伽藍sagarihuji


本堂
 ◆桁行33.68m   ◆梁行32.20m   ◆入母屋造   ◆向拝3間   ◆本瓦葺    ◆正徳6年(棟札)

顕証寺は久宝寺御坊とも称する一家衆寺院で、本願寺第8世蓮如が明応年間に「西證寺」として建立した歴史を持つ。久宝寺には当寺創建以前すでに一向宗道場の慈願寺があって、この地には早くから一向宗の門徒組織があったようで、蓮如は実子実順を住持させて中・南河内の一向宗の中心道場として布教の拠点とした。なお創建年代については文明11年(1479)とする伝えもある。中世末期河内国でも寺内町を拠点に一向一揆が勃発し、当寺もその打撃を蒙ったと見られ、天文4年(1535)河内門徒衆の懇請により蓮如の第六男蓮淳が大津近松顕証寺と兼帯で入寺して当寺の再興をはかり、同8年にはその子実淳が住持となって西證寺を「顕証寺」と改めた。天文10年に当寺宛に制札が出されている。その内容は不明であるが、畿内の他の寺内町と同様の寺内特権が付与されたと考えられ、同11年頃から本格的な堂が建立されたようである。この時、本山や一家衆寺院に設けられる、西本願寺飛雲閣の祖形となる「御亭」も存在していたようで、本願寺に準ずる伽藍の構成であったと見られる。近世に入って、慶長5年(1600)以降は河内国十一郡の触頭として真宗寺院を支配した。

顕証寺伽藍は現在かなり退転し、正徳6年(1716)上棟の本堂と、同時代の建立と見られる庫裏と裏門(長屋門)があり、明治年間に再建した鐘楼と表門が残るほかは、近年の建物である。
かつて対面所・太鼓楼・含月亭など26余棟を有す大伽藍であった。中でも「含月亭」は慶長年間(1596〜1614)本願寺第12世良如の命を受けて薮内宗匠が造営したものを本山から移築したと伝える。これが正しければ「御亭」か「茶湯座敷」に相当する建物で、前者とすれば本願寺飛雲閣の前身のもので注目を惹くが、近年取り壊されて存在しないのは惜しまれる。

現在の本堂は大阪府下で最大の規模を誇る建物で、本山格に相応しい宏壮かつ荘厳な大堂である。平面は実長(一間六尺)で桁行16間、梁間14間半の周囲に広縁(10.5尺)・落縁(5.3尺)をめぐらし、広縁・落縁は内陣部分で取り込んで、両余間外側に飛檐の間や廊下をとる。

外陣は壮大で、内部に四本の円柱を立てて梁行に三分するように虹梁を架け、さらに内外陣境筋手前一間(17.3尺通りにも虹梁を架して真宗寺院特有の構架とし、矢来の伝統が架構法に残る。外陣廻りは従来の角柱から円柱の使用が徹底されているが、正面通りに棧唐戸を吊るのに大して両側面では蔀戸を吊って邸宅風な趣を呈し古制をとどめる。注目されるのは外陣両側面手前柱間に幣軸を打って開けることのできない板扉を装置した「不開門」を構え、格式を示す。主屋の各柱は小屋裏まで延ばし、組物を置かず挿肘木で出組様に組む合理的かつ近世的な建て登せ柱の手法とする。また根肘木付きの虹梁型飛貫上には出組挙鼻付きを詰組とし、中備に蟇股や蓑束を入れ、さらに捨斗を使って空隙を填める。複雑な組物や特有の虹梁構架法で作り出し、一連に小組格天井を張った堂内は、外側回り同様、重厚である。
内陣部分は金箔・彩色を施すなど、内陣回りは特に荘厳な仕上げとする。

当本堂は本願寺の御堂に倣った真宗本山格本堂の典型的な遺構例である。斬新かつ大胆で派手に扱う虹梁・木鼻類の細部絵様は18世紀前期の特徴がよく表れて一つの指標となる。柱の円柱化に加えて虹梁の多用化や複雑な組物などは、近世の建築技術を集約した質的な面で優れた真宗本堂として価値が高い。
そのほか正徳年間(1711〜15)の建立と伝える庫裏・裏門(長屋門)などがある。

< 大阪府教育委員会「大阪府の近世社寺建築-近世社寺建築緊急調査報告書」より >

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