沿革
河内平野の中心として、約520年静かに空に向かい合掌する姿で立ちつづけてきた顕証寺は、実に「久宝寺御坊」として人々の心の支えであり、灯火であります。
文明二年この地に来られ、明応年中、蓮如上人は廃寺になっていた聖徳太子の国分寺の一つ久宝寺跡に西証寺を建立され、十一男実順殿を置かれましたが二代目実真殿で血脈が絶え、そこで当時河内十二坊及び多くの僧侶、門徒が、永代末代まで補佐を約束し、その熱意によって、蓮師の第六男蓮淳殿を迎えることができました。
時は天文四年、蓮淳は大津の近松山顕証寺の住職でありましたので、西証寺改め顕証寺とし、久宝寺寺内町としての偉容を完備されました。その間、長島の願証寺、萱振御坊恵光寺を建立され、大津近松の顕証寺、赤野井の顕証寺、南河内大ヶ塚の顕証寺を支坊として、名実共に河内一円の法義の根本道場となりました。
信長との石山合戦にも労を惜しまず、かつては当山は門主直属寺院でありましたので、顕如宗主と共に八年目の和睦に同意しました。がしかし教如御長男の懇願により、蓮如上人時代よりの世話寺である慈願寺を中心に門徒衆に深くお願い申し上げ、ひそかに参戦したのでありました。
その後法系は絶えることなく、顕証寺十一代寂峰は後に、本願寺第十七世門跡法如上人となられ、十三代暉宣の子は文化六年十月顕証寺住職となるも、文政九年宗統を継ぎ、本願寺第二十世門跡広如上人となられました。また十四代摂真の長男は広如上人の法嗣となり徳如新門跡となりました。十六代尊定は、法主代理在職中に入滅しました。
境内地は現在約五千坪でありますが、往昔は四町四方を寺内とし、院家の勅許を賜り、その折菊花の紋の使用を許され、四葉菊の紋を拝領しました。(顕証寺のページの壁紙の紋はその四葉菊の寺紋であります。)現在、瓦その他に菊花の見られるのはその為です。参勤交代の道筋にあったため、当山の傍らを通る時は、紀州公も籠より降りて敬意を表されたと伝えられています。
第二次大戦中までは、顕証寺を護持する寺院数約四百ヶ寺、直門徒戸数四千とされ、当に蓮師のお心をいただいて全寺院門徒一丸となってお念仏の法灯を燃やしつづけて来たにちがいないのでありましょう。
現在、常例法座は「お逮夜」と呼ばれ毎月十一日と二十七日に五百年間勤まっています。特に五月十一日の河内蓮如忌法要は、遠近各地より宗派を越えてお念仏の徳が広がりつつあります。常に門戸を閉ざさず、広く明るく自らの胸襟を開くことこそ蓮師の素意にかなうのではないでしょうか。
