親鸞聖人御絵伝
(しんらんしょうにんごえでん)
宝暦六丙子年(1755)二月十五日、本願寺第十七代法如上人より頂いた掛け軸。
親鸞聖人のご生涯とその教えを描かれた絵巻物で四幅すべて合わせると縦2m20cm横5m70cmとなる巨大なもの。
顕証寺では、年に一度、十一月二十六日~二十八日の報恩講の法要時に奉懸しています。
本堂
正徳六年(1716)、第十一代顕証寺住職・寂寿尼師が願主となり、再建された本堂。
たて×よこ×高さは、各30mを超える大きさ。大阪府内で木造建築としてこの規模のものは非常にめずらしい。
江戸期の彫刻や天井絵など数多く施され、現代に至ってもその表情を見せてくれています。
写真提供‥山田様、道明様、安田様、皆様ありがとうございます!
長屋門付属西長屋・東長屋・渡廊
(ながやもんふぞくにしながや・ひがしながや・わたろう)
ものすごい名前ですが、普段「北門」「西長屋」「東長屋」「渡り廊下」と呼ぶ建物のことです。古い図面には渡り廊下を「香房」と表記されたものもあり、長屋と渡り廊下は行事や法要などで重要な役目をしていたようです。
山門 築地塀(さんもん ついじべい)
最近のものと伝えられていましたが、調査をして頂くと寛政元年(1795)の棟札が発見されました。
ボールは当ててはいけません!
庫裏(くり)
宝永三年(1706)に本堂の再建より10年ほど早く完成された建物。玄関・寺務所・炊き出し用の台所など今もまだお寺の大事な機能をもっています。
写真右は外観、左は内部の吹き抜けの小屋組部分。
顕証寺の歴史(概要)
約500年まえに、本願寺第八代蓮如さまにより建てられました。最初のお寺の名前は「西証寺」でしたが、三代目住職の蓮淳師のときに「顕証寺」と名前を改められています。
現在の顕証寺は、昔の寺内町の南端にあります。約300年前の再建の時に移動しています。町の道筋もその時少し変わったようです。
再建当時(1716年ごろ)は、本堂・対面所・太鼓楼・含月亭(茶室)などかなり多くの建築物を有し、大きな庭園がありました。
70年ほど前にはこの対面所や東長屋などで幼稚園があって、今でも「私、ここの卒園生です!」と訪ねて来られる方がおられます。また、戦中・戦後には最大で30世帯を超える方々の疎開を受け入れていたんだそうです。
また、顕証寺は親鸞聖人の血脈と法脈を受け継ぎ、今の御前は、十九代目住職となっています。昔から、顕証寺の住職は本願寺になにかあったらすぐにでも駆けつけて守ってこられました。実際に三人の方が顕証寺から本願寺に入られ、本願寺宗主・新門となられました。顕証寺は予備継職寺院としての役も兼務してきたのです。
対面所(左)本堂(右)
本願寺第十七代
法如上人
本願寺第二十代
廣如上人
本願寺新門
徳如上人
もっと詳しく!
お逮夜法要とお逮夜市
毎月11日と27日はお逮夜法要が勤まっています。27日は親鸞聖人のご命日の前日の法要、11日は蓮如上人、初代住職、3代目住職の法要として毎月勤まっています。
昭和初期ごろまではこのお逮夜法要にあたって顕証寺や寺内町には市ができるほどにぎわっており、古着・食べ物・くすり・植木・苗木・農耕具・おもちゃなど揃わないものはなかったんだそうです。特に、11月の親鸞聖人の祥月命日に勤まる法要「報恩講」(ほうおんこう)にはちょっとしたサーカスが来たり、漫才や河内音頭なんかもあったそうで毎年報恩講が近づくと当時を知る門徒さんが懐かしんでいろいろと教えて下さいます。
江戸初期、本願寺が東西に分かれ、八尾御坊大信寺が建立されてからは、両御坊を結ぶように市がひろがっていましたが、交通事情が変わり、大部分の露店が禁止され今では商店街に数店舗が店を出すほどに縮小してしまっています。
法要は現在も毎月11日・27日の午後2時から勤まっております。是非ともご参拝下さいね。
昭和初期のお逮夜市の様子
其ノ二、蓮淳師御度牒
(れんじゅんしおどちょう)
折紙、紙本墨書、楮紙 縦27.0cm 横44.4cm
蓮如上人御真筆。
蓮如上人が六男の蓮淳師に「実名兼誉」「法名蓮淳」「仮名三位」を授与された時の文書。この時蓮淳師は十六歳であるところから、おそらく得度して童名「光徳」を替えた時の文書と思われる。当時、公家・武家・寺家の社会では諱や法名授与の時、「家」の通字(諱等に代々使用される共通の文字)を与える風習がある。上人は諱を「兼寿」、法名「蓮如」と称され、蓮淳師に自分の諱の「兼」と法名「蓮」の各一字を与えられている。
文明11(1479)年12月30日
其ノ一、親鸞聖人御影(しんらんしょうにんごえい)
親鸞聖人等身真向きの御影ともいわれる。大津近松顕証寺(滋賀県大津市・現近松別院)にて、蓮如上人の御染筆。
最初の真向きの御真影といわれる。
其ノ三、蓮如上人御救済大蛇骨
(れんにょしょうにんごきゅうさいだいじゃこつ)
蓮如上人がこの顕証寺(元西証寺)を建立の後、石山)本願寺(現大阪城)を建立され、毎日、御説法を欠かす日はなかった。
とある雨の降り止まぬ夜に妙齢の女性が現れて上人の前にひれ伏して申すには「実は私は前生においてままこいじめをした恐ろしい心を持った母でした。悪因悪果の法によ
り大蛇に生まれ変わり、毎日毎日数千万の虫が肉を噛み血をすすり、その苦しみはそれはもう耐え難いものです。
私は今、難波潟に住んでおりますが昼の間、上人の御説法がそこまで響き伝わって参ります。その時苦しみは薄らぐのです。今は夜、お疲れでございましょうが私は夜しか変身できませんので誠に申し訳ありません。私でも仏になれるように承りましたが、どうぞお救い下さいませ。」と。
上人、痛く哀れに思われ、如何なるものも無条件で救われていく阿弥陀如来の本願力の事を誰でもわかる臨終説法としてお話なさった。
大蛇は喜んで、「後世の人々に我が身をさらして、見せしめとして下さい。」と言って帰って行った。
その後、難波潟に屍体が浮かんでいた。指の爪とうろこは枚方の光善寺に有り、胴体は枚方のおろち塚に有るという。御堂さん(北御堂)ができる前に顕証寺に移された。
2、蓮淳師御度牒
(れんじゅんしおどちょう)
1、親鸞聖人御影
3、蓮如上人御救済大蛇骨
(れんにょしょうにんごきゅう
さいだいじゃこつ)
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