挿絵1 JONI MITCHELL / BLUE

ジョニ・ミッチェルの音楽世界と、大谷崎の文学世界。ぼくにはどちらも掛け値なしに第一級の芸術作品なのですが、そこであえて「ブルー」のほうを選んでしまうのは、その「歌声」のせいかもしれません。先に引いた詩の最後の行を歌う彼女の声をぜひ聴いてみてください。
ほんとうにステキな言葉をめぐる、「文字」に対する「声」の圧倒的な優位。そんなことをどうしても感じてしまうのです。

ブルーブルー
ジョニ・ミッチェル
刺青・秘密刺青・秘密
谷崎 潤一郎

はるか昔の吟遊詩人たちにとって、「詩」と「歌」はひとつのものでした。ステキな言葉は「声」によって歌われ、語られるものだったのです。けれどグーテンベルグというひとが発明した活字印刷は「文字」による言葉の支配を決定的にしてしまい、いつのまにか詩人たちは「声」を失ってしまっている。そのことを告発して「声をとりもどしたステキな詩のルネッサンス」を夢見たのは1950年代のビートニク詩人たちで、その夢が現実になったのが、1960年代のポップ・ミュージックなのでした。

「ボブ・ディランが"You've got a lotta nerve"(Positivity 4th st.)って歌うのを聴いたとき、こう思ったの。『ハレルヤ!アメリカのポップ・ソングもこんなに成長して、視界がずっと開けたのね。もう文学でしか表現できなかったようなことでも、何だって表現できるじゃない』」

(ジョニ・ミッチェル 1985年のインタヴューより
ビル・フラナガン著「ロックの創造者たち―28人のアーティストは語る」所収)

「ブルー」という歌のステキさは、こんな現代詩文学の流れのひとつの到達点にあったのです。

けれどくれぐれも誤解のないように。ぼくはここで「文学よりも音楽のほうがステキですね」なんてつまらないおはなしをしたいわけではありません。そのために今回はもうすこしだけステキな言葉の歴史をおさらいしてみようと思います。

はじめ「文字」を持っていなかったわが国に、海を渡ってやってきた漢字という表意文字。そこではきっと神代の昔から口伝えに歌物語を受け継いできた語り部たちが「声」を奪われてしまったにちがいありません。そんなときに万葉仮名による助詞表記、つまり「文字」に意味だけではなく「声」をもつなぎとめるテクニックを発明したのは柿本人麿という天才詩人で、それを仮名文字という体系として完成したのは平安朝の女流文学者たちでした。
とりわけ「古今集」のなかでもいちばんステキに歌っている詩人が小野小町という「満たされるためのうつろな空間」を抱えた膣閉塞の美女だったことは、どこか恋多きシンガー・ソングライターとして浮き名を流したジョニ・ミッチェルを思わせてくれて、この時空を超えたふたつの声と文字の歴史がまるでひとつの定型の上に歌われた詩のように展開したことが、なにかを暗示しているような気さえしてしまうのです。

さてここからが本題です。はたしていまぼくらのまわりにあふれかえっている言葉のなかにステキな「声」はあるのでしょうか?

ステキな言葉をめぐっての「文字」と「声」、パロールとエクリチュールの歴史をふりかえりながら、ぼくは思ってしまうのです。いまさら「言文一致」がどうしたとか「日本語のロック」がこうしたとか言うのは古臭いおはなしではあるけれど、ほんとうはひとつも解決なんかしていなかったのかもしれなくて、もしかするとぼくらは歴史上かつてないくらい貧しい言葉のなかに生きているのかもしれません。いつのまにかぼくは文字どおりただの文字でしかないぼくらの時代の文学なんかにこれっぽっちも興味を持てなくなってしまったのですから。
まったくこんなことではご先祖様にも申し訳がありません。もうぼくらにはほんとうにステキな言葉を見つけることなんてできないものなのでしょうか?

雨の日の女#37 挿絵2 谷崎潤一郎ラビリンス 初期短編集

今回の物件はぼくが知っている「最後の文学」、谷崎の再来とも言われた不世出の小説家・中上健次の連作「千年の愉楽」。
それはまるですぐれたジャズの演奏のように、声に出して語られたその瞬間空気のなかへ四散してしまう堂々めぐりの運命にあるステキな言葉を誰にもまねのできない特異な文体で文字につなぎとめた奇跡的な物語だったのです。

「路地」と呼ばれる被差別の土地に高貴で澱んだ血を引いて生まれ落ち若くして死んでいく6人の若者たちの、ほんとうの意味で神話的な、ほんとうの意味での「物語」。ここでぼくはこの堂々めぐりの世の倫理も道徳も、死者と生者との境界も、それにはるかな時空をも超えてしまう、ほんとうの意味でシュールレアリスティックでステキな世界に出会うことができるのでした。それはたとえば次のように。

「オリュウノオバは後になっても文彦から聞かされたその女との出会いの話を中本の血の若衆にふさわしい淫蕩だがあえかな物語のようだと思い、オリュウノオバの顔を青みがかった形のいい眼で見つめて話す文彦とそばで微かに笑みを浮かべて首をこころもち傾げてそれを聴いている女の二人がオリュウノオバにつくり話をしていたようにも見えてくるのだった。二人は千年も前のやんごとない身の女人でオリュウノオバもまた千年も前からそうして話を聴いている。一陣の風が小さな花を先につけた野萩の茂みを揺り名もない草の茂みを渡って来てその文彦の話す物語の中に吹き入れば、物語も二人もオリュウノオバも白骨と化し、破れ放題のよもぎやチガヤの生えた家と化す。」

(中上健次『千年の愉楽』「天狗の松」より)

このうえなく豊饒なエロティシズム、わが国の闇の側から透視された歴史、それらを踏まえた高度な神話的構造、それにもましてこの小説がほんとうにステキな言葉でいっぱいな理由は、文字の読み書きができない、路地でただ一人の産婆であるオリュウノオバによって取り上げられた物語として成立した、まぎれもない「声」の文学だったからにちがいありません。決して描写するのではなくあくまでも語るための「声」を基調に据えた特異な文体、読むというよりも耳を澄まして聴き入ってしまう物語。ぼくはその「声」によってみちびかれ、まるでこの世でいちばんはじめに語られた物語のように異様な世界へと容赦なく想像力をひきよせられてしまうのでした。

雨の日の女#37 挿絵3 中上健次「千年の愉楽」

中上健次が死んでしまったのは、今から八年前の1992年のことでした。それから今にいたるまで、ぼくはこんな異様な世界にぼくらをみちびいてくれる文学に出会った憶えがありません。

実はこの小説のタイトルについては、前回もちょっとだけ触れておきました。「『百年の孤独』も『千年の愉楽』も越えてぼくらがほんとうにステキな言葉を語りはじめるのなら、こんな『万年の少年少女の抒情』からはじめること」と。

思えばほんとうに恐れを知らないことを言ってしまったものでした。けれどしかたがありません。一陣の風が吹き渡ってゆき気がついてみると最後の語り部だったオリュウノオバも白骨と化し、「路地」は解体され「差別」は隠蔽されてしまったのっぺらぼうでうすっぺらな堂々めぐりのこの世界で、ぼくにはもはや物語、つまり「千年の愉楽」のような叙事詩を語ることなどとてもできそうにありません。それでもぼくらが歌うべきステキな言葉がどこかにあるとするならば、きっとその彼方にある抒情の歌でしかありえないと思うのです。

そんな「万年の少年少女の抒情」を歌うこと。もっとはっきり言ってしまうなら、たとえばぼくの描く絵が「描写」するよりもまずステキな言葉を「語る」ための「声」を見つけだすこと。そう思うとなんとなく、ぼくにはこれからめざすべきところがすこしだけ見えてきたような気がするのです。

そうしてぼくらがこの堂々めぐりの世を跳び越えた世界を手に入れることなんて、はたして無理なことなのでしょうか?

■つづく■

今回の物件 ◆ 中上健次「千年の愉楽」

1980年 河出書房新社・刊
河出書房の重役室に監禁され机にはいつくばりつつ執筆されたというこの小説の第一話の原稿の異様な文字を見たとき、ぼくはふたつのイメージを思い浮かべてしまいました。ひとつはシュールレアリズムの自動筆記、もうひとつは神憑かりした巫女のお筆先という印象。いずれにしてもそれは想像力がみちびいた声が文字となってあふれだした貴重な瞬間だったにちがいありません。この作品と「声」については、昨年(*1999年)奥さんへの後追い自死で話題になった文芸批評家・江藤淳による「『路地』と他界」という論考(河出文庫版「千年の愉楽」に併収)にくわしいのであわせてご一読を。
●ブック・ガイド → 中上健次の本をさがす
芥川賞受賞作「」から「枯木灘」「地の果て 至上の時」へいたる「秋幸三部作」は必読。「水の女」「化粧」「蛇淫」といった短編集も「千年の愉楽」と並んでおすすめ。
土方作家のようなイメージとはうらはらにおそるべき知性をも併せ持つ勉強家だったことは無名時代からの朋友・柄谷行人も認めるところで、小説作品のみならず「鳥のように獣のように」「破壊せよ、とアイラーは言った」などのエッセイ集や対談・座談なども見逃せません。全集・選集のほか、発言集成も要チェック。
ちなみにぼくが最初に読んだのは「十九歳の地図」でした。

●2005年の最新刊 >> 「南回帰船」 南回帰船

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