* 雨の日の女 ◆ その37* 【番外編】

絵と文・稲村 光男

books & records review with lyrical illustrations
by mitsuo inamura

RAINYDAY WOMEN #12&35

ギターをひく少女

「雨の日の女」ロゴ

… but I would not feel so all alone, everybody must get stoned.
初出誌◆ フリーペーパー「献血劇場」VOL.37 ◆ 20000729 / 初版発行

このページは、フリーペーパー文化誌「献血劇場」誌上に連載された本とレコードに関するエッセイ「雨の日の女」の「番外編」として発表されたものです。
ぜひこちらの本文とあわせてご覧ください。
●本文 >> 雨の日の女#37 / 中上健次「千年の愉楽」

◆◆◆

「雨の日の女」その37*番外編
ぼくの大好きな「物語」〜「牛若丸」と「日本武尊」

幼いころからぼくが好きだったおはなしに、「牛若丸(うしわかまる)」の物語と「日本武尊(=倭建命・やまとたけるのみこと)」の神話がありました。
最近になってぼくはこの二人、つまり清和源氏の九郎御曹司・検非違使左衛門尉義経公と景行天皇の皇子・小碓命(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとをぐなのみこと)の伝説のことを思い出し、あれこれ思うことがあったので、今回はちょっとそのことを書いてみたいと思います。

というのも、中上健次の作品の中に出てくる彼の故郷・紀州熊野に累積した数々のステキな物語を読んでいて、すっかりうらやましくなってしまったぼくは、ぼくの生まれた地(宮城県生まれです)にもそれに対抗できるようなおはなしはないものか?と考えてみたのですが、実際のところ日本の古代史を見渡してみても、そんな東国の果てまでやってきた可能性のありそうな貴種流離譚の主人公といえば「牛若丸」と「日本武尊」、この二人くらいのものだったのです。

源義経

さて、みなさまはこの二人が次のようにとてもよく似た運命をたどっていることにお気付きでしょうか?

【い】:実兄にあたる大碓命の手足を引きちぎって惨殺した日本武尊と、鞍馬山で鴉天狗に剣を習ったとも伝えられる遮那王・牛若。どちらも年少にして奇怪な力を得ている。

【ろ】:伊勢齋宮・倭比売命(やまとひめのみこと)に託された衣裳を身に纏い女装して熊襲建(くまそたける)兄弟を征伐した日本武尊と、女児と見紛うような稚児の姿で武蔵坊弁慶を負かした牛若丸。初戦において両性具有の特質を武器に勝利している。

【は】:「タケル」の称号を献上した熊襲建(川上梟師・かわかみたける)と、従者として忠実に仕えた武蔵坊弁慶。それぞれ最初に対決した相手に崇拝されるに至ったこと。

【に】:東奔西走して戦いに明け暮れた生涯。日本地図に照らしてみると二人のたどったコースも畿内を中心に九州へ、そして東国へと、かなり近い。

【ほ】:出雲建(いづもたける)に偽りの剣を与えだまし討ちにし、蝦夷の放った火を草薙剣(くさなぎのつるぎ=天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)で払い逆に利用した日本武尊と、一の谷の合戦では背後の断崖絶壁からひよどり越えの逆落しなる奇襲をかけ、壇の浦では潮流を見て八艘飛びの軽業を見せた義経公。戦いにあっては天才的な奇計を用い、あざやかな身のこなしで連戦連勝を重ねている。

【へ】:熊襲征伐から帰還するも父である人皇第十二代・景行天皇より蝦夷を討つべく命を受け「天皇既に吾死ねと思ほす所以か」と嘆いた日本武尊と、平家追討に成功しながらも兄である鎌倉殿・頼朝によって鎌倉への凱旋を許されず腰越状をしたためた九郎判官義経。拡張する黎明期の政権を担う権力者である肉親にうとまれることから始まる悲劇。

【と】:荒らぶる海神を鎮めるべくみずから人身御供となって船から身を投げ海底へ沈んだ弟橘姫(おとたちばなひめ)と、吉野山で峰の白雪をふみわけて生き別れた「しずのおだまき」の歌でも知られる静御前。献身的な女性を犠牲にして死地を逃れていること。

【ち】:伊吹山にて傷を負い「やまとはくにのまほろば」の歌を残して伊勢の能煩野(のぼの)に崩じた日本武尊と、奥州平泉藤原三代の栄華を兵どもが夢の跡として衣川に果てた義経主従。こころざし半ばにしての無念の最期。

【り】:天翔る白鳥伝説となって三つの御陵を残しさらに西方へ飛び去ったと伝えられる日本武尊と、三廏から蝦夷島へ、果ては大陸へ渡りその後身は蒙古帝国の太祖・成吉思汗(ジンギスカン=チンギス・ハーン)なりという説さえ唱えられた御曹司島渡り伝説の義経。いずれも死後に華麗な不死伝説が残されている。

こうして見ていくと、この二つの伝説はまるで同一人物についての伝承の異なったヴァリエーションみたいにすら思えてきます。二人は800年の時を越え、ひとつの同じ物語を生きたのかもしれません。
もちろん記紀に描かれた日本武尊が同時代資料に欠けるため実在した個人としては認めがたいという意見が優勢であるのに対して、鎌倉幕府の編纂した「吾妻鏡」はもとより、九条兼実の「玉葉」はじめ当時の公卿の日記にも頻出する源義経なる武将が実在した人物であることは疑いのない史実なのですが、だからこそぼくは人々の共同幻想を秘めた口承文芸としての物語の定型のおそるべき呪縛力を感じてしまいます。
つまり、「物語」とはただのおはなしではなくて、「生きる」ということだったのかもしれません。

ヤマトタケル

中上健次はみずからのことを「さながらひとりの弁慶のようであった」と語ったことがありました。熊野別当の落胤といわれる武蔵坊弁慶というほぼ伝説上の人物もまた彼の地が産んだ鬼子だったのです。
そういえばぼくのことを「見かけも描く絵もまるで女の子みたいって思ってその中身や文章を見るとだまされてしまう」というひとがいたりして、われながら性的倒錯の気なんてまるでないのに不思議なことと思っていましたが、もしかするとぼくは女の子と見紛う姿で「弁慶」と対決しようとしていたのかもしれません。
これはあながち冗談ではなくて、「声」を持った文学になぜか「女性」なるものがかかわってくることを思いあわせると、「千年の愉楽」を越えた「万年の少年少女の抒情」をめざすぼくにとって、たいせつなポイントのような気がしているのです。

はたしてぼくはこれからどんな物語を生きることになるのでしょうか?乞御期待。

稲村光男
*1995年頃の筆者、鎌倉鶴岡八幡宮境内にて。
この頃はよく女の子にまちがえられていました。

●ブック・ガイド / 「牛若丸」と「日本武尊」関連

講談社の絵本「牛若丸」 牛若丸

●基本文献として、「古事記」と「義経記」。この二冊はぼくの小学生の頃の愛読書でした。もちろん「日本書紀」や「平家物語」「源平盛衰記」も同様。

●「ヤマトタケルは東征したといっても宮城県まで行ってないのでは?」との疑問もあることかと思いますが、ぼくの故郷にほど近い延喜式内刈田嶺神社・白鳥大明神のお宮の祭神は日本武尊として土着の白鳥信仰と記紀神話の付会がなされていました。その哀切な物語についてはまたいつか書いてみたいと思っているのですが、興味のある方は谷川健一「白鳥伝説」をご一読ください。

●「義経記」の成立については、柳田國男に「東北文学の研究」という優れた論考があります(ちくま文庫版全集9巻角川文庫版「雪国の春」所収)。

●中上健次が「さながら私は弁慶のようでもあった」と書いているのは彼の故郷・熊野を中心とした紀伊半島の文学紀行「紀州 木の国・根の国物語」の中の「田辺」の章。ここで彼はこの被差別部落を軸としたルポタージュ作品についてはっきりと「語り言葉の世界と書き言葉の世界との直結の仕事でもあるが、語りとは書くという行為を越えてある。豊かである。」と言明しています。また、梅原猛との対談「君は弥生人か縄文人か」にもみずからを「弁慶のひとりのようなもの」とする発言あり。

●「物語論」が中上健次にとって主要なテーマのひとつであったことはまちがいなく、随所でその論考が展開されていますが、ある程度まとまった文としては未完ながら「国文学」誌に連載された「物語の系譜」があります。

●ところで、この文を書いた当時ぼくは「構造主義」ということを理解したいとあれこれ考えていて、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」あたりにかぶれていたものです。なにしろむつかしくていまでも理解できたとは思いませんが、橋爪大三郎「はじめての構造主義」が簡にして要を得た読みやすい入門書で、とても勉強になりました。

●そんな流れで、山口昌男「天皇制の文化人類学」などという本を読んでいて、その謡曲「蝉丸」論などに触発されて書いたのが上の文章だったのです。トリックスターとしてのスサノヲを原型としてヤマトタケルと対比し、蝉丸と逆髪などを読みといていくくだりはとてもスリリングなのですが、物語の構造としてはここでぼくがあげた「牛若丸」と「日本武尊」のほうがあざやかに浮かび上がってくる素材なのでは?そんなことを思ってしまったのでした。いかがなものでしょうか?

◆◇ search

古本ギャラリー喫茶 点滴堂